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花様年華THE NOTES⑨



ソクジン
22年5月2日


指がこわばっていくことに焦りを感じ
拳をぎゅっと握っては開いた。

ひよっとして失敗しないだろうか。
何度も繰り返したことだが、毎回怖かった。

ゆっくり深呼吸をしながら
ユンギの状況を思い浮かべた。

今頃、ユンギはすっかり
酒に酔ったまま片手で
ライターをカタカタいじり
もう片方の手では
携帯電話を握っているだろう。

あるいはソファーに横になり
自分が生きるべき理由について
考えているかもしれない。

死にたい理由について
思いを巡らせているかもしれない。

ユンギはどんな目で世界と
自分を見つめているのだろうか。

ユンギを救おうとするたびに
ぶち当たる問いかけだった。

僕には自分で自分を破壊しようと
する気持ちが理解できなかった。

生きているのがいいとか
1日1日が楽しくて
幸せだという意味ではない。

人生にも死にも他の何かにも
僕は強烈に惹かれることがなかった。

いつからか無色無臭で生きてきて
実際、そんなふうに
生きていることにも気づかなかった。

思い起こせば、この全てのことを
始める時もそうだった気がする。

あらゆる失敗と過ちを正して
皆を救えるだろうか。

僕はこの問いかけの重みを
推し量ることさえできなかった。

友達を救いたいという
切実な思いはあった。

死や挫折、抑圧、蔑視のようなことを
経験して当然な人などいない。

しかも友達である。

欠点も傷も多く、ぐれていたり
ひねくれていたり、他人の目からすれば
何でもない存在かもしれないが
僕たちも息をしていた。

迎えなければならない1日があり
守らなければならない計画があり
たまに夢と言えるものが生まれる時もあった。

最初は簡単に考えていた。

誰を救うべきか、どんな状況で
救ったらいいのかさえ分かれば
その次はどれくらい努力するかの
問題だと思っていた。

救う相手を説得したり
状況を変えたりすれば
解決できると信じていた。

僕の考えはそれほど単純で甘かった。

しかし、それは一時逃れにすぎなかった。

いくつもの失敗を繰り返した末
やっと悟った。

人を救うことはそれほど
簡単ではないのだ。

ユンギの場合
一筋縄ではいかなかった。

ある意味、6人の友達の中で
一番難しかったかもしれない。

ユンギが自殺を図る時は
日付が変わったり
場所が替わったりした。

他の友達の問題とは違っていた。

一度成功した方法が次に
役に立たないこともよくあった。

ようやく1つ当たったと思ったら
全く違うところで思いがけない
ことが外れたりした。

最初はその理由が
さっぱり分からなかった。

何度となく失敗を繰り返しながら
おぼろげに推測したのは
ユンギの問題が全て
ユンギ自身との葛藤によるもの
だからではないかということだ。

ナムジュンがケンカに
巻き込まれたのはガソリンスタンドに
現れた礼儀のない客のせいだった。

ホソクが階段から転げ落ちたのは
母と見間違えた女性がいたからだった。

しかし、ユンギは違った。

相手も状況もなかった。

全ての変数はユンギの心の中にあった。

僕はユンギの心を推し量ろうとした。

ある時は、やみくもに
ユンギの後を追ってみたりもした。

ユンギの足取りは危なっかしく
また予想がつかなかった。

夜の街をふらつくこともあり
後先考えず、火に向かって
飛び込むこともあった。

ある時は、地下商店街のどこかから
聞こえてくる音楽をしゃがんで
じっと聞いていた。

ユンギの後をついて回ってみると
僕は自分がなんと無味乾燥で
振れ幅の小さい人間なのだろうと思った。

うらやましいわけではなかった。

波乱に富んだユンギの苦しみは
僕としては推測できない
種類のものだったはずだ。

僕にできることと言えば
ふらふらしながら歩く
ユンギを見守るだけだった。

失敗の次にまた失敗が続いた。

挫折が姿を消す前に絶望が訪れた。

ユンギを救えないかもしれないとも思った。

いくら努力しても
手だてが見つからなかった。

希望が現れたのはその時だった。

希望は羽根をつけた生き物だと
誰かが言っていたっけ。

それは本当に
羽根をつけた小さな鳥だった。

鳥が1羽、ユンギの作業室に飛んできた。

ユンギの作業室は再開発地域の
真ん中に放置された建物にあった。

撤去が決まったのはだいぶ前だが
実際、開発は進んでおらず
一帯が捨てられたままのような場所だった。

鳥は割れたガラス窓を
通って飛んできた。

その時、ユンギは作業室の
真ん中にライターを持って立っていた。

周りにはガソリンの
においが充満していた。

僕はドアのすぐ外に立っていた。

駆け込む寸前だった。

何かがぶつかったような
音がしたと思ったら、すぐに
バタバタと羽根を動かす音が聞こえてきた。

半分ほど開いていたドアから
中をのぞき見ることができた。

ユンギは背を向けて立っていて
僕には気づかなかった。

鳥は墜落するように床に落ちた。

そして何度か、羽根をばたつかせたが
もう一度飛ぶことはできなかった。

ユンギは凍りついたように
その場に立ちつくし
鳥を見下ろしていた。

背を向けているユンギの
表情は見えなかった。

鳥は外に出る通路を探し
忙しく作業室を動き回った。

壁と椅子に羽根をぶつけ
その拍子に抜けた羽根が床を転がった。

ユンギはその様子を
ただじっと見ていた。

ライターを握った手は
虚空に止まったままだった。

ユンギは、とうとうがっくり手を下ろすと
その場にしゃがんで頭を抱えた。

その日の夜、僕はユンギの
作業室に入ってみた。

広々とした空間は
ほとんど空っぽだった。

汚れたソファーと椅子
そしてピアノが全てだった。

床に火をつけようとしたらしく
しわくちゃの紙があちこちに散らばっていた。

楽譜のようなものがあり
歌詞なのか、字も書かれていた。

周りを見回した。

羽根をつけた生き物を探した。

鳥はピアノの後ろにうずくまっていた。

ケガをした羽根に
血がこびり付いていた。

怯えて隠れているらしく
近づくと、鳥はさらに体をすくめた。

小さな血の滴が床にも落ちていた。

ピアノの前方にパンくずと水が見えた。

僕は後ずさりして立ち去った。

ガラス窓の外に出してやっても
まだ飛べないだろう。

羽根の傷が癒えるには
どれくらい時間がかかるだろうか。

鳥がここにいる間は
ユンギは無事だろうか。

そんなことを考えた。

ユンギが思い止まったのは鳥のためだった。

傷を負った小さな鳥。

自力では自らを守ることも
救うこともできない弱い命。

ユンギの決定に命を
預けることになった微弱な存在。

その日以来、こんな考えが浮かんだ。

ユンギの自殺に関わる
全ての変数がユンギの内部に
あることが問題ならば
そのうちの1つを外に
引き出せばいいのではないか。

そうだとしたら、相手を作り
状況を作る必要があった。

ユンギが自分自身を
止める理由になり得る変数。

傷や欠乏をユンギと分かち合える人。

それは僕ではなかった。

「1人では難しいだろう」

この全てのことが始まって
間もない頃に聞いた言葉の意味が
改めて骨身に沁みて感じられた。

ジョングクがユンギと
同じまなざしをしていることに
気づいたのは、ナムジュンの言葉を
聞いてからだった。

「ジョングクはまだ
  あの写真を持ってるんです」

高校時代、皆で一緒に
海に行って撮った写真のことだった。

ナムジュンは、ジョングクが
僕のことを忘れずにいると
言いたかったようだが、僕は
別の場面を思い浮かべた。

夢を叶えてくれるという
岩を見に行った日。

じりじりと焼けつくような
日差しの下で笑ったり、文句を言ったり
ふざけたりしながら見に行った岩。

跡形もなく消えてしまった岩に呆然とし
僕自身にも聞こえない声で
海に向かって夢を叫んだ日。

あの時、僕はジョングクが
ユンギに向かって叫び
何かを聞いているのを見た。

内容は聞こえなかったが
僕には分かった。

それはジョングクにとって
大事なことだった。

ジョングクは、なぜそれを
ユンギに聞いたのだろうか。

その時は考えなかった。

ユンギはホソクのように明るいわけでも
ジミンのように聞き上手なわけでも
ナムジュンのように
頼もしいわけでもなかった。

でも、なぜユンギだったのだろう。

考えているうちに僕は悟った。

ジョングクを救ったのも
ユンギだったのだ。

2人は同じまなざしをしていた。

ジョングクをユンギのところに
行かせるのは難しくなかった。

ジョングクは学校でも家でも1人だった。

学校が終わると、行き場がなかった。

ホソクの店に行ったり
ナムジュンのコンテナの近くを
うろついたりしていた。

僕はコンテナのドアに鍵をかけ
ジョングクがホソクの店に行くと
思われる時間に合わせ
ホソクが持ち場を離れるように誘導した。

ジョングクはしばらく
ほっつき歩いていたが
結局、ユンギの作業室に向かった。

複雑な表情だった。

本当に入ってもいいだろうか。

僕を煩わしいと思わないだろうか。

そんな期待と不安が
ジョングクの表情に渦巻いていた。

その日以来、ジョングクは毎日
ユンギに会いに行った。

ユンギは気乗りのしない表情で
面倒だから帰れと言ったが
本当に追い返すわけではなかった。

間もなく影が1つ、姿を現した。

ジョングクだった。

僕は車の椅子に深く体を沈めて隠れた。

弟たちは僕が戻ってきたことを
まだ知らなかった。

ガソリンスタンドで会った
ナムジュンだけは例外だった。

ナムジュンは、皆が
喜ぶだろうと言ったが
僕は会おうと誘われるたびに断った。

僕が現れるべきタイミングは別にあった。

僕たち全員が再び一堂に会する時を
待たなければならなかった。

もしかすると僕たちは目に見えない
頑丈な紐に縛られ、支え合って
いるのかもしれなかった。

僕たちをつないでいる紐の
構造を解き明かすのは簡単ではなかった。

それは精巧に絡み合った迷路のようで
1つ解けると、他の1つが切れた。

引っ張る時に力を入れ過ぎると
一瞬にして全てが
無茶苦茶になることもあった。

僕は弟たちを見守りながら
弟たち同士で知らず知らずのうちに
助け合うように点と点をつなぎ
線と線を結ばなければならなかった。

今、ジョングクはユンギの
作業室の前で立ち止まり
2階を見上げている。

明るい表情ではない。

この10日間、ユンギはひどく
つらい時間を過ごした。

酒を浴びるように飲み
自分を苦しめた。

僕はその苦しい時間の中に
ジョングクを追いやった。

ユンギの迷いと悩みは
ジョングクとしては受け止めがたい
重みだっただろう。

いつだったか一度
ジョングクがユンギを
見限ったこともあった。

その時、ユンギは
火の中に身を投げてしまった。

残酷なのはユンギが
死にきれなかったという事実だった。

ジョングクはユンギを
引き止められなかった
自分を許せなかった。

ジョングクがユンギの
作業室に入って10分ほど過ぎた。

2階の窓から何かが割れるような音が
聞こえたかと思うと、唇が裂けた
ユンギがふらつく足取りで姿を現した。

建物の入口から出てきたユンギは
普段より足早に坂道を横切って下りていった。

僕は2階の窓を見上げた。

今頃、ジョングクは割れた鏡の横に
しゃがんでいるはずだ。

取るに足らない自分は
ユンギを救えないと
思っているかもしれなかった。

希望がないと感じているかもしれない。

ジョングクが建物から
飛び出してくるのを見て
僕は車を出発させた。

今頃、ユンギはワンブロック下にある
モーテルに向かっているだろう。

ここで僕がすべきことは
ユンギが入ったモーテルを
ジョングクが見つけられるように
することだった。

それが僕にできる全てだった。

僕はモーテルの入口のドア付近に
血の付いたティッシュを落としておいた。

車の座席から、ジョングクが
モーテルの階段を上っていく姿をながめた。

今日の明け方、ユンギの作業室に行き
鏡の前に写真を1枚、置いてきた。

高校時代、皆で一緒に海に行った時
撮った写真の1枚だった。

ジョングクがその写真を
見たかどうかは分からない。

それを見てユンギを
追いかけていったのか
小さな希望でも残っているなら
やってみようと決心したのか。

それともジョングクを
突き動かした也のきっかけがあったのか

僕には知り得ない。

ジョングクがユンギを
どんなふうに救うのか
どんな言葉で説得するのかも
僕には分からない領域として残っている。

ジョングクとユンギをはじめ
全ての友達の決定的瞬間
その最後の瞬間は誰にも
介入できない各自の領域だ。

同じ傷を持ち、互いの不安や夢
卑怯さを理解でき、だから自分を
見るように相手を見ることが
できる者にのみ可能なこと。

モーテルの窓を見上げた。

今、ジョングクとユンギは
どんな話をしているのだろうか。

切実な気持ちで願った。

あそこから羽根をつけた
生き物が飛び立つことを。



ユンギ
22年5月2日



火のついたシーツは
一瞬にして燃え上がった。

耐え難い熱気の中で
むさ苦しかったものは
全て存在感を失った。

つんとするカビの臭い
正体の分からない湿気
薄暗い明かりのようなものも
感じなかった。

残ったのは苦痛だけだった。

炎の中でわき上がる物理的な苦痛。

今にも指先や肌に水ぶくれができて
溶け出しそうだった。

ようやく無表情な父の顔が
そして音楽が散り散りになった。

父と俺は多くの点で違っていた。

父は俺を理解できず
俺は父を理解できなかった。

努力していたら説得できただろうか。

できなかったはずだ。

俺にできるのは隠れること
反抗すること、逃げることだけだった。

俺が抜け出そうとしている相手は
父ではないと思う時もあった。

すると、絶壁のような恐怖が押し寄せた。

俺は一体、何から逃げるのだろうか。

どうすれば俺自身から
抜け出せるのだろうか。

全てが不可能に感じられた。

俺を呼ぶ声が聞こえた気がしたが
顔を上げなかった。

息ができなかった。

動く力もなかった。

それでも分かった。

ジョングクだった。

怒っているだろう。

たぶん俺のために
悲しんでいるだろう。

そのまま崩れ去ってしまいたかった。

煙と熱気、苦痛と恐怖も
全てここで終えたかった。

ジョングクがまた何か叫んだが
やはり聞こえなかった。

目の前の全てが崩れ落ちた。

最後だった。

顔を上げた。

この世で見る最後の風景
それは汚くてひっそりした部屋

真っ赤な炎と揺らめく熱気

そしてジョングクの
歪んだ顔だった。




ジョングク
22年5月2日

顔を上げると
コンテナの前だった。

ドアを開けて中に入った。

服をかき集めて体に掛け
縮こまって横になった。

寒気に襲われて体がぶるぶる震え
気持ちが落ち着かず、じっと
横になっているのもつらかった。

泣きたい気分だったが
涙は出なかった。

炎の中に立っていたユンギ兄さんの
姿がしきりに浮かんだ。

シートの端から火の手が上がった。

何も考えられなかった。

どうしたらいいのか
分からなかった。

僕は話がうまい方ではなかった。

自分の感情を表現するのも
誰かを説得するのも苦手だった。

涙がこみ上げ、咳が出て
なおさら言葉が出なかった。

あの火の中に飛び込みながら
かろうじて僕の口から出た言葉といえば

「僕たち、皆で一緒に
  海に行くことにしたじゃないですか」

それだけだった。

「どうした?悪い夢でも見たのか?」

誰かに肩を揺さぶられて目を開けると
ナムジュン兄さんだった。

不思議な安堵感に包まれた。

ナムジュン兄さんが僕の額に手を当て
熱があると言った。

本当にそうだと思った。

口の中がぐつぐつ
煮えたぎっているようなのに
我慢できないほど寒かった。

頭がずきずきして喉が痛かった。

兄さんが買ってきた薬をなんとか飲んだ。

「もっと寝ろよ。話は後にしよう」

僕はうなずいた。

そして聞いた。

「僕も兄さんみたいな
  大人になれるでしょうか」




……To be continued


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