りーちゃん

「風がさ、僕の中に入って抜けるようなさ、そんな感覚が好きなんだ。」
 りーちゃんは不意にそんなことを言っていた。もしかして心の声のつもりがうっかり口の先を突いて出てきてしまったのか。りーちゃんは少し間を置いてからちらっとこっちを見て、すぐに視線を逸した。
 りーちゃんはいつも元気で、生まれてこのかた悩みというものをわずらったことがないのではと皆が疑うほどに、その快活さはたしかに冬の寒さを和らげていた。りーちゃんと知り合ったのは10年も前か、小学1年の4月、僕の右斜め前がりーちゃんだった。まわりをキョロキョロと見る僕の揺れている視線の枝先にとまった小鳥のように、りーちゃんはずっと窓の外を見ていた。
「わあ、ハクセキレイだ。」
 小さな声で呟く。駐車場のコンクリートの黒に目立つように、白い鳥が数羽。名も知らぬその鳥に与えられたハクセキレイという名が妙に僕の心の糸を揺らしてしまったのか、僕も焦点をその鳥にあわせていると。
「きみもハクセキレイすき?」
「いや、なんとなく」
「ふーん」
 それが最初の会話だったことは覚えている。その後6年間同じクラスだったはずなのに、詳細な記憶を残している出来事は意外と少ないものだった。りーちゃんは運動も勉強も出来たからクラスの皆から人気もあって、そういうことで僕にとってのりーちゃんとりーちゃんにとっての僕というものが全然違うものを指していたとしても、そこに不思議は何もなかった。
 中学は別々のところに進み、奇遇なことに別々の中学から同じ高校、そして同じクラスに再び巡り合ってしまったのだが、りーちゃんは依然変わりないようで、僕はよかったと謎の安堵を閉じた口から洩らしていた。ただ、時折見せる、今にも壊れてしまいそうな飴細工の小さな気泡を伴う鈍い表情に関して、僕はそれが今ここにしかないようなものであるような気がして、1秒にも満たないその瞬間をずっと心に生かしておきたいという願い、それは間違いなく邪心であるのだが、それを邪心であると認識したのはつい最近のことだった。
 「りーちゃんもそんなこと思うんだね。」
 率直な感想だった。地平線が丸く見えないこの街で、雲のゆるやかさと風の忙しさ、そして風を受けてとぶ体の揺れを共感できる人が身近にいることを、純粋に嬉しく思ったのだ。また、その言葉はりーちゃんのあの表情が、たしかに僕の記憶の外に存在していたという証拠でもあった。そのことに関しても、沸々と湧き上がるようなじっくりとした嬉しさとして、全身を以て体感できた。
 ちょっと間を置いて、りーちゃんはいつもの調子で「夕飯はカレーかなあ。」などと言うもんだから、僕はつい足取りが軽くなってしまって、いつものように風のせせらぎにも満たない話ばかりをしてしまうのだった。

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