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永遠のさよならをほんの少しだけ和らげる方法

いつからでしょうか。
人の死が、日常から消えてなくなったしまったのは。

昔は、おうちで看取ることがスタンダードでした。
病院で亡くなる、というのはここ数十年のあいだに生まれた新しい価値観。ずっと昔からそうだったように感じますが、実はそうではありません。

臨床で患者さんの死に直面しているわたしから言わせると、この弊害は意外とやっかい。死がさらに日常から遠いものになり、自分ごととして考えられる人が少なくなっているように思います。

孤独死のあった物件は、物件としての価値を失い、管理する人のいなくなったお墓は無縁仏としてそのまま放置される始末。

そんな中、先日、ある芸能人が感染症によって旅立ったというニュースが飛び込んできました。これを知って心を痛めた人、そして今も痛めている人も多いのではないでしょうか。

こんなとき、わたしたちはどうしたらいいの?


自分の人生ですらよくわからないのに、人の死への向き合い方なんて全然わからない、という人がほとんどのはず。

そこで、こういうときにヒントになりそうなことを、看護師の視点で考えてみました。

臨床で多くの悲しみや死に直面するわたしたちが、自分たちを保つためにやっていることをシェアしたら、いろんな人の気持ちが少しは報われるのかもしれないと思い、ここに残しておきます。



しっかり悲しむ

矛盾しているようですが、まずはこれ。
遺されたわたしたちのメンタルを考えたら最初にすべきことは、ちゃんと悲しむことなんです。

泣いたらみっともないとか、恥ずかしいとか、家族の威厳が…とか、そんなのどうでもいいです。大切な人が死んでしまったんです、悲しくないわけがない。

つらいとは思うんですが、人を失う悲しさを味わい尽くして下さい。

泣いて、叫んで、泣いて、泣いて、嗚咽で息ができなくなるほど泣いて下さい。泣きつかれて寝てしまってもいいんです。

というのも、失った直後にしっかり悲しめるかどうかで、その死を引きずる時間や深さが変わってくるように思います。

近しい人ほど手続きやお通夜・告別式に追われ、心がおいてけぼりになってしまうんです。直後にしっかり悲しめず半年、1年と経ってから後悔する人もいます。

私、なんであの時、泣けなかったんだろう……
悲しかったはずなのに、なんで?

って。

もちろん、人を失うことはつらく悲しいことですが、中には、うつ病や適応障害などといった病気になってしまう人もいます。これは、健全な悲しみのプロセスとは言い難いですよね。


補足ですが、わたしたち医療関係者だっていくら慣れているとはいえ、悲しくて泣いちゃうこともあります。

臨床で多いのは職員用トイレ、リネン庫、ロッカーあたりですかね。患者さんや家族の目に触れない場所。大きい病院ほど命を助けることが善ゆえに、誰かが亡くなるということは、おおっぴらにしにくい雰囲気があります。

目や鼻が赤くなっている看護師がいたら、こっそり泣いてきたのをマスクで隠しているのね…理由はきっと…と、察してやって下さい。

まずは、しっかり悲しむこと。
どうか、忘れないでください。


心の穴を埋めようとしない

人が死を受け入れようとするプロセスの中に、「取引」があると提唱している人がいます。

ドラマチックかつ簡単に言うと

代わりに俺が死ねば、この人は助かるんじゃないか

とか

全財産をお布施としてつぎ込めば、もう少し長く生きれるんじゃないか

とか、そういう感じ。

死やそれに関連する不安をなくすために、なにかと取引する心理状態のことを指します。

きつい言い方になるかもしれませんが、死への不安や恐怖を穴埋めでどうにかしようとする遺される側のエゴ。死への恐怖そのものは、患者さんが一番感じていたはずなんです。

さらに言うと、何かと取引する方法で自分をケアするのは、あんまりオススメしません。

患者さん、特にがんや自己免疫疾患で闘病していた人って、病気になってから亡くなるまでのあいだ、たくさん意思決定する機会があったはずなんです。

・手術じゃなくて抗がん剤にしよう
・外来に通うため、職場のポジションを変えてもらおう
・治療を頑張ることから生活を安定させる方にシフトしよう

って。
そうすると

あの時のああしていたら…
もっと違う方法を提案していたら…
もっと他にできたことがあったら…

遺される側であるあなたがこれをを繰り返すと、そのうちに過去の自分の言動を否定することになってしまいます。

これも、健全とは言えません。


だから、はじめのうちは全然割り切れなくてもいいので

・あれで良かったんだ
・あの人の生き様としてこれがベターだったんだ
・わたしもベストを尽くしたんだ

と、肯定的に言い換えるようにしてみて下さい。
ちょっとだけ楽になりますよ、本当に。



しっかりしなくて大丈夫

誰かを失った人に対して、わたしたちってなぜかしっかりしてね!って言っちゃうし、しっかりしなくちゃ!と思う人が多い傾向にあるんですが

全然しっかりしなくていいです。

むしろ、しっかりするくらいならしっかり悲しんでください。

ご飯を食べたくなかったら食べなくていいし、お風呂に入る元気がなければ入らなくても大丈夫。

誰かを失っても身なりが整ってキレイな人って、芸能人くらいじゃないでしょうか?

ああいう場でいつも通りの自分に整えておくことって、相当な精神力がないと厳しいです。

困ってたり、弱ってたりしたら必ず周りが助けてくれます。
だから、しっかりしなくて大丈夫。

そのための医療関係者であり
葬儀関連の人であり
身内であり友人ですからね。

あなたが亡くなった人を支えたきたように、今度は誰かがあなたを支えてくれます。


たくさん語ろう

お通夜やお葬式、告別式など亡くなったあとに執り行われるイベント、
その由来はたくさんあると思いますが

亡くなった人について話す場と時間を設ける

これが一番の理由なんじゃないかと思っています。

その人が生きてきた歴史と物語をみんなで共有する。

笑えることも笑えないことも
お酒がすすむことも酔いが覚めるようなことも
たくさん出てくるかと思います。

こういうことを、誰かと話して共有することで自分の気持ちや後悔を成仏させようとするプロセスこそ、意味があるように思うんです。

実際に気持ちが昇華したのかどうか、後悔が成仏するのかどうかはわかりませんが、亡くなった人のために時間と手間とお金をかけてお見送りするということは、そういうことなんでしょう。


乗り越えなくていい

死を受け入れましょう

と言葉にするのは簡単ですが、これほど難しいことはありません。

特に、テロや災害など、理不尽な理由で命を奪われたらなおさら。

理論上では、死を受け入れることが最終的な目標になっていますが、ここに到達する人なんてほとんどいません。

わたしだって亡くなった患者さんとの関わりの中で、忘れられないこと、後悔していることがたくさんあります。8年前のことであっても、つい昨日のようにその場面が出てくるんです。

なんであのとき、助けてあげられなかったんだろうって。

誰かを失うことであいてしまった心の穴は、小さくすることはできても完全に塞ぐことはできない、というのがわたしの持論。

ともに生きていくしかないんです。


わたし、亡くなった人って空高く浮かんでいる風船のようだと思っています。

細く強い糸で自分とその人は繋がっていて、たまに手繰り寄せて風船の中身を覗き込むと元気だったあの人がいる。

話をして、泣いたりして、もう同じ世界で生きることは出来ないんだなって実感して、また空高くところへ凧揚げするような感覚で戻してあげる。

そんなふうに思っています。

乗り越えなくていい
ともに、生きていきましょう。


おわりに

生前、どんなに悪い人だったとしても、視点を変えれば良い面が必ずあります。歴史や物語がそうであるように。

遺された人たちが
それらをうまく紡げますように。
ともに生きていけますように。

わたしもそのうち必ず死ぬから
大切な人との思い出を残しておかなくっちゃ。

明日も、いつか紡がれるための準備を。


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