見出し画像

冷蔵庫の唄を聴け

「冷蔵庫の唄を聴け」 浅野 直人

家には親の代から伝わる冷蔵庫がありました。3ドアで容量270リットル。色白ですが、十年以上の経年の劣化は否めず、外見の所々に染みが散見します。数人の家族がある家庭では一般的な大きさの冷蔵庫で、特に特別な機能や不思議な力はありません。食べ物をひんやりと冷たく冷やし、保存する。至極まっとうな冷蔵庫と言えるでしょう。

 その冷蔵庫は何くわぬ顔で何年もキッチンに居座り、どうして君はそこにいるのか?と聞けば、『ここにキッチンがあるからさ』、なんて答えそうなそうな風情で佇んでいます。そう言われれば、こちらも、だよねってな感じで、冷蔵庫がキッチンにあるのはあまりにも日常なわけなのです。

 夏の盛りの暑い日の昼下がり、外を走る車の音が途絶え、静かな時間が辺りを包んでいました。開け放たれた窓から風が吹き込みチリンと風鈴を鳴らします。不意に予感を感じた僕は直後にカツっという音を耳にしました。続いてブーンとモーターが唸る音が聞こえ、そして、少し甲高い音が続きました。そう。冷蔵庫の作動音です。

 普段なら特に何も考えずにすぐに他のことに気を取られ、忘れ去ってしまうような出来事ですが、なぜかその時は冷蔵庫の作動音にしばらく耳を傾け、その音が鳴り止むまで音を聞いていました。冷蔵庫の音が止まってしばらくすると、また、カツっという音が聞こえました。えっ、また。そう思いました。正確には計測していませんが前回の音から一時間も経っていないと思います。確かに、今は夏だし、一日の内で一番気温も高い時間。冷蔵庫もフル稼働しているわけだ。納得しかけたその瞬間、僕の中でカツっという音が聞こえました。待て、待て、待て。このままでいいのか。そんな思いが沸々と胸の中に湧き上がってきました。

 時は流れ、人の流浪は浮浪雲の如し。紆余曲折を経て今は一人暮らしの身。果たして、この大きい冷蔵庫は必要だろうか?そんなことに今更気がつきました。思い立ったが吉日とすぐに冷蔵庫に駆け寄りドアを開けると、そこにはスカスカの冷涼空間が広がっていました。間違いない。この広い空間は無駄でしかない。はっきりそう理解しました。おりしも、世間は世界的な燃料価格高騰の煽りを受けて電気代も高騰の時勢。これは、もしや、もしや、いよいよ時が来た。気がつけば、そんな気持ちの昂りが奔流となって体の中を駆け巡っていました。まさか冷蔵庫も自らのリレーの音が自分の運命を変えるとは想像もしていなかっただろうに。

 そんな訳で、ネットで小型の冷蔵庫を物色。いくつかのサイトを見て大体のラインナップを把握。独り身なら2ドアというのが世間の常識のようです。容量にして100リットル前後。白物と呼ばれるカテゴリーの冷蔵庫だけに見た目はどこも似たり寄ったり。中には色が選べるものや木目調のものもありますが、冷蔵庫は目立たずキッチンに溶け込んでいて欲しいので白一択。なんとなくイメージが掴めたところで、出会ったのが冷蔵庫を持たないという斬新な選択肢。

 ネットの記事を読めば要冷蔵の食品は絞り込めばそれなりに容量を減らせることが分かりました。過去の自分を思えば確かになんでも冷蔵庫に入れておけばいいという勝手な迷信に囚われていたと反省。そして、ほとんど外食、家の隣がスーパーなどの条件が揃えば冷蔵庫がなくても生活が成り立つとのご意見。そんな人に僕もなりたい。気がつけば、そんな思考の渦に巻き込まれながら日が暮れていきました。

 一夜の睡眠で思考もリフレッシュ。そこで、自分の置かれた条件を整理。揺るぎない一人暮らし。人混みを避けるべしという時勢もあり、外食よりは簡単に自炊。家からスーパーまでは十分ほど。週2回の買い物ならそんなに負担にならない。本当に必要なものだけを冷蔵庫に保存するようにする。そして、もう一度、今の冷蔵庫の中を見て、ひらめきました。1ドアのスペースがあれば十分じゃん。

 昨日までは2ドア100リットルが本流でしたが、1ドア50リットルも視野に。2ドアなら3万円程度、1ドアなら1万円程度の価格。そして注目したのが電気代。実は今の270リットルの冷蔵庫は古くて電気代が年間1万5千円もかかっている計算に。今の2ドアなら5、6千円。1ドアなら3千円程度。なんと、なんと、電気代5分の1ですよ、奥さん。気持ちは一気に1ドアに。

 一つ気になるのが、冷凍庫の存在。1ドアの場合、冷凍用の個室はなく、冷蔵庫内に薄い冷却板で仕切られた空間があり、氷はできるもののカサのある冷凍食品などを保存するのには無理があるというもの。お弁当は作らないし、冷凍食品は使わない。難があるとすれば夏場のアイスくらいか。それとて、箱買いしなければなんとかなる。あとは、直冷式の場合は霜取りが必要と言われているけど、それもやりましょう。ほとんど1ドアありきでとんとん拍子に話は進んでいくのでした。

 価格はやはりネット通販の方が安いのですが、古い冷蔵庫の処分もあるので家電量販店のチラシを見て検討することに。すると、やはり、チラシには買取強化の文字が踊っているではないですか。動いていれば買い取りますみたいな売り文句。1ドア冷蔵庫の値段は1万円程度なのでそこまで通販と差はないと思われ、買取があるならと意気揚々と家電量販店に出向いたのです。

 結論からいうと買取という謳い文句はほとんど詐欺でした。まあ、古い冷蔵庫なので査定は期待していなかったのですが、それどころか、リサイクル費用、輸送費用まで、しっかり請求され、新しい冷蔵庫を買っても全く値引きにはならず。買取対象となるのは特定のブランド、年式も新しいものだけのようです。まあ、世の中そんなに甘くはありません。でも、さすがにチラシは詐欺まがいだよななんて思いながら、展示された冷蔵庫を見ます。

 その店には1ドアの冷蔵庫の展示が一個しかありませんでした。しかも、値段もネットに比べてちょっと高め。うーん、と唸りながら売り場を巡回。すると、小型の2ドアの冷蔵庫が並んでいて、独立した冷凍庫の存在をアピール。うーん。1ドアを買って、後でやっぱり2ドアにしておけばよかったなんて後悔しないだろうか。大は小を兼ねる。不安を煽る言葉が浮かんできます。しばし、逡巡した後に、道を挟んだ場所にあるもう一軒の家電量販店に行くことに。

 もう一軒の店には広告の品のお手頃な値段の1ドア46リットルの冷蔵庫があるではないですか。展示品の冷蔵庫のドアを開けたり閉めたりしながら、悩んだ末、えいっと決めました。決め手はやはり、無駄な冷涼空間を遊ばせておくのはもったいないということ。実際に必要な容量さえあれば事足りるし、節電になる。

 1ドアの冷蔵庫は車に載せられそうなので、そのままお持ち帰りに。家に帰って早速、新しい冷蔵庫を仮設置。古い冷蔵庫を出荷できるよう電源を抜き掃除をします。

 数日後に販売店と契約している業者が古い冷蔵庫を引き取りに。リサイクル費、輸送費合わせて7千円程。けっこうなお値段。まあ、仕方ないですね。それに年間の電気代差を考えれば半年ちょっとで回収できる計算になります。

 家に傷がつかないようにひかれたマットの上に載せられ、古い冷蔵庫が業者の人に連れて行かれます。長い間、慣れ親しんだ冷蔵庫。背中を丸めるかのような姿で引きずられていく様には哀愁が漂っています。さよなら、長い間お世話になりました。お疲れ様。そんな声をかけるべきでしたが、僕が思っていたのはやっぱり回収費用が高いなということ。

 兎にも角にも冷蔵庫の買い替えは無事完了。あれから、3週間が経過しましたが、結果として1ドアで正解でした。週一で買い物に行きますが、46リットルの容量で少しの余裕を持って間に合っています。それに、食品を一週間以内に使い切る習慣もでき、不要に長く冷蔵庫に入れっぱなしにするものも無くなりました。大円団。

 新しい冷蔵庫は背が低いので手頃な台が見つかるまでキッチンの隣の部屋のテーブルの上に置いています。窓から吹き込む風にチリンと鳴る風鈴。直後、キッチンの中からもうないはずの古い冷蔵庫のリレーがカツっと聞こえる気がするのはなんでしょう。そんな時は暑い夏の日に開けた大きな古い冷蔵庫から漏れ出す冷気と、冷蔵庫の中のざっくり切られた美味しそうなスイカの赤色を思い出す。夏の日の昼下がり。 


おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?