桜襲(さくらがさね)の比翼 第2話

第二章


 コノリとその仲間は、密命を帯びて、さる貴族の屋敷に靴履きのまま上がり込んでいた。

華やかな几帳や屏風、精巧に彫り物がなされた鏡や香炉、文机。名門貴族の体面を取り繕う、きらびやかな調度品。

これで、食うにも事欠く生活?馬鹿げている。片腹痛いわ。

 やれ、の一声で、赤ずくめのかむろたちが一斉に方々に向かえば、辺りは野分の後の庭のようになった。そう、風雨に薙ぎ倒され、荒らされ尽くした庭一面に、紅葉が一面散り敷いたような有様だ。

 行く手を阻む几帳や屏風も、躊躇いなく蹴倒していく。鏡は砕け、香炉は倒れて白灰が舞い上がった。姿があらわになった女房たちが悲鳴を上げようが、構うことはない。

そして、寝殿の御簾を力任せに引きちぎれば、この屋敷の主、二条の少納言のお出ましだ。お盛んにも、この昼間から気に入りの女房と乳繰り合っていたらしい。

「何じゃお前たち…」

 慌てて衣を手繰り寄せる少納言に、刃を突きつけた。

「二条の少納言殿、六波羅(ろくはら)様の悪口を申したそうな」

「い、言いがかりじゃ!何を抜かすかと思えば…」

 口でいかに否定しようとも、少納言の青ざめた表情が全てを物語っている。

「大人しく縛につけぃ!」

 朱に染まった紅葉が舞い上がり、少納言を取り巻いた。


「この者は、恐れ多くも六波羅様を盗人と揶揄し、方々に触れ回り、都の安寧をいたずらにかき乱そうとした!帝への謀反にも値する、大罪人なーり!」

 先頭を行く弟分の白狐(びゃっこ)が、意気揚々と甲高い声で触れ回っている。

 縄を打たれ、後ろからのそのそとついてくる二条の少納言に、それを否定する気力は既にない。世間体を保つことに人一倍躍起だったかつての姿が嘘のようである。

こうしてかむろが列をなして歩けば、道行く人々は決まって恐れをなして、路傍に退く。

「これも平家ご一門のご威光の賜物、コノリの兄様のお働きが実を結んだ、ってことですかね!」

と、白狐は呑気なものだが、そんなたやすい話なはずがあるものか。今、こうして神妙な顔をして道を譲る者たちも、ひとたび我ら一行が過ぎ去れば、やれ平家は卑怯だ化け物だと、悪口を並べ立てるはずなのだ。だからこそ、我々の任務があるのではないか。

 これではだめだ。古来より誰もが崇め奉る天皇(すめらみこと)のように、平家が政の頂点にあることを誰もが疑わぬ、そのような世を作っていかねばならない。

 六波羅様—清盛公こそ、この国の誠の王であると—

そのとき、襤褸をまとった子どもが一人、疾風のように列の前の道を横切った。手に抱えていたのは鞠ではなく、丸々とした瓜—

 そうだ。あのときも—

 盗んだのはたしか、大根だった。

 何日も食にありつけず、野垂れ死にかけていたはずなのに、食べ物を手にすれば自分でも驚くほど力が湧いて、走ることができた。

 当時はまだ六つかそこらだったはずだ。父は戦場に散り、母にも捨てられ、食い扶持の稼ぎ方など誰にも教わらないまま世に放り出された小童にとって、盗むほかに己の命をつなぐ手はなかった。

 だが、痩せこけた小童の足で、そう遠くまで逃げおおせるはずもなく—

「この餓鬼め」

 足がもつれ、襤褸の子どもは勢いよく転倒した。

 すかさず八百屋の主人が駆けつけて、子どもを力任せに、それも執拗に殴打する。

 ああ、あのときはたしか鞭で打たれたのだったか。まだ背中にそのときの痕が残っているはずだ。

 主人の拳が振り下ろされるたび、古傷にきしむような痛みが走った。

「こっちへ来い!その穢れた手、俺が切り落としてやる」

「いやだ!離せぇ!」

 主人は抜き払った短刀を振りかぶった。

 待て!今しばし—

 一歩前に踏み出しかけたとき、主人の挙動が不自然にぴいんと突っ張った。

 その背後から現れたのは、一人の女だ。

 編み上げのわらじ、片手には市女笠。今し方、鄙から上ってきたといういでたち。

 大胆にも、女は片手で、大根のように太い主人の利き手を押さえ込んでいた。

 年の頃は十七、八といったところか。

 主人を見上げる目に物怖じらしきものは一切見えず、その艶やかな見目に似合わぬ、益荒男(ますらお)のような女だ。

「おやめなさい。こんな痩せっぽちの子ども相手に熱くなったって、己の器量の小ささを知らしめるだけよ」

「そうか。では代わりに、お前の手を召し上げても良いぞ」

 主人は女の手首を掴み返した。

 女は怯えるどころか、ため息すらついた。

「欲がないわね。こちらは私の手一本などより、よほど価値のあるものを差し上げようというのに」

「何だと?」

「もしご満足頂けなかったら、私の手でも足でも、お好きに持っていけばいいわ」

 女はさらりと扇を開いた。

 それを見た途端、何だか裏切られたような、ちょっとした失望感がじわじわと胸に広がった。

 白拍子女か—

「兄様、どうしました?」

 気付くと、傍らから白狐が目を丸くして、顔を覗き込んでいた。

「ああ、やっと気付いたーさっきからぼーっと何してるんですか、皆行ってしまいますよ」

 目を見開くと、背後に従えていたはずの一行はいつの間にかはるか前方に行っている。

「何でもない…行くぞ」


 場は熱狂の渦にあった。

 舞以前に、大の大人を小娘がやり込めたという痛快さによるところが大きいのだろう。

 皆が拍手と称賛を惜しまなかった。

 が、真鶴はいたってつつましい態度を保って、深々と礼をした。

 ばつが悪くなったのか、八百屋の主人の姿はいつの間にか消えている。

 久々の都の賑わいは、七年前の記憶の中のそれと何ら変わりはない。むしろ、より栄えているようだ。

「このところは六波羅の清盛公がえらく頑張ってくれて、宋の国との交易が順風満帆って噂だよ。これこの通り、宋国あっちの器や香だって、ちょっと前だったらこんなにたくさん市には並ばなかったさ」

 市場で舶来の珍物を商う男は、ほくほく顔でそう語っていた。

 今や清盛の名なしに、都は語れないらしい。

 出自と身分を問われたので、諸国を遍歴してきた白拍子だと答えれば、友好的だった男は急にいぶかしげに眉をひそめた。

「これだよ。ここ最近は猫も杓子も白拍子だ。あんた、それでも時流に乗っている気かもしれないが、同じことを企んでる奴はごまんといるんだよ。清盛公や法皇様がいくら白拍子舞にうつつを抜かされてるからって、ぱちもんにごまかされるほど、落ちぶれちゃいねえさ。早いとこ、作戦を考え直した方がいいぜ。化けの皮が剥がれて都を永久追放される前にな」

 馬鹿にするな、私だって事がそう簡単に進むなんて思っちゃいない。

 筋違いな説教に心の中で毒づきながら、道行く人に尋ね回った末、都の表通りよりそれた所にひっそりと店を構える、小さな仕立て屋の門を叩くことになった。

「うちに頼んでくれるってのかい?いやぁ悪いねぇ、なかなか給金が出せないもんで、職人どもがこないだごっそり逃げちまって、仕上がりの時期は約束できないんだが、それでもよければ」

 店の主人だと名乗る小男は、接客用の笑顔を保ちつつも、頬はたるみ、背も丸く、その頭に乗せた萎烏帽子と同じように、くたびれきった様子だった。

「仕立てのご相談じゃありませんのよ」

 前置きもそこそこに、土間に膝をつき、そのままひれ伏した。

「国の母に仕送りをしてやらねばならぬのです。どうか、わたくしをお使い頂けませぬか」

「つ、使うったって、申したであろう、今出せる給金はほんのわずかで…」

 仕立て屋の主人は分かりやすく狼狽している。

「わたくしには歌舞音曲しかとりえがございませぬ。ですがもし、それを貴族の殿方のお目にかける場だけでも用意くださいましたならば」

 そこで素早く、脳内で計算を走らせた。

 食うに困っているわけではない。ここは欲張らず、安全な線を行った方がいいだろう。

「三、七…でいかがでございましょう。七はもちろん、あなたさまで」

 主人は刮目した。

「七…さほどに多くてよろしいのか?」

「ご紹介頂くのですもの、そのお骨折りの分は、お礼を致しませんと」

 主人は大きくため息をついた。

 この経営状態で、一人とて取りこぼしたくない客相手につくような種類のため息ではない。目の前の獲物は煮るも焼くも自分次第、さあどうしてやろうかと、悦に入ったときに思わず漏らすため息の響きだった。

 ひれ伏したままの首筋から肩、背中と、蛇が這うように視線が渡っていくのを感じる。

「明日、左馬頭(さまのかみ)様の元に出来上がった装束をお持ちする」

 それまでの客商い仕様の声色とは、がらりと変わっていた。

「ついてまいれ」

 そこからは、仕立て屋の主人・雪次(ゆきじ)の後について下級貴族の館に出入りし、舞を披露する夜を重ねた。

 落ち目の商人の客なだけあって、誰も彼もうだつの上がらない貴族ばかりだったが、下流のいいところは、無駄に目が肥えていないことだ。

 田舎上がりの白拍子の舞でも、彼らは手を打って喜び、もっと良い使い道があったであろう金を気前よく弾んだ。一貴族の男として、白拍子の小娘に足元を見られたくない思いがあったのだろう。

 もちろん、求められるのは歌や舞ばかりではなかった。

 初めての"それ"は、蔵人(くろうど)の雑色(ぞうしき)をしているとかいう男の館だった。

 酌をしようと手を差し伸べた時、雑色の男は酒には目もくれず、衣の身八つ口に慣れた様子で手を滑り込ませてきた。その場の家人の目など、気にする様子もない。

 とっさにその手を振り払おうとしかけて、自身の立場を思い出し、すんでのところで止めた。

 そうこうしているうちに、男の手つきはどんどん大胆になる。はたから見ても、まさしくそれと分かる行いだっただろう。恥ずかしさにいてもたってもいられず、心の中では悲鳴をあげていた。

 そこに宴席からすかさず駆けつけた雪次は、苦言を呈するかと思いきや、赤ら顔に下卑た笑みを浮かべて、

「ここからは追加で」

と、手を差し出したのだ。

 思えば、今までこうしたことは大まかに知っていながら、あろうことか、この年まで全く関与することがなかった。

 十一を超えたあたりから、行く先々で絡みつくようになった男どもの視線に、気付かなかったわけではない。

 それでも、知らぬふりを決め込むことができたのは、音羽が盾となってくれたからだ。音羽がしばしば朝帰りをしていたことも、そして時折不自然なあざのようなものをつくっていたことも何もかも、この期に及んで、今までにない形で理解ができた。

 音羽と旅をするようになって、少しは一人前の大人らしくなったつもりだった。

 でも、そんなのとんだ思い上がりだ。まだまだ、音羽の庇護の元でぬくぬくするばかりの雛鳥だったのだ。

 男の粗末なしとねの中で、自身の浅はかさにしのび泣いた。

 雪次は、客から取るべきものを確実に取り、懐を肥やしながらも、生来の業突く張りな顔を徐々に表し出した。

 自身の商い道具を平時に遊ばせておくことすら惜しいと思ったか、いつしか当然の顔で閨(ねや)に忍んでくるようになったのも、自然な流れだったかもしれない。

「たかが田舎上がりの白拍子に、こんな世知辛い都の泳ぎ方が分かるものか。わしが指南してやる。これからもずっと、な」

と、骨の髄まで吸い尽くす勢いで弄ばれているのを、どこか他人事のように俯瞰している自分がいた。

 父を嵌めた人物は、間違いなく雲上人—­上流の貴族だ。そうでなければ、あれだけの検非違使を動かせるものか。

 探し出すには、上流社会に忍び込むしかない。その足がかりを掴むためならば、何でもやってやる—

 そう覚悟して自分で決めた道を、悔やんで引き返すようなことはしたくなかった。

 とはいえ、足を踏み外して絶望の淵に吸い込まれそうになるのを、何とか踏ん張って立っているのがやっとだ。

 いっそ踏み外してしまった方が、楽になれる—?

 そんな気弱な考えがよぎりかけた初夏の頃、その日は訪れた。

 雪次はいつになくうきうきした様子で、その知らせをもたらした。

「一条大蔵卿長成(いちじょうおおくらきょうながなり)様の催される菖蒲の宴だ。一条様は雲上人との付き合いも深い、今までの客層とはまるで違うぞ。しくじったらただではおかぬからな」

 そう思わせぶりな言い方をしておいて、蓋を開けたら待っていたのは上流社会との縁などとうに切れた落ちぶれ者ばかり、というのが定石だったので、今回もさして期待はしてなかった。

 が、半信半疑で向かえば、たしかに今までとは格が違った。

 客人たちがまとう装束はどれも現代風の色目を意識した上品なもので、酒食に興じながら交わされる会話にも、落ち着きがあった。酔いに任せて、下品な野次を飛ばすような輩もいない。

「よくぞ参った。そなたのような美しい舞姫が我が家の宴に花を添えてくれること、嬉しゅう思うぞ」

と、宴の主人・一条長成は、赤く染まった丸顔をくしゃくしゃにして、歓迎の意を表した。

 かつて権勢をほしいままにした藤原北家の血筋だというのに、身分に驕らない、素朴で親しみやすい人柄がその飾らない言葉に表れていた。

 その歓待に応えるべく、手足の指先まで精神を行き渡らせて舞った。

 自由にたゆたっていた場の空気が一気に向きを変え、自身へと流れ出した—と思ったとき、視界の片隅で、少し空気が動いた。

「おお、これはこれは、ご無沙汰をしておりました」

 一条が座から腰を浮かせ、慇懃に礼をしている。主人である一条が、とっさに立ち上がって礼を尽くす相手—相当重い身分の人物と思われる。

「よい。そのまま、そのまま」

 鷹揚に声をかけながら、その人物が座につく。

 全体の姿が視界にすっぽりと収まったそのとき—

 全身を稲妻に貫かれたような衝撃が走った。

 一条の隣の座を占める直衣姿の貴人。陶器のような白い肌に、小刀で切り込んだような狐目。見まがうはずがない。その冷ややかな眼に一切の逡巡をよぎらせず、一刀のもとに母を切り捨てた、あの男—。

 夢にまで見た展開だというのに、手足は依然として呑気に舞を続けている。まるで見えない糸に操られる傀儡のようだ。

 繰り返す所作の優雅さとは裏腹に、腰に差している太刀のことを思った。たった一人の油断しきった標的の息の根を止める技くらい、とっくの昔に会得していた。今この瞬間を夢見て、血のにじむような鍛錬を重ねてきたのだ。

 まさかこんなにもたやすく、出会えるなんて—

 今まで感じたことのない興奮が、胸を熱くした。

 ようやく本懐を遂げられる喜びか?

 成り行きからしてそうなのだろう。

 だが、どこか違うというような気もした。

 むしろ、長年探し求めてきた愛しい人に再会できた喜びに近い心持ちだ。

 いや、そんなことあるわけがない。私としたことが、一体何を考えているのか。

 錯綜する気持ちが体内で暴れ回る。つられて舞はますます熱を帯び、時忠とその臣従たちも舞にのめり込んでいくのが分かった。彼らの心は、すっかり真鶴が握りしめていた。

 何て皮肉な—

 床を強く踏み鳴らしながら、一歩、また一歩と、前に出る。

 むろん、時忠が退くことはない。

 少し手を伸ばせば触れられる所で、不倶戴天の敵は大胆に急所をさらけ出していた。

 気が付いたときには、真鶴は床に手をついて、拍手喝采を全身で浴びていた。

 この頭の中では今このときも血なまぐさい妄想が繰り広げられているというのに、目の前の現実はいたって明るく、平和に満ちていた。

 一条はさらに頬を紅潮させて、しきりに扇を振っている。

「見事、見事!まさに菖蒲が花開くような美しさであった。褒美は後でたんと進ぜようぞ」

 客人たちの熱い視線を感じつつ、冷静を装って、その場を後にした。

 屋敷の門を出るまでは—と念じていたのに、廊下に出るや否や、体の奥底から沸き起こるような震えに襲われた。くずおれそうになる体を、欄干につかまってどうにか支えた。

 あのとき—舞いながら、いざと懐に手を滑り込ませた瞬間、確かに耳元で聞こえたのだ。

 早まりなさるな—

 聞かなかったことにもできたはずだ。現に、音羽の遺志を振り切って、都までやってきたのだから。

 なのに、その声を聞いたとき、ここで本懐を遂げる意志はすっかりくじかれてしまった。ただ、仇敵とその取り巻きの耳目を楽しませるただの遊女に成り下がった。

 愚かだ。愚かな真鶴—!

「愚かだなぁ」

 心の声が、唐突に生身の声として現れたかと思うと、大きな毬のような何かが上から降ってきた。

 物の怪の類かと身構えてみれば、欄干に器用にまたがっていたのは、一人の小柄な少年だった。年の頃は十ほど、後ろで高く束ねた髪が艶やかに揺れ、子どもらしい白桃のような頬が何ともかわいらしい。

「さっきの、見させてもらったよ。君、身のこなしはなかなか良いのに、考えが所作に出やすいんだねぇ」

 無邪気に放たれたその言葉は、背筋をつっと冷たく走った。

「あなたは…ここのお屋敷のお子なの?」

 まとっている水干は上等な織りで、明らかに家司や従僕ふぜいの子弟の身なりではない。

「—だったら良かったんだけどねぇ、残念ながらよそ者だよ。だからもう、この屋敷にはいられないんだって。母上が仰ってた」

「どこかへ行くの?」

「僕もよく知らない。これからは山奥でお勉強をするんだって」

 少年の口ぶりは一貫して呑気なものだ。

「そもそもあなた…見させてもらったって、さっきどこにいたの?」

「そんなの決まっているじゃないか」

 少年は、指を一本真っ直ぐ上に向けて立てた。

「ねずみのふりしてね、毎晩こつこつ開けてたんだ、穴を」

 呆れた。とんだいたずら小童である。

「だから安心して。さっき見てたことは、誰にも言わないよ。だけど君の秘密、知っちゃったわけだし、せっかくだから忠告しておくよ」

 無垢な少年の目が、急に狼のそれになった。

「時忠殿一人斬ったところで、今の平家は痛くも痒くもないよ。今や帝をもしのぐ、強大な一族だからね。君は本当にそれでいいのかい?」

 ぐうの音も出ない。

 たしかに時忠は宿敵だが、父が巻き込まれた陰謀には、平家という巨大な権力がより深く関与しているはずだ。其奴をのさばらせたまま、私は時忠を斬った罪人として、喜んでこの首を差し出せるのだろうか?

「僕だったらそんな詰めの甘いことはしないさ。この手で根絶やしにしてやるよ。二度と這い上がってこられなくなるまで、叩きのめすんだ」

 欄干からひらりと飛び降りて、床を踏みつけた。その姿はさながら、邪鬼を踏み潰す毘沙門天だ。

 この少年のどこから、そんな風格が—?

「若君、いずこにおいでですか」

 そのとき、女中の呼ぶ声が、若狼を少年に戻した。

「いけない、僕逃げなきゃ。それじゃお姉さん、健闘を祈るよ」

「待って!あなた、名は?」

「名乗るほどの者じゃないよ…ふふ、これ言ってみたかったんだ」

「茶化さないで。私は真鶴。あなたの名は?」

 うーん、と少し首を傾げてから、

「牛」

 まったく、どこまで人をからかうのか―

 一言言ってやろうと思ったときには、牛の姿は消えていた。

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