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相手をかけがえのない人として捉えるために必要な6つのこと ~医療倫理の視点から~

タイトルに倫理という崇高な言葉をもってきてしまいましたが、どうか自分に関係のないことだと思わないでください。

生きている人、そして、仕事をしているすべての人に関わることです。

特に、炎上という言葉に心当たりのある人には、ぜひ読んでいただきたい。


炎上と倫理に関係なんてある?と思われるかもしれませんが、わたしは大いにあると思っています。

倫理とは、社会の中で生きていくにあたり外すことのできない「人」としての道やルールのことをさします。

炎上は、犯罪や民法にふれないにせよ、その人の中にある倫理を傷つけたり、倫理観を踏み外してしまった結果生じるもの。極論になるかもしれませんが、倫理の向こう側にあるもののひとつに炎上があると思っています。

炎上も倫理も、行き着く先はです。
だから、たびたび問題になるし、解決に導くのが難しい分野でもあります。

人は数字で割り切ることができません。
この先どんなにAIの技術が進んでも、最高裁判所で人を裁くのは人でしょうし、国のトップも人のままでしょう。

このあたりに、倫理のヒントがあるのです。


これはあくまでも印象ですが、今年は特に企業の炎上案件が多かったように思います。

中には、不特定多数の偏った人たちによって、ほぼ燃やされたような案件もいくつかあったように感じました。

もちろん、炎上のすべてが悪いものだとは思いません。炎上商法という言葉にくくるのは好みではありませんが、結果的に炎上によって広く告げることができ、ユーザーやファンの獲得につながったというケースもあるでしょう。


しかしながら


おそらく、企業ごとに分析・検証をし、今後に活かせるよう対応していると思うのですが

それらを包括的に管理してるところって、ないんじゃないでしょうか。

企業ごとの知見はたまっていくかもしれませんが、業界全体においての知見をためておく場がないなら、同じような炎上はいくらでも起こります。

情報も対応も共有していないから。
解決策を講じたとして評価していないから。

これでは、再発防止なんて絵空事です。



医療と倫理は、近しい存在

ここで、医療業界の話をさせてください。

医師や看護師、その他コメディカルと呼ばれる人たちも学生時代から倫理についての教育を受けます。卒後教育にも組み込まれている医療機関も多いのではないでしょうか。

私自身、最初に就職した病院で倫理に関する研修が5年目までありました。それくらい医療者としての倫理観の形成は、大変重要だということです。

思えば、医療の発端は古代ギリシア。
医師なら誰もが、ヒポクラテスの誓いという医師の倫理観を問うような宣誓文を目にしてきたはずです。

医療というと、スキルや医療機器のような科学的な側面をイメージされるでしょうが、人を相手にするためか古代から哲学や倫理と密接な関係にあります。

わかりやすい例でいうと、臓器移植あたりでしょうか。
稀有なケースや新しい事例があると必ず報道され、特番が組まれたりしますよね。

脳死患者の臓器を移植してもいいのか、とか

脳死患者の臓器提供の意思は、なにをもって証明するのか、とか

子どもの心臓移植のため渡航する人もいるが、本当にそこまでしなくちゃいけないのか、とか。

技術としては可能であっても、それが社会性や倫理観を携えた人間として、ほんとうに望ましいものであるのかどうか

常に問われているのが、医療の世界なのです。


医療の世界では、どうなの?

企業の炎上案件を医療の世界に当てはめて考えてみると、炎上はアクシデントに相当するのでは…なんて思ってしまうのです。

一定期間の治療やケアが必要な状態、といえばなんとなくイメージつくでしょうか。薬を飲んだら、はいおしまいとは言えない状態。

より専門的になりますが、ここで医療事故やアクシデント、インシデント、クレームについてお話させてください。普段、聴き慣れない言葉もあると思うので。

医療の世界では、病院ごとの知見はもちろん、業界全体で共有できるようある程度システム化されているんですね。

医療事故やアクシデント、インシデントに関しては日本医療機能評価機構という医療機関を評価する団体が管理をしています。

※すべての医療機関が医療事故情報の収集・分析・提供事業への参加をしているわけではありません。該当医療機関を知りたい方はこちらからどうぞ。

この機構を簡単に言うと、病院の成績を評価するところです。
ミスや医療事故も含めて

すべてのインシデントやアクシデントを把握している訳ではありませんが、患者に何らかの影響を与えたもの、明らかに医療事故の訴因があるものなどは把握しています。

裁判になろうがメディアをにぎわそうが、同じような事例で患者を死なすことがあってはならないからです。

その上で、各医療機関にも周知徹底をしたほうがよいとされるものは、紙なりメールで送付され、各スタッフが確実に目を通すようになっています。

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http://www.med-safe.jp/pdf/med-safe_168.pdf より引用

ちなみに、上のポスターを平たい言葉でいうと、酸素ボンベのついたマスクをつけたけど、バルブが開栓していなかったため、患者に酸素が投与されていなかったよ、ヤバくない?エアマスク状態じゃん??酸素がいってないと血中酸素飽和度が下がって呼吸不全になっちゃうから!!!ということを啓蒙するためのものです。


ここで、インシデントとアクシデントという言葉になじみのない人もいると思うので、これらの分類について説明させてください。

看護に関して言えば、この分類は9つにわかれています。

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https://www.tondabayashi.saiseikai.or.jp/common/pdf/bekki12.pdfより引用

上の図でいう、アクシデントにあたる事例になると日本医療機能評価機構へ報告、というイメージです。


これらを企業の炎上案件に当てはめて考えてみると、炎上はアクシデントに該当するのでは…と思ってしまうのです。

炎上によって死者は出ていないかもしれませんが、売上やメディアのPVなど数字に大きく影響を与えているでしょうし、なによりこれまで培ってきた信用を失ったり、社員の士気を下げたりしているはずなんです。

これは、治療、ひいてはケアが必要な状態だと言えるのではないでしょうか。



そこで、医療従事者が患者に対して忘れてはならない倫理観、言い換えると患者自身が当たり前にもっている権利について紹介させてください。

全部で6つ、箇条書きで紹介していきます。

正直言って、根本的な解決策になるかどうかの証明はできないのですが、仕事をしている相手、そして周りにいる人たちが、かけがえのない命そのものであるということ

ときに、個人のできごとであっても正義は拮抗するということ、これらはご理解いただけるんじゃないかと思います。


ポイント1:自分の希望で決めていく

人は自分らしく生きるために、情報を得て自分のことを自分で考え、選んだことを大事にしてもらえる権利があります。

多様性が叫ばれる時代、多様な選択肢もまた尊重されるべきですよね。

では、輸血をすれば助かるのに、宗教上の理由などで拒否した場合はどうなるでしょうか。

これが、子どもや認知症のある高齢者だった場合、誰が判断するんでしょう。

がん末期患者のもう死にたいという欲求は、大事にしてもらえるのでしょうか。


程度や領域は異なるかもしれませんが

友達ならば、クラファンの支援をしなくてはならないのでしょうか。

社会的に有名な企業の内定を辞退することは、いけないことなのでしょうか。

結婚して夫婦になったけれど、子どもを望まないことはいけないことなんでしょうか。


自分の希望で決めていくというごくごく当たり前なことが、家族やコミュニティ、社会の中におかれると難しい問題になるということ、皆さんも経験があるはずです。


ポイント2:害を与えられない

害の危険性を予知・回避することができますし、そういう説明をあらかじめ受ける権利があります。

基本的に医療って、心地よいものではありません。
薬は苦いし、手術は痛いし、通院だってめんどくさい。

それでも、あなたのいのちと生活のために必要なんだよ、という説明を受け納得した上で、薬を飲み、手術を受け、通院するんです。

お酒にもタバコにも、ちゃんとその有害性が記載されていますよね。

プロダクトやサービスであっても、その利用によって起こりうるデメリットを考え、必要によっては説明を受ける権利があるということです。


ポイント3:最も良いことが行われる

あなたにとって最もよいと思われることを行ってもらえます。
医療行為が、良い結果につながるんです。

ここで起こりうるのは、あなたにとっての「良いこと」と周りにとっての「良いこと」が、一致しないというケース。

日常の生活で想像できるとしたら、リフォーム案の修正なんかがこれにあたりそう。

予算や生活パターンを考慮した上で業者が出してくる案と、わたしたちが望む案がずれるケース。

最悪なのは、本人の望むケースにしたけれど、あとあとになってやっぱりプロの意見をきいておけば良かった…と言われることかな。

こういうことのためにも、適切に相手を納得させるスキルというのがプロには求められるんじゃないかなと思います。

このあたりの話はこちらからどうぞ。


ポイント4:本当のことを知る

当たり前ですが、わたしたちには本当のことを知る権利があります。
特に、自分のことに関してはなおさら。

たとえ大切な人の配慮であっても、その人から自分らしい判断を妨げられるような嘘をつかれてはいけないのです。


ここで問題になりがちなのは、告知のケース。
告知という言葉そのものがパターナリズムを表すとされ、最近では病状説明やIC(インフォームドコンセント)という表現をすることのほうが多い印象がありますが

たとえば、高齢の親が
子どもが
幾ばくの余命もない場合

本人たちが本当のことを知るのは、果たしてほんとうに望ましいことなんでしょうか。

本当のことを知ることが、本人に多大な精神的ダメージを与えるとわかっていながら、それをこともなげに伝えられる人はどれくらいいるんでしょうか。

そして、「本当」ってなんなんでしょうか。


ポイント5:正しいことが行われる

日本では、平等に医療を受ける権利が尊重されています。保険適応内の治療であれば不公平がない、ということになっています。

医療行為をいい加減にやったり、ケチったりされることもありません。
医療行為を正しい手順で、安全に提供してもらえます。

けれども

臨床の忙しさゆえに手順を端折られたり、こういうご時世もあいまって必要物品を適切に使ってもらえなかったり、ということは起こりえます。

くわえて

この「正しい」が、実にやっかい。

誰にとっての正しさなんでしょう。

患者にとっての正しさが、ときに医療者からみると誤っている場合もありますよね。

ユーザーの意見を丸呑みにしていたら、企業が目指すビジョンが崩れ本末転倒…なんてことと似ているかもしれません。


ポイント6:プライバシーが守られる

自分の大事な個人情報を不用意にもらされたり、興味本位で噂されたりしません。

当たり前ですが、約束や秘密は守られます。

以前、とある芸能人が入院してきたことがありましたが、その人のカルテは当然ながら、担当する医療関係者しか閲覧することはできません。

同じ医療機関に勤める医療従事者であっても、部外者はみれないのです。

というのも、電子カルテが導入されて間もない頃、別の芸能人が入院してきた際に興味本位でカルテを覗いてしまった関係者が述べ2000人いた、ということがあったそう。

さすがにそれはダメだろってことになり、徐々にルールが整っていった経緯があります。

ちなみに、研究論文などで患者の個人情報がでてきたりしますが、あれは

・研究の参加に同意を得ている
・研究の参加不参加によって治療に不利益となることは絶対にない
・個人が特定される情報は共有されない

といった内容を説明し、同意を得られている患者に限ります。

難病や珍しい病気は、それだけ希少性が高まってしまうので、プライバシーの保護が難しいというのが課題と言えるでしょう。



分析することに価値があるんじゃない

ここまで紹介した6つのポイント、どれも正しいなと感じていただけたと思いますが、臨床ではこれらが拮抗します。正義の敵は、正義なんです。

あっちを立てればこっちがさがる、というようなことばかり。
また、役割によっても望まれる正しさは変わります。

倫理の場面でよく出てくる意思決定能力も

・特定の課題ごとに変わる
・経時的に変わる
・選択の結果の重大性に応じて変わる

という、高い流動性をもったものです。
ここをすり合わせるのは、本当にたいへん。

そこで、わたしたちは問題を分析します。
いわゆる、PDCAを回すってやつです。

・情報を収集し、整理すること
・問題を分析すること
・問題を必ず言葉で明確化
・具体的な解決目標を出すこと
・行動プランをあげること
・必ず評価と修正を行うこと

ポイントは、問題を必ず言葉で明確化ってところ。

なんかモヤモヤする、とか
このままじゃダメな気がする、ではなく

こういう不利益が患者に起こりうる、や
家族の関係性を大きく損なうリスクがある、と言語化する。

その上で、なるべく問題を解決に導けるよう具体策を出すんですね。
可能であれば、5W1Hを用いてより具体的に。
そして、優先順位をつけひとつずつ解決に導いていく。

分析で終わっても意味がありません。
患者になにも還元できていないからです。

だから、治療やケアといった、行動で示すことを目指すのです。
患者をよりよい状態にもっていくのが、わたしたちの仕事だから。


炎上案件だって、似たような部分があるのではないでしょうか。

書面で謝罪したり
アカウントや更新を停止したり
担当者を外したり

一定の効果はあるのかもしれませんが、それよりももっと大切なことがあるように思います。

そして、そういう事例を一箇所に集めて分析し、知見をためておくことも、求められるのではないでしょうか。


臨床では取り戻せないけれど

ここまで医療と倫理の話をしてきましたが、実際の場面では倫理的問題がある患者に対して、本人に解決策を提供できるケースは稀です。

多くのケースが、時間切れになってしまうんです。
病気もいのちも、待ってくれません。

それでも倫理カンファレンスをやめない理由は、事例として取り上げて学びを深めるため、そして、自分たちのジレンマや葛藤をケアして昇華させるねらいがあるからです。


そういう意味でいうと、サービスやプロダクトは、たとえ信用を失うようなことがあっても、また同じ人に利用してもらったり買ってもらったりする可能性があります。

リカバリーできるんです。

これは、それがなかなか叶わないわたしからすると
しあわせなことだと思います。


時間はかかるかもしれませんが
真の意味でのリカバリーは
ユーザーにとってもベターなことだと思います。

成長や物語を感じることができますから。
愛着形成までたどり着いたら、きっと息の長いファンになってくれるでしょう。


サービスならよりよいサービスで
プロダクトならよりよいプロダクトで
コンテンツならよりよいコンテンツで

ユーザーやファンの生活を、どうかもう一度支えてほしいのです。

大丈夫、時間はたっぷりあります。
多重課題だって、優先順位をつけてひとつずつやっていきましょう。
PDCAをたくさん回して、解像度の高い解決策をどんどん導いてください。

きっと、よりよいインターネットにも繋がる話です。


いろんな企業のリカバリー、そして成長を
これからたくさん見られると、心より期待しています。





参考文献・資料

2015年 角田ますみ先生 資料より



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