桜襲(さくらがさね)の比翼 第3話

数日後、雪次の店は想定外の客人を迎えることになった。

「もったいのう、もったいのうございます」

雪次はどこか不遜ないつもの態度を引っ込め、床に額を打ちつけんばかりにひれ伏している。ただごとではない、と真鶴が奥から出てきてみると―

­「真鶴、だな」

心の臓が凍るかと思われた。

どういう運命の巡り合わせか―先般、奇跡の再会を果たしたばかりの平時忠本人が今、またしても目の前に立っているではないか。

あまりに唐突すぎる展開に、次に何をなすべきか考えることも忘れて、その場に立ち尽くしていた。

「何をしているか、控えろ!」

雪次に引き据えられ、無理やり後頭部を鷲掴みにされて、額を床にすりつけさせられた。きいんと脳天に突き抜けるような痛みが走ったが、それでも今起きていることを、現実と受け止められずにいた。

「洛中の巡察ついでだったのだ。さほど骨を折って参ったわけではない。どうしても、そちと話がしたくてな」
 そち―というのは、自分にのみ向けられていた。視線と声の向きから、それを感じた。 

お前たちは出ておれ、と背後の随身たちに命じてから、

「奥の間を借りてもよいか?私とこの娘の二人にしてほしい」

と尋ねる時忠に、雪次はやや狼狽を見せた。

「真鶴へのご依頼でしたら、私めが全てお受けしております。お話は私めを通して頂きませんと」

「真鶴にのみ、話がしたいのだ」

「しかし」

何を予感してか、雪次は自分が同席することにかなり長い間こだわっていたが、天下の平家の一門にわがままを押し通すわけにもいかず、渋々引き下がった。

狭い客間に二人きり―お互いの息遣いすら聞こえる距離だ。じっと床に手をつき、相手の出方を待った。

「先般の舞、見せてもらったぞ。見事なものだな。あれで無名の白拍子とは、妙なものだ」

臓腑を冷たい手でさらりと撫でられるような、嫌な緊張感が走った。

「もったいないお言葉で…」

そう絞り出すのがやっとだった。

「今一度、面を見せよ」

顔を上げる間もなく、強い力で頬を掴まれ、引き上げられた。文字通り目と鼻の先に、憎いほど整った時忠の細面がある。むくむくと鎌首をもたげる殺意が、懐に忍ばせた刀に手を誘う。

が、すんでのところでこらえた。さすがに、今回の訪問のこころを聞かずに斬るのは尚早だと思ったのだ。

「…美しいな」

時忠はぽつりとつぶやいた。

「が、不思議と女らしさは感じぬ。むしろ、お前には武士のような精悍さがある」

今こそ、と懐の刀の柄に触れたとき、

「お前のような女を待っていたのだ」

「…えっ?」今にも爆ぜようとしていた殺意の炎に、急に冷や水をぶっかけられたようだ。

「何を仰っているのか…」

「お前を見込んで、仕事を頼みたいと思っている。それも、ただ歌い踊る仕事ではない」

時忠は、耳元に口を寄せた。
「荊の芽をな、摘んでほしいのだ」

「いばら…」

「平家の行く手を阻む荊だ」

時忠は、そこでようやく頬を掴んでいた手を離した。

「平家の荘園の数は今や五百を超え、宗国との交易も大いに利を上げている。一門は揃って高位に昇り、我が義兄、清盛公にいたっては、太政大臣だ。もはやこの勢いは何人にも妨げられぬと、皆が浮かれておる」

時忠は目を細め、遠くを眺めた。

「…が、私はそうは思わぬ。平家を引きずり下ろしてやろうという動きは、そこかしこでくすぶっている。昨日よりも今日、今日より明日と、熱量を増してきているのが、私には分かるぞ。なかなか理解はされぬが、な」

遠くに向けられていた時忠の目が、こちらに向いた。

「真鶴よ。お前は白拍子だ。舞を請われて、方々の公家の屋敷に出入りしておろう。それを咎める者は誰もいまい」

「つまり…お屋敷への出入りついでに、密偵の役目を果たせと?」

「いかにも。ゆえに、これからは六波羅の屋敷にも足しげく通って、都度報告を上げてほしい。六波羅の近辺にお前の新しい住まいを用意させよう」

一瞬、雪次の下卑た笑みが脳裏に浮かんだ。その考えが透けて見えでもしたのか、時忠はすかさず言い足した。

「雪次のことなら、心配はいらぬ。彼奴には払うべきものは払う。それで一生食っていくことができりゃ、あの強欲も文句は言うまい」
 仇敵たる平家の庇護と引き換えに、平家の天下を守る手助けをする―上京したての頃であれば、冗談でも受け入れ難い話だったろう。

が、今は私怨の靄がかかるその先まで見通すことができる。長年の無念を晴らすため、今自分が手に入れるべきは、時忠や清盛の首などではなく、権力の中枢に出入りするための通行手形だ。

あろうことか仇敵時忠は、その通行手形を安々とくれてやろうとしているのだ。

「二度と這い上がってこられなくなるまで、叩きのめすんだ」

牛と名乗ったあの少年の意気込みが、脳裏をかすめたとき、おのずと真鶴は両手を床についていた。


 階の下に膝をついて控えていると、小半刻ほどして、時忠がやってきた。身の丈五尺あまりのコノリの目線よりも高い簀子縁に、どかりと腰掛ける。

「さすがじゃなコノリ、決して尻尾を出さぬと言われていた頭の弁まで、こうして縄に掛けてしまうとは」

「はっ、畏れ多くも六波羅様を罵る者は、放ってはおけませんので」

「はは、その通りであるな。これからも励め」
 じゃりん、とくぐもった金属音と共に、何かが近くに落ちた。少し目線を上げると、大量の銭の形で膨れた小袋が落ちている。昨夜の雨でできたぬかるみの中に着地したせいで、すっかり泥まみれだ。

「こたびはかなりはずんだぞ。弟どもにも、しかと感謝するよう伝えよ」

「は…」

銭袋をおし頂くようにしてから、懐にしまう。泥水がひんやりと襟元に滲みた。

「そういえば…うぬはここに来てから幾年になる」

「私が五つの時ですゆえ…もう十年になりましょうか」

「では何か、もう十五になるのか」

時忠は目を見張り、信じられぬと言いたげに首を振った。
「元服させてやることも一時は考えたが、うぬの才は一介の武士の器には収まりきらぬものがある。許せよ」

「いえ、六波羅様にとって最もご都合の良い形でお使い頂ければ、これほどの喜びはございませぬ」

六波羅様だ。時忠様ではない―

内心呟いたが、時忠に届くはずがない。時忠は目を細めた。

「よう申した。犬馬の労も厭わぬとは、まさにこのことよの。安堵して、また新たな命が下せるというものだ」

「新たなご命令、とは」問いかけたちょうどそのとき、時忠の家人が敏捷な動きでやってきた。

「失礼致しまする、殿」

主の耳に口を寄せて何かを報告する。時忠の表情が、妙案を思いついたときのような晴々としたそれに変わった。

「ついて参れ。それは後ほど、教えてやろう」


時忠の呼び出しを受けて、真鶴は初めて六波羅へと足を運んでいた。あの唐突な来訪から、既に半月ほど経っていた。

あのとき、真鶴は時忠の前に両手をついて、はっきりと言ったのだ。
「不束者ではございますが、お役に立てますよう努めまする」
口が裂けても言えないと思っていた言葉が、すらすらとこぼれ出ていた。そのことが、未だ信じ切れていないところがあった。
我ながらよく言ったものよー
笑みさえこぼれた。

立ち入るのを躊躇してしまうほど荘厳な門に、ずらりと立ち並ぶ厩、都中の人々を集住させても余りありそうな、広大な館。 今を時めく平家の威勢を、これでもかとばかりに示す屋敷群がそこにあった。今まで幾度となく訪れてきた下級貴族たちの屋敷とは比べ物にならない。

時忠の家人に導かれるまま、よく手入れされた庭を横目に長い廊下を突き進む。

しかし、屋敷の優雅な風情に似合わず、辺りはやけに慌ただしい。廊下を行き交う家人たちは、誰も彼も足早で、深刻な表情を浮かべている。

「これ、気をつけよ」

前を行く時忠の家人が叱責を飛ばす。駆けてきた家人が、曲がり角で時忠の家人と鉢合わせしたらしい。家人は何やら大量の文書を運んでいた。それは、ぶつかった拍子に、ばらばらと辺りに散乱した。

「あいすみませぬ」

家人は慌てて床に這いつくばり、文書を拾い集める。文書は一部、こちらの足元にまで飛んできていた。拾い上げようとすると、横から乱暴にひったくられた。

「失礼いたした」

家人はこちらの目を見ず、ぺこぺこ低頭しながら、文書を回収していった。見かねた様子で、時忠の家人が何かを彼の耳元で囁くと、彼は一層慌てて、

「め、滅相もございません、おそらく何らかの手違いに過ぎませんから、これこうして、過去の出納も全て洗い出して…」

「しいっ、声が高いわ」

また叱責され、さらに縮こまる。

「きちんと整えておけ。後々一枚でも欠けていたら事だぞ」

時忠の家人は立ち上がると、何事もなかったような涼しい顔をこちらに向けた。

「真鶴殿、こちらへ」

まだ這いつくばっている家人の隣を、小腰をかがめて通り過ぎながら、床に散った文字にざっと目を走らせた。

ははん…なるほど、そういうことか。


通された広間に座して待機していると、ほどなくして時忠が姿を現した。

「よく来た、待ちかねていたぞ」

「時忠様、この度は私のために大層な住まいをご用意いただき、ありがとうございます」

「あのような荒屋で大層な住まいとは、随分と欲がないのう」

時忠は小馬鹿にした様子で笑った。

こればかりは悔しいが、本心からの礼だった。雪次の支配の及ばない住まいというだけで、十分に豪邸と言えた。

「早速だが、お前に紹介したい男がいる」

おい、と時忠が声を張り上げると、背後で砂利を踏みしめる音が聞こえた。
 振り返れば、どこから現れたのか、真っ赤な水干をまとった少年が庭で低頭して控えている。

「近う寄れ。今日は許す」

言われるまま、少年は顔を伏せたまま階を上り、機敏な足運びでやってきた。

こうして近くで見ると、少年にしては思いのほか上背がある。頬骨の辺りで切り揃えた髪越しにちらちらとのぞく顔つきも引き締まっていて、本当は少年と呼ぶ年頃ではないのかもしれない。

「これはコノリと言う」

「コノリ殿…?」

「人呼んで、六波羅の鷹。幼き頃より清盛公に仕え、今や清盛公に次いで恐れられる存在よ」

恐れられる存在―。

それを聞いて、ぴんとくるものがあった。まだ音羽と共に諸国を遍歴していた頃、風の噂で聞いたことがある。都で平家を悪しざまに言う者があれば、容赦なく襲撃して六波羅へ引き立てていく童の集団がいるそうな。彼らは一様に髪を切り揃え、赤い衣をまとっていて、〝かむろ〟と呼ばれていると―

「真鶴よ、当分はこの者に諸々教えを乞え」

「は!?」

こちらが声を上げるより先に、屈強な山犬が吠えるような声が上がった。コノリが低頭の姿勢を解いて、食い入るように時忠を見ていた。

思った通り、顔立ちを見ると少年と呼ぶにはやや薹が立っているようだが、化粧を施したような白い肌と繊細な目鼻立ちのせいか、身にまとった童水干と妙に調和している。

「私に、教え導けと仰せですか―?」

「さよう。これからは真鶴にも、平家のさらなる栄えのために力を貸してもらう」

「そのお役目は、長年私が果たしてまいりました」

「しかし、お前はもはや面が割れていよう。その点真鶴ならば、敵陣に大手を振って出入りして、早うに火種を見つけられるというもの」

「ですが…」

コノリは、初めてこちらを見た。敵意と憎しみをありったけ込めたような目だ。

「コノリ」

時忠の声が厳しさを帯びた。

「平家の栄えのために身を捧げる―己でそう申したことを忘れたか」
 コノリは悔しげに唇を引き結んだ。
「…どうなのだ?」

「…返す言葉もございませぬ。己の誓いを軽々と破っては、六波羅様の鷹の名が廃るというもの」

コノリは、床に両拳をつくと、再び頭を下げた。

「お命じの勤め、見事果たしてご覧に入れましょう」

時忠は満足そうにうなずいた。

「よいな、真鶴。このコノリは隠密の才にも長けておるゆえ、大いに技を盗み、一日も早く平家の手足となってくれ」

平家の隠密。六波羅の鷹―鷹は、一度獲物とみとめたら最後、執拗に追い続けると言う。そして慈悲の欠片も見せず、その鋭い鉤爪で獲物を引き裂くのだ。

父も、奴らに獲物とみとめられたばかりに、あのような結末を―?

憶測に過ぎないことは分かっている。でも、平家の繁栄の陰には、父と同じように捕らわれた人々が数多いるのだろう。そこに大いに貢献しているのがかむろだ。平家に仇なすと見るや、相手が何人であれ、弁解の余地を与えず駆逐している―時忠に向けるのとはまた違う憎しみが、むくむくと胸の内に湧き起こる。一滴の墨が辺りを侵していくように、内臓の隅々まで黒々と染まっていく。

とはいえ―ここは、耐え忍ばなければならぬ。

「真鶴でございます」

ともすれば頭を引っ張り上げようとする見えない力に逆らいながら、手をつき、ゆっくり叩頭した。

「よろしく、お導き下さいませ」
コノリからの返礼はなかった。

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