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#1 「不要不急」が分断した社会

朝日新書781『コロナ後の世界を語る 現代の知性たちの視線』は、2020年夏に発行された本です。朝日新聞デジタル連載を書籍化したものになります。
どの識者からも、非常に意義深い投げかけが為されていて、読んで良かったと思える本だったので紹介したいです。そして私たちは今一度、この混乱の3年間を深く反省する必要があると思います。

街には色々な仕事があり、色々な場所があり、色々な営みがあった。だけど、「不要不急」のスローガンはそういう多様なニーズを一刀両断してしまった。職場の同僚と缶コーヒーを飲みながらおしゃべりをする。それがどうしても「要」であり「急」だといっても、通らない。
東畑開人(臨床心理士)p.151
本来なら、人間が経験する色々な出来事には、それぞれ異なる時間の流れがあって、それらが束になり個々人の時間を作っていた。そこには当然、不要不急も含まれる。でもその不要不急を感染防止と自粛という形で排除した結果、時間の流れが貧しくなってしまったのです。
斎藤環(精神科医)p.138


今や当たり前のように私たちの社会に浸透した「不要不急」という言葉ですが、これほど日常を一転、非日常に塗り替えた言葉もないんじゃないかと思っています。
思えばコロナ禍の始まりは、感染そのものではなく「自粛」という不自由だったのではないでしょうか。

私は当時東京都民だったので、小池都知事の姿をテレビで拝見することが多かったのですが、彼女がいう「エッセンシャルワーカー」という言葉も嫌いでした。ああ、職業に貴賎はない、というのは綺麗事でしかなかったか、と思ったのは言うまでもありません。


自分の仕事、用事について、出かけようとするたび、これは「要」か「不要」か、「急」か「不急」かを立ち止まって考えないといけない。
悩んだ結果、「やめておこう」という判断を下したあとに残る、「私の仕事や娯楽は社会からすれば不要なもの、不急なものなんだ」という虚しさ。

これを機にテレワークを推し進めた企業もあるでしょうが、リモートワークなんて実質不可能な職種だって、たくさんあったはず。
そういう仕事に就いている人たちは、得体の知れないウイルスに感染する恐怖と闘いながら出勤されていたことと思います。

職業だけじゃない。世代でも分断は起きました。
大人たちが満員電車に揺られて出勤する一方で、子どもたちの学校は休校になりました。


新型コロナウイルスに、感染しない・させないこと。
それが当時の私たちに課せられた、最優先の使命になりました。


楽しみにしていた、旅行も帰省も、新生活も結婚式も、ライブも映画も友達との食事も、多くの人が苦渋の決断で、延期や中止を決めました。決行すればしたで、心ない言葉を投げられた人もいたことでしょう。


日本政府は、ロックダウンなどの強制力を持った行動制限ができなかったので、必然、どんな行動をとるかの責任は国民ひとりひとりに帰せられることになります。
日本人が、周りの目を気にする傾向は元からあったかとは思いますが、この災害はその傾向にさらに拍車をかけたのではないでしょうか。


(次の記事へ続きます。全5回の予定です。)

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