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創作【短編小説】 唇に寄せて

「あなたのような人には出会ったことがありません」
 それが僕の人生で初めての、全心臓を振り絞っての告白だった。
 けれども、その人はケラケラ笑ってこう言った。
「当たり前じゃない。人類みんな、そういうふうにつくられてんのよ」
 笑ったとき歯の矯正器具が見えた。僕はその器具になりたいと思った。いずれ外されるにせよ。
 それっきりその話は途絶えた。
 その人は理系の研究者がいかに文系出身者の尻に敷かれているかを語り始めた。僕は黙って聞いていた。話など耳に入ってこない。その人が僕を時折見つめる、その目つきに見入っていた。友達に投げかけるような目つきに。
「君はまだ学生だから、ピンとこないか」
「いや、インターンでいろいろ見聞きしたんで少しはわかりますよ。出身学科でポストが決まるなんて、おかしな国ですよね、日本って」
 僕がそう返している後半五秒くらい、その人の目は自分のネイルに注がれていた。僕は頬杖をついた。
 ほどなくして新宿のバーを出た。二十時過ぎに飲み始めて、まだ二十二時。大して仲が深まったとは言えない。
「また時間ができたら誘うね。じゃ」
 大学の女友達と別れるときのような自然さで、彼女は僕に手を振り、人混みに紛れた。
「また」はきっとこないだろう。僕は唇に手をやる。下唇の中央より少し左。女児服についている短いフリルのレースみたいに、めくれ上がった皮がある。そこに、人差し指で触れる。
そして親指の爪をかけた。


 唇の皮を少しずつめくる習慣は、中学生の頃にできた。なんとなくいいなあと思っていた一つ年上の女の先輩と、僕の幼馴染が付き合いだしたタイミングだった。あるいは四つ上の姉貴が、僕の部屋で恋人と初体験をしたらしいということが発覚した直後だったかもしれない。ともかくこうして僕の唇はおよそ十年にわたって、その表面に何かしらの欠損を抱えることとなった。
 最初に気づいたのは母だった。僕の冬用のジャケットを洗って干そうとした母は、ポケットをひっくり返して悲鳴を上げた。カビともほこりともつかない、白くふやけた代物が裏地に付着していたからだ。
「あんたちょっとこれ、どういうこと? 誰かにいじめられてるんじゃないでしょうね」
 僕はそのときちょうど自室で本を読んでいた。『武器よさらば』というタイトルだったと思う。ベッドに上半身を起こし、下半身は掛け布団に突っ込み、右手と両腿で本を支え、左手で唇の皮を剥いていた。ノックもせず部屋のドアを開けた母の目は、みるみる三角になった。
 この悪癖をどうにか正そうとする両親の努力も虚しく、僕の皮めくりは二十三歳の今に至るまで続いた。特に唇が乾燥する秋から冬にかけて、この癖は悪化した。中学のマラソン大会、高校受験、大学受験、院試、論文執筆など、ストレスのかかるイベントが尽きないことも理由の一つだったかもしれない。そうでなくとも日常で些細なトラブルがあるたび、僕は自分の唇の表面にどこかしらめくれる箇所はないかと弄るようになった。血が滲むこともしょっちゅうで、パンや白米を食べると必ず血がつき、母を泣かせた。薬品会社のセールスマンをやっていた父は人づてに皮膚科医、精神科医、カウンセラーを探し出したが、僕の唇には何の異常もなかったし、心の病の兆候も見られなかった。
 もうすぐ高校卒業というとき、初めて女の子に告白された。バスケ部でエースをやりながら、三年間ずっと学級委員長をやっているような子だった。僕はあまりのことに階段の踊り場で固まった。とっさに制服の上から羽織っていたジャケットに手を突っ込むと、僕が剥いて入れた唇の皮が確かに蓄積されていて、それらが指先に触れた。火照っていた頭にスッと理性が戻った。
「どうして僕を好きになったの?」
 肝心の返事をしないまま唐突にそう尋ねた僕は、今思い返しても間抜けな面接官そのものだっただろう。相手の女の子は少々面食らったような顔をしたが、そうね、と真剣に考えを巡らせ始めた。彼女はいくつか僕の長所を挙げた。成績がまずまずで、かつ下位層の仲間を見捨てないところ。落ち着きがあるところ。ラグビーができるところ。それから、と彼女は少し気恥ずかしそうにこう言った。
「唇が好きなの。いつも真っ赤で、血色が良くて」
 僕はしばらく黙ったあと、こう言わざるを得なかった。
「ごめん、付き合えない」
 大学ではサークルにも部活にも所属せず、バイトと研究に精を出した。友人が次々と恋人を作る中、僕だけは無欲な修行僧のように勤労を愛した。そして大学院に進み、土木工学を学んでいるとき、彼女に出会った。


 その人は、僕が修士一年目の夏にインターンをした会社の研究員だった。緑茶のカテキンがヒトに与える影響について研究しているらしいが、ある日の昼休みに社員食堂で僕の隣にやってきて、転職を考えているとこっそり教えてくれた。
「この会社はやめときなよ。理系は肩身が狭いよ。上の人がみんな文系だもん」
 本当は和菓子屋で働きたいのだという。しかも作る側ではなく、販売員。学生時代の専攻は何も活かされることがない。大学に進んでからせいぜい変な人に遭遇してきたと思っていたが、彼女はその中でもあまり見ないタイプだった。
「今の方が絶対に給料いいじゃないですか。僕だったら五年は離れませんよ」
「人生は一度きりだもん。金より人、金より愛だよ」
 答えになっていないようなことを言って、彼女はボルシチを口へ運んだ。口に入れてから「あっつ」と慌てるのが彼女らしかった。
 それ以来、決まって昼休みに二人で食事するようになった。上司や研修担当者に聞かれないようコソコソと会話をする僕らは、たまたま知り合ったインターンと研究員というより、仲のいいバイト先の同僚のようだった。
 インターンが終わると研究に追われて彼女を忘れていたのだが、いきなり飲みに誘われ、僕はまだ自分が覚えられていることに仰天した。言われるがままに交換した連絡先だって、SNSの捨てアカウントだったのだ。指定された新宿のバーでそわそわしていると、彼女は十分遅れでやってきた。
「ごめんね、美容院行ってたら遅くなっちゃった」
 そう言われても以前とどこがどう違うのかさっぱりわからない。正直にそう言うと、彼女は一瞬何を言われたのかわからないという顔をしたあと、大きな声で笑った。
「もしかして君、ガールフレンドいたことないの?」
 心にまっすぐ届くような声だった。僕はいっそ、僕の唇の皮をつるんと全部剥いて彼女に差し出したいような気がした。
 彼女にはなんでも包み隠さず話した。中学生の頃、好きな人を幼馴染に取られたこと。高校入試直前に好きでもない同級生と初めて寝たこと。稀に姉貴と彼氏が、何を思ってか僕の部屋で行為をした形跡があること。高校時代に一度だけ女の子から告白されたこと。その子を振ってしまったこと。ただ一つ、唇の皮をめくる癖を除いて、僕はおよそ語れるだけの全てを語った。
 彼女は興味深そうに聞いていた。話しすぎた、と僕は思った。彼女は感想を述べるわけでもなく、質問を差し挟むわけでもなく、ただひたすらに料理を片付け、ワインを空けた。
 しばらくして彼女はようやく言った。
「それが君の解体新書ってわけだ」
 僕はうなずいた。彼女は口元だけにやっと笑って、一言こう告げた。
「いいね」
 僕は突然、今作った歌を披露するかのように口走った。
「あなたのような人には出会ったことがありません」
 彼女は破顔した。


 僕の予想に反して「また」は来た。二度目に誘われたのは年末の焼肉屋で、学生スタッフが若さを返上して忙しそうに動き回っていた。
 のれんが掛かっただけの簡素な個室に向かい合って座ると、それでも世界にたった二人だけのような錯覚に陥った。
「こんなに手が込んだ店なのに、注文はタッチパネルなんですね」
 と僕が言ったときには、彼女はマニキュアを塗った指で画面を操作していた。どうやら人生の一分一秒たりとも無駄にしたくないらしい。
「マニキュア変えましたね」
 勇気を出して言うと、彼女は嬉しそうに爪を突き出してきた。
「今日という今日は気づいたか」
 まるで猫のようだった。
 僕はその半個室の空間で、実にさまざまなことを知った。彼女にまつわることを。


「五歳の時だったかなあ。家族旅行でアメリカに行ったの。両親がシアトルのスタバ一号店に連れてってくれたのね。ね、シアトルのスタバのロゴって知ってる?」
 意図を図りかねて僕は首を傾げた。
「スタバのロゴって世界共通じゃないんですか」
「ほら、これ」
 彼女が突き出してきたスマホの画面には、僕の見たことがないロゴが映っていた。ベースカラーが真っ黒で、人魚のような裸体の女の人が、二股に分かれた尻尾を持ち上げている、ように見える。
「昔のロゴはこんなだったんだよ。私、これを見てなぜかわんわん泣き出しちゃって。それ以来シアトルはおろか、日本のスタバも受け付けなくなっちゃって」
 街中でちらっとでもあの緑色が映ると、体の奥で不快感が滲み出すのだという。
「ティーバッグみたいなもんなの。じんわり味が出るティーバッグ。私、それを自分の中に持ってるの」
 僕は黙って目を瞬いた。彼女は僕の理解を半分求めるような、半分諦めるような目でレモンサワーに口をつけた。ジョッキを置くごとん、という音すら彼女の言葉のように聞こえた。
「悪く思わないでね。私、男の人って好きじゃないの。いたのよ、元彼は。でも気づけば女の人にばっかり目が行くようになってた。変だよね、スタバのロゴの女は無理なのに」
 牛タンが運ばれてきて、会話は途切れた。レモンを絞っていくらか白米を食べ進めると、彼女は再び話し始めた。
「女子校に行ってたの。中学、高校、大学まで。院で初めて共学になって、研究室に入ってみたらびっくり。女なんてほとんどいないのよ。周りは男ばっかりだった。飲み会なんて地獄よ。何を話したらいいかわかんないんだもの」
 手際よく牛タンを網の上に並べ、彼女はレモンサワーのジョッキを空けた。
「どうにか修士を取って就職したけど、ね、信じられる? 初めは私、コーヒー農園と日本の輸入会社をつなぐ窓口をやってたの。毎日毎日、嗅ぎたくもないコーヒー豆の匂いを嗅がされるの。あのロゴを見ることなんてしょっちゅう」
 僕は完全に食べる手を止めて、彼女の話に聞き入った。
「限界がきて、別の職場を探そうと思ったけどそんな気力もなかった。そしたら女子校時代の友達がね、今の研究職を見つけてくれたわ。人って頼ってみるもんよね。コーヒー豆にサヨナラして、今は緑茶の茶葉を愛でる毎日よ。これはこれで楽しいの。でもね」
 彼女の右手が忙しなくタッチパネルを操作して、ハラミとホルモンを追加注文した。
「私に今の働き口を紹介してくれた友達、とっても可愛いの。大好きなの、その子のこと。もうすぐ和菓子職人と結婚して、京都の本家に嫁ぐんだけど」
 可愛い、大好き、という割に、その声からは感情が読み取れない。
「私、その子の嫁ぎ先の和菓子屋で働くのが夢なの」
 彼女ははっきりとそう言い、僕を見た。一ミリの揺らぎも迷いもない、大きな目だった。逡巡したのち、僕はゆっくりと口を開いた。
「トウ子さんっていくつなんですか」
「私? 今年三十歳」
「見えないですよ、全然」
 僕は首を振った。この人が話してくれたことに関して、僕などが口を挟める余地は一つもなかった。
 デザートにはバニラアイスを頼んだ。


 たらふく食べて店を出ると、雪がちらついている。地面に触れるか触れないかで消える一ひら一ひらを見つめながら、僕は歩みを進めた。隣を歩くトウ子さんは何も言わなかった。
 僕は不意に切り出した。
「トウ子さん。僕の秘密、もう一つ知りたいですか」
 彼女がこちらを向く気配がした。僕を見つめる大きな瞳が目に浮かぶようだ。
「うん、もちろん。どんな秘密だって知りたいよ」
 僕はしばらく考えてこう言った。
「じゃあ僕の上着のポケットに手を突っ込んでみてください」
 トウ子さんの手がためらいなく僕のジャケットに伸びた。なんの疑いも訝しみもなく、その指がポケットに突っ込まれる。
「ん? 何かあるね」
「僕、」
 言葉を紡ぐと声が震えていることがわかった。目の前の雪片が僕の吐息で消し飛んだ。
「悲しいことがあると、唇の皮をめくっちゃうんです。それで、めくった皮をポケットに入れちゃうんです。もうずっと、ずっとやめられないんです」
 前を向いたまま一気に言った。
 途方もなく虚しかった。自分が世界でいちばん弱い存在になったような気がした。僕は僕の中にある淀みが、一気に外へかき出されるのを感じた。最初に感じたのは強い恥、そして体の中心が真っ黒な空洞になるような感覚がそれに続いた。
「これがそうなの?」
 トウ子さんの指先がポケットの奥にある干からびた皮たちをなぞった。机の上の消しカスを集めるような、テーブルにうっかりこぼしてしまった砂糖をかき集めるような、そんな仕草だ。
「そうです」
 トウ子さんがわずかに顔を上向かせる気配がした。
「そうか。君が闘ってきた証なんだね」
 いつもとなんら変わらない声でそう告げて、彼女はかき集めたそれを丁寧に掴み取り、ポケットから取り出した。
「じゃあ、お祝いをしよう。今日の今日まで生きてきたお祝い。おめでとう、私たち」
 白い手が宙を撫でる。彼女が撒いた僕の唇の皮は、闇夜を静かに舞った。僕には紙吹雪のように見えた。
 トウ子さんは無邪気に言った。
「なんだか雪みたいだね。今日が雪の降る日になるとは思わなかった」
 僕は反対のポケットに手を入れて、かき集められるだけ集めたそれを空に放った。
「ほんとだ。雪みたいですね」
 僕はようやく彼女を見た。滲んだ視界の向こうで、彼女は確かに、大きく微笑んだ。そして前を向き、陽気に告げた。
「唇が乾いたら言ってよ。キッスくらいはしてあげるからさ」
「いやですよ」
 僕たちは並んで、駅までの道を歩いた。

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