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無結論な問題と麻薬

「ホームレスの命はどうでもいい」は、差別発言なのか?大衆の本音なのか?優生思想の引き金なのか?

ここ最近ネットをお祭り状態にしている某メンタリストの発言を受けて、私は積読していた読みかけの「正義の教室」著:飲茶 を久しぶりに開いてみた。

なぜ上記「ホームレス命発言」がこれほどまで注目され、メンタリストは色々な人から怒られるのか?

なぜなら、彼の発言に対して多くの人が「正しくない」「良くない」と感じているからだ。私を含め、「よくないもの・正しくないもの」を目の敵にして大声を出すと、「自分は正しいんだ」という実感を得られる。或いは、「自分は正しい」と信じているからこそ、正しくないものを糾弾する元気が湧く。

でも、皆が信じているそれは、本当に正しいことなのだろうか?

悪いことの反対が良いことなのだろうか?

本当の正義とはいったい、どこにあるのか? そもそも、本当の正義、本当の善など存在するのだろうか?

私はその秘密を探るため、Amazonの奥地へとやってきた。

自由主義視点から

私は「正義の教室」を読み、驚くべきことを発見した。

なんと、この「正義の教室」が解説している自由主義観点から見ると、「ホームレスの命はどうでもいい」のは、正しいのだそうだ。

そもそも自由主義とは何か、入門書を一冊読んだだけの私が傲慢にも解説すると、下記のようになる。

「自由>幸福

つまり、何を差しおいてもまず「個人の自由」を尊重しろ、という主張だ。

twitter民の大好きな「発言の自由」はもちろん、働く自由、お金を儲ける自由、好きな人と結婚する自由―――何を差しおいても、まず自由が尊重されなければ、自由主義は始まらない。

そしてそれは、「不幸になる自由」も同様であり「人を助けない自由」もまた、同様だ。

自由主義では、裕福な誰かに「あそこに飢え死にしそうな人がいるから、満腹のあなたが持っている要らない食べ物を与えてあげなさい」と命令することはできない。もっと現実味を帯びた言い方にすると、「富の再分配」は、自由主義では正義ではないとされる。

持て余している者が、足りない者に与える。
これは日本の社会では普通に(税金政策として)行われていることだが、自由主義では、これは裕福な人間の自由を侵害していることになる。

ホームレスは、自由が与えられた社会で自由に行動をした結果、ホームレスになった。それは自由主義では、自己責任以外の何物でもない。そして、自分で責任を取れない弱者は、淘汰されて当然と考えるのが自由主義の行きつく先の姿だ。

「運だって実力のうちよ。餌がとれなかった動物が、サバンナの片隅で飢えて干からびて死ぬのと同様、不運にも沼に落ちて身動きが取れなくなった動物だってそのまま死ぬ。それでいいじゃない。
無能も不運もバカも情弱も、環境に適応できなかったやつは滅ぶ。敗者は消える。当たり前のこと。それを変な倫理観を振りかざして止めようとするから世の中がおかしなことになるのよ。
(中略)
みんな自由にやりたいことをやって、勝った者は生き残り、負けた者は消えていく。そういう格差社会でいいのよ。なのに格差を問題視して格差を埋めよう、敗者を救おうと、声高に叫ぶ偽善者がいるから、世の中が不自由になって停滞していくの(後略)」
  ―――「正義の教室」著:飲茶 p181-182

これは、某メンタリストが動画の中で主張していた事とほぼ同じことではないだろうか?

ホームレスとは、社会に適応できなかった敗者に他ならない。

だが、それは自由主義においてはあくまで自己責任だ。自由主義では、個人の自由は完璧に保護されているから、ホームレスになる自由だってある。ホームレスを助けない自由だってある。誰も彼も、ホームレスを助けるべきだ、と誰かに強要することはできない。強要することは、いかなる場合も自由の侵害にあたるからだ。それは自由主義において、敗者を救済しないことよりも、もっと罪が重いことなのだ。

メンタリストはあの時、自由主義の成れの果ての体現者だった――そう思うと、なかなか感慨深いものがある。動画は削除されているため、今となってはその姿を見ることができないが。

無結論な問題

ところがどっこい、メンタリストは「勉強不足による不注意な発言でした」と泣きながら反省の意を示し、慈善団体に寄付するなどして、上記の発言を完全に撤回してしまった。

私は正直、メンタリストが最強の自由主義者となって「弱者は死ねぃ!」と慈善団体に殴り込みをかける状況も野次馬的に見てみたくはあったものの、それはまた別の話なので今は置いておく。

実際のところ、メンタリストはいかなる主義者でもなく、ただ単に口が滑っただけであることは、100も承知である。
過激な発言には人が集まる。強い言葉は、弱い者の代弁をしてくれる。
今の若い世代の社会で「知識人」とされるナントカさんやアレソレさんなどは、そのほとんどが強い言葉でみんなの思ってることを言うから「知識人」扱いされるのだ。
誰かを論破したり、自分の主張を正しいと決定することで、それを信奉している民衆に安心感を与えることが、彼らの仕事だ。

私は、感情的に言ってしまえば、彼らのような「知識人もどき」を信仰する人々が嫌いだ。

彼らは確かに多くの知識を扱う。1日に20冊本を読んだり、様々な事業を成功させているから、人々は彼らを「賢く正しい人」のように扱う。

私には、それがなんとも薄気味悪く思えるのだ。知識が豊富でぺらぺらと喋れるからという理由だけで、賢く正しい人としてもてはやす。テレビに映す。スポンサーがつく。お金が儲かる。それを見た誰かが、「知識があることは正しくて賢いことで、良いことで、素晴らしいことなんだ」と誤解する。しかし正しく賢いはずだった人は、人気、お金、その他もろもろ目先の利益欲しさに、つい口を滑らせる。人々はそれに失望し、いっせいに抗議やらツイートやらお気持ちやらを述べ、かつて正しく賢いはずだった人をボッコボコに叩き、「これは悪であった」と再確認する―――ように、私には見える。

では、彼が悪であったという根拠はいったい何なのか?

メンタリストを誹謗している何万人もの人間のうちの、いったい何人が、理路整然とした根拠をもって「弱者は救済すべきだ」と主張しているのだろう。いったいどんな正義をもって、どんな善を知っていて、それほどまで熱烈に批判しているのだろうか?

結局、彼らのような「知識人もどき」が蔓延るのは、「普段からなーんにも考えていない普通の人々」のせいだと、私は思っている。
本当の善とは何か、本当の正義とは何か、考えることも学ぶことも疲れてやめてしまい―――あるいは、既に本当の正義も善も知ったつもりになって社会に参加している大人たち。
自分で何かを考えるのも面倒くさいので、youtubeで見つけた賢そうな人の知恵袋を見聞きして、それが正しいと思いこみ、賢そうな人が何かをしくじった途端に失望し、飽きて唾を吐いて捨てていく人間たち。他人から与えられた娯楽を片っ端から消費し、文句だけは一丁前に言う人間たち。

彼らの共通点として、結論だけを欲しがるという点が上げられる。
だから、いつまでたっても「○○は××だった!」とか、「○○を××する方法」だとかの、問題に対する結論を強い言葉で断定する人間ばかりがもてはやされる。強い言葉は、無結論な問題に悩まされている日々を送る私たちにとって麻薬のようなものだ。麻薬を欲する人々に、知識人もどきたちはさらに強い麻薬を与えて喜ばせる。
そしてそのどうしようもない循環の行きついた先が、「ホームレスの命なんかどうでもいい」という過激な極論だったのだろう。

そもそも私たちは、なぜその発言が許されないのかを、理論的に議論できる理性も持ち合わせていないのに。

だから、私たちは答えが出なくても考え続け、学び続けなければならない。ぼーっとしていると、ちょっと小賢しいだけの他人に、麻薬を盛られてしまう。




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