「舟」横光利一

 彼れはキャベツの畑の中に立つてとよの後姿を眺めてゐた。 彼女は靄のかゝつた草原の中を屠殺場の方へ歩いていつた。朝のすがすがしい空氣の下で湖は澄み渡つてゐた。 彼れは彼の女と一緒に屠殺場まで行かうと思つた。さう彼れの思ふのは每朝のことである。彼れは人知れずいつもとよの後姿を眺めてゐた。 彼れは彼の女の肺がもうどの醫者にも見放されたと云ふことも知つてゐた。今はただ彼の女はかうして朝每に、屠殺場の牛の血をひたすらに飮みに行くのだと云ふことも知つてゐた。が、 とよの姿は彼れの見る度に痩せ細つていつた。 裾を端折つて竹の皮の草履をはいて、草徑を行くとよの後姿は彼れがキャベツの畑の中から見てゐると、湖の水平線を辿って細々と傾いて行く巡禮女のやうに思はれた。何に慰められて歩みつゞけて行くのであるか。 彼れはそれを思ふと、血を飮みに行くといふその若い彼女をひきとめて長らく自分の心に祕めてゐた愛情をひと言彼女にいひたかつた。もし彼れのいふ前に彼女が死んで了つたなら、それは彼れにとつてはとり返しのつかぬ悲むべきことであつた。彼は今日こそ彼女に自分の心を打ち開けようと決心した。
 彼れはとよの後をついていつた。
 彼れは幾本ものポプラの立木のわきを通つて湖の岸へ出た。 路は岸にそつて眞直ぐに山の方へ延びてゐた。 遠くへ行く、とよの草履の裏からは白い埃が上つてゐた。彼れはまだとよに言葉をかけたことがなかつた。 かける機會が幾度もあつた。が、それに彼れは默つてゐた。 胸が騒げば騒ぐほど彼れはいつも默つて了はなければならなかつた。
 とよと彼れとの距離がだんだんと近づいた。彼れは周圍に人目のないことを知つてゐた。
「おとよさん。」
 ただ今はさう云へばよかつた。併し、それだけが何ぜ此のやうに云ふことが出來ないのか。彼れには自分の愚圖々々してゐる暇にとよがそれだけ死へ近よつて行くやうに思はれた。が、それにも拘らず彼れは默つてゐた。 彼れは彼女の傍へ近寄つて行くことさへ出來なかつた。彼れはせつなさうに湖の上を見ながら彼女の後からついて行った。すると、とよは足音を聞いて後を向いた。が、彼女は默つて直ぐまた前と變らず俯向いて歩いた。靑く血の透いた足首がとぼとぼとしてゐた。彼れは彼女の歩みに調子を合せるやうにして、同じ間隔を距てながら歩いた。しかし彼れはとよを思ふ心と彼女に愛を打ち明けねばおかれない氣持ちとで頭がぼんやりとして來た。 ぼんやりした頭の中で彼れの氣持ちだけがいら立つた。いつの間にか彼れは彼女と竝んで歩いてゐた。彼れの足は時々小石の頭に蹉いた。しかし、彼は默つてゐた。彼れの顔は赤く熱して來たが、彼れはとよの方を向くことも出來なかつた。彼れはただ今にも泣き出しそうな顔をして眉を顰めてゐた。 汗が額から流れ出した。 脊が冷たくなつて前に蹲まんでゐた。 彼れは眼がだんだんと暗みさうになつた。
「おとよさん。」
 彼れはとよの顔を見ずにたうとう云つた。 とよは默って彼れの横顔を見た。
「おとよさん。」
「はい。」ととよは云つた。
 彼れが彼女の顔を見ると、彼女の顔は眞靑になつてゐた。 彼れは何か云はうと思つた。が、唇がぶるぶると慄へて來て口が動かなかつた。二人はそのまま默って歩いていつた。
 畑から南瓜が湖の中へ這ひ込んでゐた。 ゆるやかな波が南瓜の腹をだぼりだぼりと洗つてゐた。蜆とりの小舟が磯近くにとまつてゐた。數點の帆が沖へ向かつて竝んでゐた。
 暫く二人が行つたとき、急にとよは默つて彼れにお辭儀をした。 彼れは立ち停つた。するととよは木柵のある屠殺場の中へ這入つていつた。彼れはいつの間にこゝまで來たのか知らなかつた。彼れはとよの歸りを待つために屠殺場の裏へまはつて破れた木柵の隙から中を覗いてゐた。 庭には三頭の牛が殺されて横たはつてゐた。 血に染つて突ツ立つてゐる中央の柱には蠅が黒く群つてゐた。彼れはとよの姿を捜したがどこにも見えなかつた。屋根の低い家の中で、今彼女は牛の血を飮んでゐるのだと彼れは思つた。 とよの小さな口が血で眞赤に濡れてゐるところが浮んで來た。彼れは表の方へ廻つてとよの出て來るのを待つてゐた。
 表の道を二頭の牛が曳かれて來た。牛は靜かに首を垂れて屠殺場の門の中へ這入つていつた。
 暫くしてとよが口をハンカチで壓へながら出て來た。彼れはとよより先になつて來た道を引返した。彼れは彼の女が自分に追ひつくやうに遲く歩いた。しかし、とよは彼れの傍まで來ても彼れより先に行かうとはしなかつた。彼れは後を向いて見た。 とよはまだハンカチを口に當てたま一寸彼れを見ると目を伏せた。その靜かな彼女の様子が、彼れにはどこかへ殺されに曳かれて行く牛のやうに思はれた。彼れは立ち停つた。すると、彼女は彼れの傍まで來て彼れとは反對の道の端をあるき出した。 彼れもあるき出した。また彼れは息がつまりさうになつて來た。彼れは前後を見まはしてとよの傍へよつていつた。
「おとよさん。」
「どこへいらつしゃいましたの。」
 彼れはだまつてゐた。
「涼しうございますわね。」
「わしは、あんたが死ぬとこまつてしまふ。」と彼れは吃るやうにつぶやいた。
 とよはだまつて俯向いてゐた。
 彼れは自分の思つてゐたことをいひ出すと急に氣持ちが樂になつた。
「わしは每朝あんたの行くのを見とる。」とまた彼れは云つた。
 とよは小さな咳をした。耳に淡く血の色がさしてゐた。
「わしは每日あんたを思ふとつた。云はう云はう思ふとつたが。」
 彼はとよの顔を見て急に言葉を切つた。
「病氣はどうかな。」
「はい。」
 さう云つてとよはお辭儀をしかけたが何も云はなかつた。
「わしが見てると、每日瘦て行くやうぢやが、よいのかな?」
「あまり思はしうございませんの。」
「わしはあんたに死なれるかと思うて、ひやひやしとる。」
 そのま二人は默つて歩いて行つた。彼れは長らく胸に詰つてゐたものを吐き出したやうに愉快になつた。路傍の蘆の中で雀の群が騒いでゐた。湖の水面で時々小魚が跳ね上つた。 遠く汽船が波の上に尾をひいて進んでゐた。 彼れはもしこれが晝間でなかつたなら、彼の女を負つて歸りたかつた。喘ぐやうに歩いてゐる彼の女の姿を見ると、歩くと云ふことが一足每に彼の女の力を擦り減らしてゐるやうに思はれた。
「苦しいぢやらう。」
「いえ。」ととよは云つた。
「悪いね。わしはあんたの足もとが危のうてついて來た。」
 湖の光りは白んでゐた。對岸には都會が碎けた石垣のやうに亂れてゐた。高い煙筒からは湖の方へ煙がゆるく流れてゐた。村が近づいて來た。二人は道から外れた。 とよは葱畑の中を通つて行かねばならなかつた。彼れはキャベツ畑の中まで來たときとよに云つた。
「おとよさん。」
 とよは彼れを見て立ち停つた。
「日が暮れたらわしは濱で待つとるわ。」
 とよはかすかに頷くとお辭儀をして彼れの傍から離れていつた。
 彼れはとよの姿が見えなくなると、引ぬいたキャベツの最後の一束をかゝへて濱へ降りた。 彼れはいつもの朝よりも數倍の元氣であつた。彼れはキャベツを舟の中へ投げ込むと水に棹をつきさした。彼は大聲で歌を唄ひながら對岸の街を差して櫓を漕ぎ出した。 そこで彼れはキャベツを賣らねばならなかつた。 湖の上を渡る微風が強健な彼れの胸をかすめていつた。日に焦げた彼れの肩が櫓を引く度に輝いた。波は舟尻で渦を巻きながら擴がつた。魚は銀色の腹を返して舟端に突きあたつた。
 彼れはキャベツを街の商人に渡すと肥料を積んで歸つて來た。午後になると湖には波が立つた。彼れは早く日の暮れるのを何より待つた。彼はとよと逢ふことを思ふと午後の仕事がそはそはして出來なかつた。彼れは畑の草をひいて代りに葱を植ゑなければならなかつた。彼れは畑へ行くと、草の中からとよの家の方を絶えず見た。 丁度、彼れがさうして彼の女の家をながめた十幾度目かのときであつた。彼の女の軒の柴の上でとよが腰をおろしてひとり編物をしてゐる所が眼についた。彼の女のうしろの棚からは茄子の實が色づいて下つてゐた。彼れは遠くから彼の女を見てゐると、近くで彼の女を見た時よりも一層彼の女の衰へてゐることに氣がついた。牛の血を飮むよりも、もし人間の血の方が彼の女の身體に效目があるなら、彼れは自分の健康な血を出して飮ませたかつた。彼れは小石を拾ふと溝に刺さつてゐる一本の杭をめがけて投げつけた。それは彼の女が死ぬかどうかを占ふために投げつけたものである。もし石が杭にあたつたなら、彼の女の病氣は全快するにちがひないと彼れは思つた。しかし、 石は杭を脫はずれて水沫を跳ね飛ばした。
「いかん。」と彼はいつた。
 彼れはとよの方を見た。 彼の女は彼れの見てゐるのを知らなかつた。彼れは頬かむりをとつて草の上から振つた。が、とよは編物から目を放さなかつた。彼れは手拭をだらりと下に垂らしたまゝ長らく彼女の姿を眺めてゐた。
「あれや死ぬぞ!」と、彼れは不意に呟いた。
 彼れは悲くなつた。彼れは畑の中に蹲み込むと、草を手あたり次第にひきむしつた。彼れは草の中へ倒れ込んだ。
「神様、どうぞあの娘をたすけてやつて下さりませ。どうぞあの娘をたすけてやつて下さりませ。」
 彼れは眼を瞑つて祈り出した。淚が彼れの眼から流れてきた。彼れは草の葉で淚を拭きながらごろ〳〵と雜草の中を轉がり廻つた。
 日が暮れかゝつたとき、彼れはひとり湖の岸へ出て行つた。波は靜まつてゐた。鷺は魚を啄ばんで水面から馳け上つた。微風に漣が揺らめくと水中では藻の群生が一齊に濃綠色に變つて來た。帆が夕日に輝きながら沖の方から歸つて來た。
 彼は裸身になつて小舟へ乗ると、藻のない沖まで出ていつた。彼れはそこで水の中へ飛び込んだ。藻を積んだ船が彼れの近くを漕いでいつた。彼れはその舟と競爭するために拔き手をきつた。
 彼れは泳ぎ疲れると自分の舟へ歸つて來て、仰向きに舟先へ寢轉んだ。空は雲を拂つて暮色の中に擴つてゐた。遠くの山は峰にひとり夕日を浴びて淡紅色に榮えてゐた。
 日が全く暮れると彼れは舟を岸の方へ近づけた。彼れは一棹ぐつと水底に刺し入れた。舟は叢がった蘆を割つて洲の中へ辷り込んだ。彼れは口笛を吹きながら岸へ飛び降りた。濕つた草原が彼れの足の重みで水を滲み出した。
 彼れは跣足のまゝ畑の中へ突つて立つてとよの來る方を眺めてゐた。しかし、彼の女はなかなか來なかつた。彼れは畝の草の中で膝を組んではまた立ち上つた。蚊が彼の逞しい足を襲つて來た。彼れは氣がいらいらして來るととよの家の方へ歩き出した。暫く行つたとき、彼れは桑の葉を擦つて近づいて來る人の足音を聞きつけた。彼れは立ち停つた。そして、深々と繁つた桑畑のかすかに搖れるのを見詰めてゐた。すると、彼れの前に苦しげな息をついてとよが現れた。
「おとよさんか。」
「はア。」と答へた。
 彼れは躍るやうに彼女の傍へ駈け寄つた。彼女は彼れを見ながら靑ざめた顔に振りかゝつた髪の毛を撫で上げてゐた。
「苦しいぢやらう。」
 彼れはとよを横に抱き上げた。
「いゝのよ。」と彼女は云つた。
 が、靜かに彼女は彼れの腕の中ですくんでゐた。
 彼れにはとよが輕かつた。兩手で振れば苦もなく彼女の身體がばらばらになりさうに思はれた。彼れは彼女を抱きながら小川の水をぴしやぴしや飛ばして渡つていつた。彼れは野菊の花を蹴りつけた。
「舟に乗らう。」
 とよは頷いた。彼れは濱へ出ると片足で蘆を倒して舟の中へとよを降ろした。 彼は喜びで呼吸が激しくなつた。舟は彼れに押されて蘆の中から勢ひ良く辷り出した。 とよは舳先を攫んで蹲んでゐた。彼れは暫く默つて沖へ向つて櫓を漕いでいつた。對岸の街の灯が行手の水面に散つて搖れてゐた。 櫓の音が靜まつた湖の上で調子をとつて響いてゐた。 とよは舟端の波を小手で掬つてはじいてゐた。
「どこへ行かう。」と彼は訊いた。
「どこでも。」
「波が今晩は少ないね。」
 彼れは櫓を捨てるととよの傍へ寄つて行つた。彼れはとよの濡れた手をとつて自分の着物で拭いてやつた。彼女の手は冷たかつた。
「あッ、失敗た。」と彼れは低く云つた。
「どうしたの。」
「あんた、夜露は毒ぢやろが?」
「いいわ、いいわ。」
「毒ぢや。歸ろ。」
 彼れは急に櫓の傍へ戻らうとして立ちあがつた。すると、とよは彼れの手を持つて無理に自分の傍へ坐らせた。
「私、いづれ駄目なの。」
「何云うてるい!」
「ほんと。もう私、ここ一と月保つたらいいと思つてるの。」
 彼れは悲さがどつと詰つた。彼れは聲を上げて泣きたくなつた。
「おとよさん。わしの嫁さんになつてくれんか。」
 彼れはとよの腕を振つていつた。彼女は首を垂れて默つてゐた。
「よう、よう、おとよさん。わしの嫁さんになってくれよ。」
 彼れは泣きながら周章てゝとよを膝の上へかき寄せるやうに抱き上げた。
「こんな身體でもいいの。」と彼女は云つた。
「ええわ。ええわ。わし、かまふかい。」
 彼れは無茶苦茶に腕に力を籠めて咽喉を鳴らした。すると、とよは初めて肩を慄はせて泣き出した。舟はゆるやかに搖らいでゐた。默つて塊つてゐる二人の間から激しい咳が聞こえて來た。


読書に朗読に、ご自由にお使いください。
出来るだけ旧字旧かなのまま、誤字脱字の無いよう心掛けましたが至らない部分もあるかと思います。ごく個人の物ですので何卒ご容赦下さい。

初出:1924(大正十三)年八月十六日〜二十四日『東京日日新聞』
底本:河出書房新社発行「定本横光利一全集」第一巻

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