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文字起こししたもの「横光利一」

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横光利一作品で、青空文庫に無いものを文字起こししました。 読書に朗読に、どうぞご自由にご利用下さいませ。
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記事一覧

「内面と外面について」横光利一

 「笑はれた子」は最初發表したとき、「面」と云ふ題にした。確か書いたのは二十か二十一の頃だつたやうに記憶してゐる。 私の父の弟(私の叔父)のことを書いたものであるが、かう云ふ話に興味を持つたその頃の自分を振り返つてみると、ちょつとませてゐて不快である。しかし、私は此の作を恐らく五回ほど書き直してやつと仕上げた。 最後の所にひつかかつて、一年ほどほつておいた。 一年ほど過ぎてまたとり出して最後の所を讀むと、またそこが不快になつて書き直した。だから、年月で計算すると、此の十枚足ら

「母の茶」横光利一

 去年の秋京都へ行つたとき都ホテルに泊つた。ここの宿は私は初めてである、私の泊つた宿の中ではベニスのローヤル・ダニエルといふ十六世紀に建つた美しいホテルと似てゐる。ここから同行のH君が子供の骨を西大谷の納骨堂へ納めに行かねばならぬといふので私も一緒に行くことにした。 朝の日光の中を小さな骨壺を振り振り君は、 この子供の顔を僕は知らないのですよ、七ヶ月で流産したものですから骨をかうして持つてゐても、子供の骨だといふ氣がしないのですと言ひつつ、反つた御影の石橋を渡つていつた。實は

「宮沢賢治氏について」横光利一

 宮澤賢治といふ詩人はどんな人であつたかは、氏の生前一度も知つたことがなかつた。昨年の九月にこの人は岩手縣の花卷で死んでゐる。この二月になつて、ある日、草野心平氏の個人で出版された宮澤賢治追悼號といふのをふと手にして、初めてこの詩人の名を知つた次第であるが、中に挟まれた詩の幾つかに私はひどく打たれた。 殊に知名の詩人數十名の追悼文を讀んで、詩よりも氏の生活上に於ける日常の態度や行爲に一層私は感服した。 この詩人の行爲は、われわれの理想としてもいささかも遜色のない立派なものだと

「宮沢賢治」横光利一

 宮澤賢治といふ詩人の全集が出る。 友人や知己の著述に序文を書いたり、推薦文を書いたりするときには、それらの人々の述作そのものよりも、眼に見た日頃の人物の全幅を言外に云ひ現さうとする努力のために、多少とも筆力に誇張を應用させて文章を書かねばならぬ。この心理は筆力が誇張に落ちてゐるそれだけ、筆者の腦裡に膨張してゐる知人の力を、無言の中に云ひ現す方法となつてゐることが多いものだ。 しかし、宮澤賢治といふ詩人については、私は生前一面識もなく、また何人なるかも知らなかつたので、この推

「舟」横光利一

 彼れはキャベツの畑の中に立つてとよの後姿を眺めてゐた。 彼女は靄のかゝつた草原の中を屠殺場の方へ歩いていつた。朝のすがすがしい空氣の下で湖は澄み渡つてゐた。 彼れは彼の女と一緒に屠殺場まで行かうと思つた。さう彼れの思ふのは每朝のことである。彼れは人知れずいつもとよの後姿を眺めてゐた。 彼れは彼の女の肺がもうどの醫者にも見放されたと云ふことも知つてゐた。今はただ彼の女はかうして朝每に、屠殺場の牛の血をひたすらに飮みに行くのだと云ふことも知つてゐた。が、 とよの姿は彼れの見る度

「川端氏の芸術」横光利一

 私は川端康成氏の作品の愛讀者である。氏の作を讀んでゐると、だんだん何が書いてあるのか分らなくなるといふ人が多い。これはもつともなことであつて不思議ではない。 鳥の飛んでゐるとき、その飛ぶ方向は見るものの眼に豫測が出來るが、蝶の飛ぶときには、飛ぶままの姿より方向は感じられぬ。川端氏の作品は飛ぶ蝶の姿に似てゐる。蝶は鳥よりも輕く小さいといふ意味ではない。飛びゆくさまが蝶を思はせる運動をとるのである。翅が體より絶っして大きい證據であるこの運動は、川端氏の眼の速度の異常な迅さを示し

「早春」横光利一

 この前こちらの朝日へ随筆を書いてから、これで七年目になる。そのときも季節は丁度今頃であった。母の亡くなつた直ぐ後で、母の柩が霜柱の上に凍りついた草を踏み踏み、傾きながら遠ざかつていったところを書いたのを思ひだす。  それから七年、私の先輩で亡くなつた人は芥川龍之介氏、小山内薫氏、三宅やす子氏、籐澤淸造氏などなかなか多い。芥川氏と最後に逢つたときは私の結婚式で、氏は私に一冊の古雜誌を下された。見るとそれは漱石のロンドン塔の出てゐる帝國文學であつた。 私は文學をまだ何も知らない

「ある夜(覚書) 」横光利一

 横須賀行の品川驛ホームは海近い。ここに立つてゐると線路も無數に見え、その上を東西に次から次へと間斷なく辷つて來る省線の乘り降りする客はたいへんな數である。中原中也君の葬に鎌倉へ行く途中だが、ふと故人の最後の詩をそのとき私は思ひ出した。ビルディングや驛の口から人の溢れ出て來るところを詠んだもので、  出てくるわ出てくるわ出てくるわ  とこのやうに繰り返してあつたものだ。この夏故人はどういふつもりかひよつこり私の家へ訪ねてくれたが、初めて來てそれが最後となつてしまつた。そのとき

「春の日」横光利一

 人が自分を見たときに、どんな模様に自分が見えてゐるのだらう、といふ面白さは、ときには忘れたり、甦つて來たりするものだ。  日本には黑龍といふのがゐて、それが政治を動かしてゐるさうだが本當か。といふ質問は、よく外國人から受けた質問で私は答へに弱った記憶がある。ブラック・ドラゴン、といふこの想像の顯はす姿は、外人にいかなる像を映してゐるものだらうか、これも私らには不明瞭だが、おそらく奇怪至極な、 兇惡な相をしてゐたことだらう。善良な日本人を外國が救ってやるためには、この眞黑な龍