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きょうだい児について考えていること

読んで傷つく人がいるかもしれないけれど、インターネットの海に漂わせておけば、読んで良かったと思う人もいるかもしれないので。

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世の中の人よりそういう事例に出会うことの多い職種だけれども、だからといって徳の高い答えを持っている訳ではない。

どれだけ事例を重ねても、よくわからない。
正解らしきものをすくい上げても、これじゃない!と向こう側に投げつける日々だ。

よくあるのが、上の子が障害者で下の子が健常者のケース

親としては、自分たちが居なくなったあとも上の子をケアしてくれる人が必要=下の子を作らねば、という合意形成があるんだろう。

もちろん、下の子がそれを宿命だと受け入れて献身的にケアしているケースもある。

けれども、そうでないケースもあるのだ。

あの……兄が亡くなって悲しいのは悲しいんですが、ホッとしたというのが正直なところです。もう……兄のことを1番に考えなくていいんだっていう。わたしのことだけを考えればいいんですよね、これからは。

と、話していた知的障害&難病患者の妹さん

他にも

わたしはね、娘より早く死ぬわけにはいかない。娘を看取ってからじゃないと死ねないの。だって、わたしが死んだらあの子ひとりでどうやって生きていくの?知的障害の子が結婚なんてできるわけないでしょ?そりゃ、施設にいれることだって考えましたよ。でもね、施設にいった女の子たち、みんな妊娠して帰ってくるの。これがどういうことか、あなたにもわかるでしょ?だから、夫と2人で誓ったの。わたしたちが、あの子を生み出してしまったんだから、終いもちゃんとしようって。夫は先に逝ってしまったから、わたしがちゃんとするしかないのよ。

と話していたがん患者さん。

本当は姉もいたんだけど小さい頃に亡くなってしまって、わたしは会ったことないのよね。で、兄だけじゃ可哀想だからって、わたしを産んだみたいなんだけど、今でいう高齢出産っていうのかな。無理があったのよね。それが原因とまでは言われてないけど、それがたたったのか、わたしが10代のうちに母は死んじゃって。なんとかうまくやろうとしたんだけど、父も死んじゃって。そしたら兄と2人でしょ?兄は、わたしさえいなければ……って思ったんじゃないかな。ある日、いきなり仏壇持ってこの家から出てけって言われて、それっきり。もうこのまま、天涯孤独だと思ってるわ。

と、話す知人。

わたしの肌感&経験だけで言えば、親の思い通りになっているケースはごくごく稀だ。

産み落とされた子どもたちは、それぞれハンデを抱えて生活していることが多いように思う。

親の「願い」を叶えるために、自身の生活が虐げられている人もいるのだ。



ここで、わたし自身のことにも触れておく。

わたしには弟がいる。
言う必要がないかもしれないが、社会的に定義されるような障害を持ってはいない。

彼とは5歳離れているが、そこそこ仲良くやっていると思う。

本当は2歳差くらいを目指していたらしいけれど、自然妊娠しなかったそうだ。
不妊治療をして、5年目にやっと生まれたのが彼。

母は長男である父と結婚したせいか、男の子を産めという暗黙の圧力があったんじゃないかな。時代的にも子を持たない選択は非常に難しかったと思う。

結果、男の子を妊娠することに成功はしたが、運悪く前置胎盤で妊娠期間中は絶対安静、10ヶ月間ずっとベッド上で過ごしていた。

母がおらず父も仕事でほぼ不在の家にわたしは、当然のごとくひとりで暮らせるはずもなく、祖母の家へ預けられた。

帝王切開で彼を産み、落ちた体力を戻す暇もなく母は自宅へ。

両家の両親からのマンパワー的なサポートが一切ない中、もともと丈夫ではなかった彼女の身体はズタボロになってしまった。

誰から言われたかは忘れたけど、おばあちゃんと暮らしてるの?と聞かれたことを母に話してはいけない、と強く心に誓ったことだけは覚えている。

それくらい、彼女は心身ともに疲弊していた。

授業参観や運動会の知らせも「体調が良かったら行くね」というセリフを母に言わせるためだけのもの。

彼女は、健やかな身体を取り戻すのに15年くらいかかっていた。
弟が高校生になったあたりで、やっと仕事を再開したくらい。

こういう経緯があるせいか

わたしたちを産んだことは、彼女にとってしあわせなことだったんだろうか

というのが、長年の疑問になってしまった。

わたしの性格や体力を省みて

あさみが男の子だったら良かったのに

と、言われたことは1度や2度ではない。

もしそれが彼女の本音だとしたら、2人目を産んだのは彼女の意思だったんだろうか。

2人目が女の子だった場合、その後の選択肢としてどんなことを考えたんだろうか。

もちろん、いまの弟のいない世界なんて考えられないけれど、弟は弟の意思で生まれてきたわけじゃない。

母と父の意思によって、生まれてきた。


いつか母が死ぬ前に聞けたらいいなと思っていることがある。

もし、わたしが男の子だったら
2人目作ってた?

残酷な娘だと思うかもしれないが、わたしはわたしで祖母に預けられているあいだに大火傷を負っている。わたしにも、ハンデはある。

もし、祖母に預けられることがなければ

こんなケガ、しないで済んだかもしれないのに

タイツなしでミニスカートを履く人生もあったかもしれないのに

と思ってしまうことは
いけないことなんだろうか。


子どもを産むことへの抵抗感が拭えないこと、いくら接触回数を増やしても妊娠〜育児のプロセスが他人事になってしまうのは、母とのこういう関係性も影響しているのかもしれない。

わたしを産んでくれてありがとうという気持ちとあるけれど、わたしを、わたしたちを産んであなたは本当にしあわせだったの?という懐疑的な気持ちがわたしの中には渦巻いている。


たとえ家族であっても
相手のためを思っていても
相手のためにやったことでも

それを相手がどう感じ、どう受け取るかは
すべて相手に主導権があるのだ。

こちらが贈与したつもりでも
相手からしたらただの荷物かもしれない。

荷物を見ずに逃げようが
荷物を開いてから捨てようが
荷物を受け取って大事にしようが

すべて相手が決めること。

なのに

こちらの意図が
わたしの気持ちが
社会的な正しさなら

相手に届いて然るべきと疑わない人が一定数いることで人生を狂わされている人がいて

それは、思ったよりも少なくない現実があると思うのです。


人が人を産むプロセスに対しては、どうしても本能的に祝意を抱いてしまうけれど、それに付随する脆弱性や暴力性に敏感でありたい

そんなことを思いながら久々にnoteを開きました。



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