イグアナ17

玄関のドアを開けるなり、母の顔がにゅっと出てきて、思わず仰け反った。
「優子、真一郎さんインフルエンザでよかったなぁ。まぁインフルエンザも大変やけど、コロナにかかるよりマシや。ところであのトカゲ、私を睨みつけてはる!」

母はリンゴを切ってあげてくれたらしい。みどりさんは円な瞳で見つめる。
「睨みつけてはるんちゃうよ。みつめてるだけやで。それからトカゲやなくて、イグアナやから。」
母は、ケージから離れたところに座る。
「まぁ、とりあえず死に至る病じゃなくて、良かった。今日は、優子さんの誕生日やから寿司でも取ってここで一緒に食べていこう。」吉田は母のお腹を触りながら微笑んだ。
「そうやな。優子も一人きりで寂しいやろうから。」

しかし、私はその提案を断った。
「私は大丈夫。みどりさんおるし、一人ぼっちじゃないから。それに真一郎さんの着替えやら用意して、明日また病院に持っていくから。お母さんはまだ安定期違うし家に帰ってゆっくりやすんで!」
優しさの譲り合いの末、吉田達は帰って言った。

急に、静寂が戻って来る。
キッチンに行くとリンゴの皮やらがそのまま、コーヒーカップもそのまま。
母はちゃんと家事をしてるんだろうか?
ふと、吉田が皿洗いをしている姿が目に浮かんでクスッと笑う。

とりあえずキッチンを片付ける。小さな食器棚の奥に、私は紙袋を見つけた。

真一郎が、先程話していたのは、コレだ!きっと昨日のうちに隠して置いたんだろう。私の笑顔を見たいが一心で。

紙袋を取り出して、中を覗くと、ラッピングを施した小さな箱と八つ折りに小さく折り曲げた便せんが入っていた。

ケージからみどりさんを出し、膝の上に乗せて、小さく折り曲げられた便せんを広げる。初めて見る真一郎の文字は女子が書くような可愛い丸文字だった。

【優子さんへ
初めてのラブレターを書きます。
あなたに出会えて僕の人生はとても楽しみになりました。優子さんの笑顔、優子さんの一生懸命さ、優子さんの涙、その一つ一つがとても愛おしい。これからもあなたとともに沢山の笑顔と涙を味わって生きたい。毎年誕生日を一緒に祝いたい。僕は、このひと月で、実家に帰ります。できることなら、優子さん一緒に着いてきて欲しい。僕の人生のパートナーとなる人を親に紹介したいから。今日は、優子さんがこの世に生まれてくれた特別な日だから、口ではなく、手紙で伝えたくて、下手くそな文章を書いてみました。お誕生日おめでとうございます。僕はあなたを愛してます。 真一郎
⠀】

みどりさんを撫でながら、ぽつんと独り言、
「私も愛してます。」

小さな包みに目をやる。これはもしやと、開けてみる。思わず吹き出してしまった。
シルバーのイグアナが、小粒のトルコ石を抱えているデザインのブローチ。
普通こういう時は婚約指輪でしょ!
しかし、デザインやら考えると高価だったろう。
私はブローチを胸元につけた。
またひとつ宝物が増えた。

翌朝早く、ドアのチャイムが鳴った。こんな早くに誰だろう?

恐る恐るドアノブを捻って開けてみる。見知らぬ60代後半の男が、禿げた頭にタオルを巻いた状態で直立不動していた。
「あのぉー中村真一郎さんのお宅はこちらでしょうかか?私中村さんが働いてくれている清掃業者の社長です。中村さんは?」

「真一郎さんは、今、入院中です。インフルエンザでしたので、念のために入院してます。何かご用ですか」
「昨日清掃中、急に倒れられて驚きました。インフルエンザでしたか。最近コロナの第二波がニュースに取り上げられて心配してました。不幸中幸いですね。中村さん頑張ってくれていたので残念ですが、今月いっぱいで、辞めると聞いていまして。もう今月もあとわずかなので、熱が下がっても5日は自宅待機になってしまいます。それでですね。年末まであとわずかですし、このまま退職っていうことにさせて頂きます。今まで、働いてくれた給料に、ほんの少しだけ賞与をプラスしてます。また、元気になられてうちで働いてくれる気持ちがお有でしたらいつでも声を掛けてくださいと、お伝え願いますか?」

「わざわざありがとうございます。彼にはちゃんと伝えておきます、」彼はまた深々頭を下げ立ち去った。

ブラック業者かと疑った自分を反省した。とりあえず真一郎の着替えやらをまとめ、病院に行く。会えないのは分かっていたけど受付に荷物を預けて帰る。
とりあえず熱は下がったそうだ。インフルエンザも早く治療すれば怖い病気でなくなった。新型コロナウイルスのワクチンもあとしばらくすれば、一般に普及するだろう。医学は、常に進歩している。

私はマスクをした上にマフラーを口まで巻き付けた。
帰ったら、部屋の掃除をしよう。
最寄り駅で降りいつものスーパーで3日分の買い物をした。師走は足早に過ぎていく。

12月28日、真一郎は、退院した。

この記事が参加している募集

#スキしてみて

527,222件

今はまだ修行中の身ですが、いつの日か本にしたいという夢を持っています。まだまだ未熟な文章ですがサポートして頂けたら嬉しいです。