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三度の組織崩壊を経験した経営者が見つけた天職

「好きなことを仕事にしよう」
「ワクワクに従って生きよう」
そんなキラキラとするメッセージに突き動かされるままに、2013年5月29日の大安の日に、書類とハンコの嵐の関門をくぐり抜けながら法務局なる場所で会社を登記した。そして、その日から私は「社長」になった。社員0人で、オフィスの家具探しから、トイレ掃除、ゴミ出しから何から何まで自分でやるという、社長なんていう肩書きとはほど遠い、雑務で99%が追われる毎日が始まっただけだったけど。そして当時の月給は8万円だ。

名ばかり社長になるまでの私は、モヤモヤとした中途半端なキャリアを送っていた28歳だった。国際協力機関で正社員のエリートコースではない「専門嘱託」という期間限定の雇われ専門家として、就業時刻と共にサクッと仕事を終えては、近くの皇居に一直線でマラソンのトレーニングに精を出して満たされない日々から目を背ける。組織でイノベーター精神でアイデアを出せば、前例がない、リスクが大きいと、出来ない理由を探されてばかりでやる気は一向に萎えていき、仮に提案が通りそうでもたくさんの部署の決裁をもらうためにハンコを追いかけなければいけない官僚体制にも辟易してばかり。

そんなある日、職場で回覧されてきた国際協力雑誌の中の記事を見て涙が溢れてきた。
「外国人留学生は日本の政策で増えてきている。そうした外国人の留学生のうち、日本ではたらきたいと思っても、4人に1人しか日本で就職先が見つからない。残りの人たちはみんな泣く泣く母国に帰っていく」
そんな記事だった。私はどこから湧き出たのかわからない何の根拠もない確信と共に、このために私は人生をかける!と、鬱屈としたキャリアに終止符を打つことを決めた。

起業当時、私はとてつもなく大きな「使命感」に燃えていた。その情熱の炎の大きさと強さといったら並大抵のものではなく、たとえ人から冷ややかに「そんなのうまくいきっこない」と予言をされたところで、ふん、そんなことあなたには分かりっこない!と、軽く一蹴するほど私は自分の進む道を確信していたのだ。まあ、正直言うと多少は心がグサリと傷ついたものの、その傷は「誰も理解できないからこそ、自分がやらなければ」という信念へと形をかえ、「絶対人に必要とされ喜ばれる会社を作るんだ」と心の中でタトゥーとして何個も何個も刻まれていった。

1年でどうせ会社が潰れる。いや、3年で潰れる会社が世の中の半分以上だ。そんな風な「うまくいかなくて当然」というゴシップを楽しみにする気持ちが垣間見られるお節介極まりない予想とは裏腹に、私が起業した外国籍の求職者に対して仕事を探すというビジョナリーな会社は、生きながらえていった。ついでに、30万社が廃業のリスクありと言われたのこのコロナショックという大波も、あっぷあっぷと水を飲み込みながらも、なんとかかんとか顔を波の上に突き出すことに成功し、そして今も会社は継続している。様々なボーダーを超えて集まる28人のメンバーと共に。

「不死鳥のようだ」税理士の先生が感嘆と好奇心の入り混じった様子で会社の成績表である決算資料をまじまじと見る。不死鳥に飛び乗ることを決めた28歳の新米女性起業家の私は、いつの間にか2児の母で38歳の10年近い経営経験のある経営者になっていた。そして、私たちの会社を通じて理想の仕事を見つけて行った人たちも、レコードを確認しないと覚えていられないくらいの数になっていった。

これこそが自分のライフミッションだ、と全てを投げ捨てて(といっても持っていたものなんて当時はそんなになかったけれど)始めた日本に暮らす外国籍の人たちのお仕事探しをお手伝いするビジネス。9年の時を経て、私は改めてこの仕事が自分の天職だと噛み締めながら今日もパチパチとパソコンに向かい、Zoomで会議をしている。
ただ、この天職だという感覚は、起業当時の自分の理想の社会を実現したい!という一種の自己実現として身に纏っていた使命感とは随分と形を変えている。

ここで、正直なことを告白したいと思う。社会一般的には「社長」がいうのはタブーだとされていることだ。
私は、自分で立ち上げた会社をもうやめたい、むしろ会社どころか人生だってもう全てリセットボタンを押して、一回、バックパッカーとして世界のどこかに渡って毎日何をするのかどこにいくのかその時々決める気ままな人生を送りたい、それがダメなら、どこか人里離れてひたすら座禅をくむような人生を送りたい、と思ったことがある。

2013年に起業して以来、3度ほど私は組織崩壊を経験した。1回目は、起業してまもない頃。一緒に情熱を共有し起業という道に突き進むことを決めた共同創業者と仲違いをしたのをきっかけに、組織がガラガラと音を立てて崩れていき、アルバイトの人たちは次々と辞めていった。希望の光だった唯一の正社員もやめて、私ともう一人の時短スタッフだけが残された。今でも忘れない。自分の会社のオフィスに向かう時に、心臓がバクバクとして、オフィスのドアの鍵を開ける手が震えたことを。不眠症にも悩まされていた。

その次に訪れた組織崩壊は2018年くらいだった。突然応募してきた敏腕営業マンと業績を立て直して売上は急上昇。3倍くらいの大きさオフィスに移転して、イケイケどんどんで人を採用して大きく大きく、と前のめりになっていた矢先。そのトップ営業マンを筆頭に、毎月一人、また一人・・・と退職をしていった。最高の会社を作るなんていうテーマのビジネス書が虚しく会社の本棚に鎮座する中で、経営者としての自分への自己否定の気持ちに苛まれ、またも不眠症と心臓のバクバクに苦しめられる日々がはじまった。

そして、その第二次組織崩壊の余韻がまだ残る中ではじまった突然のコロナ禍。第三の組織崩壊が訪れる。在宅勤務でなければはたらかない、という社員のボイコット宣言。そうしてなし崩し的に在宅勤務が始まったら、社内のチャットツール(Slack)に悪口チャンネルなるものが開設され、他に行くところがなくてこの会社に閉じ込められたw、という希望の影も形もないコメントで盛り上がるような会社になってしまった。社会情勢的に仕方ない側面はあったにせよ、経営者である私への信頼が社員からゼロな状況で、どんなに考え抜いた戦略を掲げたところで会社が業績を上げれるはずがなく、かといって今度は人は辞めないという状況。会社のキャッシュが日々目減りしていき、倒産という二文字が現実味を増すばかり。

そんな数々の組織崩壊の中でも、いつでも会社は続けられる活路を見出してきた。もう今度こそダメだろうという時には、どこからともなく誰かの助けが現れる。そうして組織が崩壊する度に会社は新たな形に生まれ変わり強くなってきた。
そんな風に立派に変化ならぬ進化を遂げる会社にしがみつくようにして、私自身も経営者として痛みから学んでいった。また後ろ向きな思いに引き摺り込まれそうになる時には、この会社が存続することを喜んでくれる人たちからどんなに勇気をもらったことか。

世間一般ではワクワクすることが天職だとよく表現される。私も胸が高鳴らないようなら天職ではないと思う。同時に、仕事をしていれば、ワクワクしない瞬間に時折直面することもあるのではないだろうか。
ワクワクしっぱなしの仕事なんて、街中でアクセル全開でずっと青信号だけに恵まれ、渋滞も何もない道を滑走し続けられるのと同じくらい非現実的なことかと。

問題はいつもは心踊る仕事なのに、その心が粉々に打ち砕かれそうになった時に、視点を上げて自分の仕事を通じて喜んでくれる人たちの顔を想像し、歩みを止めずに進むことが出来るのか。そして足を引きずりながらも前進する中で、予期せぬ形とタイミングでぱーっと光がさして道が開けてくるのか。そういった自分の強い意志と偶然のようなものの組み合わせで「仕事」から「天職」になるのではないかと私は思っている。

毎日、より良い仕事を探して相談にくる人たちに関わる人材エージェント会社を経営する私が考える「天職」には夢があるのかないのか分からない。
けれど、私は今日もこれが天職になるように、そしてこれからも天職であり続けられることを謙虚に祈りながらSlackを立ち上げる。

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