見ることをもっと楽しめたらいいのに


前回記事・蓼科バラクライングリッシュガーデンレポでの記事追加。

右を見ても、左を見ても草がこちらに向かっている。
その隙間に光が差し込んでいる。
通りぬけたあとの、ぱあっと空が広くなるきもちよさ。
野良猫たちには普段こんな風に世界が見えているのだろうか。
そのうち、通り雨は行ってしまって、雨の雫が光を浴びて、キラキラと光りだした。庭園一面に、水を浴びた植物たちが、ぐわっとエネルギーを発散させているような生気を感じる。このテラスからは、イングリッシュガーデンを一挙に見渡すことができる。その先の木々のことも、空の色も見ることができる。

こんな風に、庭園では見ている場所によって、目に飛び込んでくるものが全く違った。

また、見ている場所は同じでも、どこに目線をやるかで全く違うものが立ち上がってくる。
おもしろいなと思っていると、『風景学入門』という本で、私たちの目の構造という観点からこんなことが書かれていた。

人の視力は、きわめて鋭敏な注視点から僅か30度(月や太陽の見かけの直径にほぼ等しい)も離れれば半分に軽減してしまう性質をもっている。このため、注意を集中している範囲だけが際立った「図」として浮かび上がり、反対にその外側は、そうとうな濃淡模様でも、「地」にかえってしまのである。(『風景学入門』p,43、中公新書、中村良夫著)

私たちの目は”見る”ことのできる範囲が決まっている。
だから、目は見るものを選んでいる。選ばれたものが「図」で、選ばれなかったものが「地」である。

不思議な造形のオータムクロッカスも、猫の道のなかで見えた草花も、庭園全体も、そのさきの空も、私の目によって選ばれたものだ。

普段の生活ではそんなことを意識することはない。
毎日同じ電車に乗り、毎日同じ会社に行き、同じ道を歩いていると、自分がその日何を見たかなんて、覚えていない。

あちこち歩き回って色んなものを”見る”ことがこんなにも楽しかったとは。もっと見ることの喜びを日常にも取り入れることだできたなら、と考える。
どんなにか世界をおもしろく感じるだろうか。

あの道を通ったみたいに、猫の目線になってこの街を見てみようか。
明日からは何か1つ、その日見たものをメモしてみようかな。

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