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人の評価はコントロール不能

先日、「度會縣-わたらいけん-」のイベントに招かれ、自分のやっていることを話す機会がありました。この「おんらいん♨さろん」ですね。私の名前もあります。

なんでわたくしが?という素朴な疑問はあったものの、いざ当日、参加のかたからのいろんな質問も刺激的で楽しくお話いたしました。ありがとうございました。

中でも「いろんな活動をしている中で他人の目や評価は気になりませんか」という質問は大変深く、サロン終了後も私の中でいろいろと考えるきっかけとなり、これはきちんと整理しなくては、と思って、記事にすることにしました。

その質問に、私はうまく答えることができなかったんですね。私にしたらそれは横から飛んできたボールで、まったく普段から考えてもいなかったことでした。なので「それは気にならないし、気にしたこともない」と答えたわけですが、きっと質問者の方は納得してないだろうな、と。そう思いました。そもそも私が納得してなかったし。

「他人からの評価」とはなんぞや。私はサロン終了後から猛烈に考えはじめました。そもそも自分は他人を評価したことがあるのかと言うと、それはあるわけですよ。例えば誰か知人が飲食店を始めたとするでしょ。そうすると「ああいう営業形態でいったい人がくるのか(いや、来ないだろ)」とか、私と同世代でブイブイ仕事をして儲かってる人に対して「うまいことやりよる(けど私はああいうやり方は好かん)」とか、そういうの。

では、その評価を本人に言うのか、と言うと、言わないですよね。心易い人には言うかも知れません。けど、その私の評価が回り回って、本人の耳に入るかと言えば、まあ、入らないと思います。それは評価と言うよりは単なる私のボヤキですね。そういうボヤキって、誰でもやります。そもそも、自分がうまく行ってるときって、人のことは気になりません。自分がつまづいてたり、失敗したり、悩んでたりしてるときって、他人のやってることが眩しくなったりするものです。

そのボヤキですが、毎日その「うまく行ってる、行ってそうな人」のことを考えるわけでありません。人って、そんなに他人に興味があるわけじゃない。一瞬目には入るかも知れないけど、その後また別のことを考えてるのが人間です。あるいは、また別の「うまく行ってる人」のことを考えるかも知れません。

私はいわゆる「事件好き」だから、ある種の他人には大いに興味があります。多分、普通よりうんと興味あるほうです。どうしてそういう思考、行動になるのか、というところに興味が行く。けれど、それは評価ではなくて「検証」「学び」の方向での興味。自分とはかけ離れている生き物の生態としての興味です。虫が好きなのと同じようなレベルかも知れません。

さて、話を少し戻しましょう。「人からどう思われるか」ということに縛られていた時期が私にはありました。人を操作しようとさえしていました。単純な話で言うと、好きな人がいて、その人が元カノのことが忘れられないみたいだから、いないときに家に言って料理をしておいたらきっと感激して私のことを好きになるだろう。いや、なるに決まっている。なるのが普通だしなって当然だ。よし、今から家に言ってこっそり夕ご飯を作ってドロンしておいてやろう。みたいな。いやー、お前コワい女やな。

で、まあ、多分気持ち悪がられて、普通に元カノとよりを戻してフラれたわけやで。けど、そういうヤツでした。多分ねー、それってうちの父親の系統ね。そうやって人をコントロールしようとするのよ。けど、武司くんと一緒になったら、そういうのが通用しなくなって、オマケに武司くんのお母さんである安子さんがキョーレツだったので、変な小細工通用しないし、相手はその上を来る巨大モンスターなわけよ。

そこで相当鍛えられた、ってのはある。

そしてやな、問題の武司くんとの関係。

駆け落ち⇛結婚⇛別居⇛離婚=仲良し

みたいになってるけど、そもそも私が「他人中心」でいろいろ考えていたからこじれにこじれて、お互い悪気はないのにまったく噛み合った議論にならなかった。これはですね、私と武司くんの関係がここまでうまく解決したのは、ひとえに石原加受子さんのおかげですと、私は言いたい。「自分中心」の考えができるようになった。武司くんはそもそも「自分中心」だったけど、私が「他人中心」なもんだから、話にならないわな。いやー、石原さんのワーク受けるのに荻窪まで行ったよ、わたしゃ。

さて、いかにも、私は「人の評価なんて気にしてもいなけりゃ気にしたこともない」なんてエラソーなことを言ったけれど、それもこれも、むしろ「人の評価ありきの生き方」から出発していたことを知っていただけたのではないでしょうか。

私は自営業ということもあり、比較的人の噂が耳に入ってこない環境で生きています。友達がまず少ない。電話やLINEは必要事項のやり取りがほとんど。誰か特定の友人と電話やLINEでずっとやりとりする、なんてことは皆無。だから、誰かが私のことを何か言っててもぜんぜ私には届かない。というのはあります。けど、これが会社だったら、結構キツイんじゃないかな、と思ったりしました。人が自分をどう言っているのかが耳に届くかも知れません。

そうなると、あとはそれに対するメンタルをどう鍛えるかかな、とは思います。以前、私の記事が少しだけバズったときは「とにかくツイッターの通知は見に行かない」ということにしました。多分、多くに人が文句を言ってたと思うけど、見てないのでダメージを受けてません。つまり、人の評価って、自分の目に、耳に、入ってこなければ

ないも同然!!!!

なのです。ちなみに「他人の評価=悪い評価」に特化して述べてきましたが、よい評価というのもあります。これがですね、これはたまーに、ちゃんと届くですよ。だから、人の悪い評価を聞いて落ち込むよりも、よい評価を聞いて喜ぶことのほうが多いです。他人の評価を気にしないポイントとしては

・友達が少ないこと
・ましてや友達グループとかに入ってないこと

じゃないかなー、と私は思います。よかった!友達少なくて!あれ?こんな話でよかったかな。まいっか。

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