「川端氏の芸術」横光利一

 私は川端康成氏の作品の愛讀者である。氏の作を讀んでゐると、だんだん何が書いてあるのか分らなくなるといふ人が多い。これはもつともなことであつて不思議ではない。 鳥の飛んでゐるとき、その飛ぶ方向は見るものの眼に豫測が出來るが、蝶の飛ぶときには、飛ぶままの姿より方向は感じられぬ。川端氏の作品は飛ぶ蝶の姿に似てゐる。蝶は鳥よりも輕く小さいといふ意味ではない。飛びゆくさまが蝶を思はせる運動をとるのである。翅が體より絶っして大きい證據であるこの運動は、川端氏の眼の速度の異常な迅さを示してゐる。一瞬の現れに人と自然の運命がすでに完全に花を開き切り、も早や進行する必要を感じない。物の終りがいつも最初からつづいて舞ひ展く見事さの中で、作者川端氏はいつも無言である。この世の中で、川端氏の藝術を感じることの出來るものは、先づ藝術を去って俗事にいそしまねばならぬと思ふ。
 人はどのやうな俗事に從事をしてゐようとも、つまりは物の初まりと終りとを同時にしてゐることに變りはない。どんな慾望を抱いてゐようとも、所詮は川端氏の藝術の中にゐるやうなもので、随つて人も蝶のやうな飛び方をしながら、自分の命數の中を泳いでゐるといふことを感じるなら、悲しさ極って喜びに變じないとも限らない。 幸福はこのやうな蝶の閃めく姿に似たものと思ふのも間違ひではない。 川端氏の抒情と人の云ふところは、この蝶の飛びゆく姿を、おのれのことと感じたものが云ふのである。
 川端氏の作品から人は問題を探してはならぬと思ふ。この作者には問題といふものは必要がないからだ。南無阿彌陀佛より唱ふるな。 その他は焦熱地獄へ落ちるぞよ、と法然の云った言葉を人々は覺えてゐるだらう。問題はすべて人を地獄へ落していく。 といふより、すでに人々の多くは地獄へ辷り落ちてゐるのが現代である。地獄にゐるものには、川端氏の藝術はも早や高嶺の花と等しい。ときどきは仰いで花もあんな所に咲くのだと思ふより仕様がない。しかし花の咲くところまでなら人間は行けるのである。元氣を出し力を盡つくすべきがこの世の仕事の在所であるからは、俗事もまた、つひには南無阿彌陀佛を唱ふる旺盛な花曇ともいふべきものであらう。 花は實を結ぶ樂しさあつて散るものにちがひない。 人の棲むところ必ず憂ひあり樂しみあり、また憂ふるに足らずといふやうな格言は、いつも川端氏の作品の中には滿ちてゐるのも、花曇の美しさを人より強く感じるこの作者の天性の資質である。しかし、川端氏の作品の缺點は、ときに人に悲しさを語る表情の過ぎるときに顯れる。私が、「いや違ふ」と云ひたいのも常にそのときであるが、悲しみと喜びとの接點を衣とし、翅として飛び通ふ憂ひに似た、夕映の色めき立った美しさは、常にこの世の世界の姿よりも、雲の中の世界に思ひをはせた氏の視線の光りであってみれば、「いや、 違ふ」といふのこそこちらの亂れかもしれぬ。私は自分のことを廣告するわけではないが、私がモスコウを通った日の日記に次のやうに書いたことがある。
「僕ら日本人は日本を喜んで良いと思ふ。ただ喜びさへすれば救はれるといふ有難い條件が、日本には眼をあげただけで滿ちてゐる。」
 川端康成氏の藝術を見られるが良い。 それを疑ひもなく人々に代つて實行してゐてくれる。


読書に朗読に、ご自由にお使いください。
出来るだけ旧字旧かなのまま、誤字脱字の無いよう心掛けましたが至らない部分もあるかと思います。ごく個人の物ですので何卒ご容赦下さい。

初出:昭和15年7月 改造社版『新日本文學全集月報』第5號
底本:河出書房新社発行「定本横光利一全集」第十四巻

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