見出し画像

8時40分のボヘミアン・ラプソディ

 どうしてもフレディという人が気持ち悪くてだめだった。真っ黒な胸毛の上半身にサスペンダー、ピチピチのタイツ履いて、ツバを飛ばしながら歌うヒゲのおじさんが好きな女子中学生って、あんまりいないだろう。私のレコード棚にあったのはジャパンやデペッシュ・モードだったし、初めて買ったLPはポリスの「ゴースト・イン・ザ・マシーン」だった。デュラン・デュランのレコードは友達のあけみちゃんから借りていた。イギリスのニュー・ロマンティックやどっちかと言えばテクノ寄りの音が好きだったから、コンサートチケットが当たった時は「当たった」って言う嬉しさはあったけど、別にそれがQueenだから嬉しかったわけではなかった。

 とは言え、初めて外国のバンドのコンサートに行ける、生で見られるっていうワクワク感はあったわけで、当然同級生のあけみちゃんと行く気だった。でも、会場まで電車を乗り継いで2時間半はかかる。信号もない田舎の中3少女が2人きりで夜のコンサート行く、なんてことを親が許すわけない。じゃあ、どうするのか。答えは「親と行く」。それで私は父と行くことになった。Queenのコンサートへ。
 これは私にとって大問題だった。なぜって、当時私は反抗期真っ只中。親と行動するなんて格好悪いと思う年頃真っ盛り。しかも親のレコード棚に並んでいるのはリーダーズ・ダイジェストで買ったクラシックアルバム集にジョン・デンバー、戦争反対のフォークソング集。そんな音楽センスのない親とロックのコンサートに行くなんて、私の自意識が許さなかった。だけど、行くのをやめるか、親とでも行くか、と言われたらやっぱり行くのを選んだ。

 そもそもどうしてコンサートチケットが当たったのか。それは私が柴田チコのラジオ番組に応募したからだ。ハガキにQueenのコンサートチケット希望と書いたに違いない。私のことだから「すごいファンです!」とか書いたのだ。まったくもって適当だ。とにかく、そうしてある日、家にラジオ局の名前が書かれた封筒が届いた。
 何事も当選するというのは嬉しいものだ。最初の当選体験はチロルチョコ。包み紙を何枚か集めて送ったら現金1,000円が当たった。当時の子どもにしたら大金だ。次は丸美屋の「のりたま」で当選し、「ジャッポリン」というビニール製の巨大なトランポリンみたいなクッションが届いた。デカすぎて部屋の大部分が占領されてしまった。コンサートチケットもその程度の感覚で応募していたはずだ。もちろん、その後のことなど何も考えずに。

 当日、道中父となにか話をしたのか、まったくもって覚えていない。覚えているのはコンサート会場ではなく、まずFM愛知のビルへ行ったことだ。なぜかと言うと、送られてきたのはチケットではなくチケットの引換券で、ラジオ局だから当然ラジオ局で引き換えるのだと勝手に勘違いをした私が、父にラジオ局へ行くように言ったからだった。父がラジオ局の人となにかやり取りをしているのを後ろで見ていた私はドキドキしていた。やけに時間がかかっていたからだ。すると、ここで引き換えるのはないらしいぞ、と、父が困った顔で戻ってきた。怒られる!そう思って身構えたが怒られなかった。
 これは意外だった。父にとっての初めての子ども、つまり長女だった私に、教員の父は普段から細かい生活態度を指導した。私は怠惰で狡猾で反抗的。父の機嫌を取りながら裏では舌を出すようなこともしょっちゅうで、それがバレると怒鳴られたり、手を挙げられることも。私にとって父はこころを許すような相手ではなかった。それなのに私のヘマで本来コンサート会場に直行すべきところ、余計な時間を食ってしまった。私にとって不覚の出来事だ。親と一緒にコンサートに行くだけでも憂鬱なのに、誤った案内で父への借りを作ったことで暗澹たる気分に陥った。だが特にそれに対して怒ったりはしなかった父はただただ弱り果て、そして時間が差し迫った私たちは慌ててコンサート会場へ地下鉄で向かった。

 会場は国際展示場という大きな体育館のような場所だった。私も父も座席が折りたたみ椅子のコンサート会場なんて初めてだった。私たちは時折クラシックのコンサートには行くことがあって、父は情操教育のように思っていただろうし、実際私はベートーヴェンとかチャイコフスキーのダイナミックな曲が大好きだった。ロックと同列に好きだった。クラシックコンサートはロックとは違い、田舎の文化会館にもやってくる。N響も前橋汀子も見た。でもロックは都会までしか来ないから、田舎の子どもたちには高嶺の花だった。そういう意味で、気持ち悪いフレディが歌う、大して好きでもないQueenだって、行けばみんなから羨ましがられるに違いない。オカッチの家には早稲田へ進学したお兄ちゃんが残していった「原子心母」やキング・クリムゾンのレコードがあったけど、私なんて生のクイーンだ。もっとすごいだろ?そんな風に友達を頭一つ分も半馬身分も出し抜いた気分でいた。
 会場の中でいろんなステッカーやTシャツなんかを売っていた。クラシックのコンサートにはない風景だ。私は4色に分けられた中にQueenのメンバーの顔が描かれている「Hot Space」のロゴのシールを買った。自分用とあけみちゃんへのお土産用だ。大した小遣いももらってなかったから買ったのはそれだけ。でも満足だった。これで行ってきたという証拠になる。

 座席には番号が振られ、私たちの席は比較的後ろに近いほうだった。懸賞のチケットだからそんなものだろうと諦め、私と父はそれぞれ自分のパイプ椅子に腰掛けて開演を待った。見たことのないような大人、私の住んでいるところでは見ないような人たちがたくさんいる。ミュージック・ライフの裏表紙にあった通販のような、革のリストバンドを付けた人もいる。雑誌でしか見たことのない背中までの長髪に細かいパーマをかけてピチピチのパンツにサングラスをした「音楽業界」みたいな人もいる。私みたいな子どもはひとりもいないように思えた。目の前に設営された大きなステージ、巨大なスピーカー。私は次第にドキドキしてきた。そして父親といる自分が一層子供のように思えてなんだか恥ずかしかった。

 いよいよ開演か、という気分が会場全体に高まってきたとき、それまでゆるくかかっていた音楽が一変し、会場が暗転した。全観客の意識が舞台に集中する。あきらかにそれまでかかっていた音源とは違うギターの音が会場内に響き渡ったその瞬間。まるで決まりかなにかのように、それがまるで合図かのように、観客達は一斉に前のステージに向かって走り始めた。実際のところ、走ると言ったって、そこには夥しい数のパイプ椅子が並んでいる。だが誰もが走っていた。つまりパイプ椅子の座面を踏み越え、あるいはパイプ椅子を100メ-トルハードルのように飛び越え、つまづきながら、一部倒しながら雪崩れるように、あたかも大陸を塊となって移動するヌーの大群のように、私と父の横をあっという通り越し、前へと押し寄せていく。
 私はあっけにとられた。え?じゃあ何?座席の番号は?いいの?そんなことしていいの?その時、背中をパーン!と叩かれた。父だった。
「お前も行ってこーーい!!」
 え?え?
「ええか。8時40分にはあそこに来いよ。電車に遅れるからな、絶対に来いよ」
 そう言って自分の腕時計を差し、次に後ろの出口を差した。
「俺はあそこで待っとる」
 私はどんな顔をしていただろう。
「はよ行け!」
「分かった!」
 やり取りは一瞬の出来事だった。私はパイプ椅子の上を勢いよく走った。飛び越え、走って、そして前にいた大人の群れの中に飛び込んだ。私の隣には腰までの髪に細かいパ-マをかけたお兄さんが腕を組んで立っていた。私は本物の、大人の世界の中にいた。
 それから始まったステージのことはほとんど覚えていない。フレディは私の想像を裏切らない、雑誌やテレビで見る悪趣味な姿だったが、圧倒的に違っていた。フレディ自体が圧倒的だったのだ。ただただ覚えているのはそれだけだ。私は自分の審美眼に自信をもっていたし、フレディはそれに合致するものではなかったけれど、そんなものは軽く凌駕された。圧倒的熱量、溢れ出るエネルギーの前に私のちっぽけで稚拙な美意識などないも同然だった。会場そのものがフレディとなり、観客はフレディの細胞となって共に呼吸をし、共に歌っていた。フレディが胸毛だろうと、汗を飛び散らせていようと、はちきれそうなピチピチパンツだろうと、そんなことはもうどうでもよかった。かっこいいとか、きれいとか、そういう次元ではなかった。そういう次元を超えるものが、この世には存在する、ということをその日私は思い知った。
 フレディがピアノの前に座り、観客が最高潮の盛り上がりを見せ始めた頃、私は時計を気にしだした。約束の8時40分が近づいていた。私はなんとかこのボヘミアン・ラプソディだけは最後まで聴いてからと思っていたが電車に遅れるわけにはいかない。曲の最後が近づくにつれ、私は歓喜に湧く群れから抜け出て、会場後方の出口へと向かった。見事なまでにパイプ椅子が転がる後部に人はまばらで、私と父が腰掛けていた椅子は無人のまま放置されていた。出口の横には父がぽつんと腕を組んで立っていた。
「どやった」
「うん、よかった」
 よかったなどと言う言葉では形容のできない何かが私を満たしていたけれど、そんなことはもちろん父に言いはしないし、おそらく言葉にはできないものだった。舞台を振り返ると曲の終盤、フレディは赤いバラを観客席に投げ入れていた。後日、同じラジオ番組でその薔薇を受け取ったのが誰かと話題になっていた。

 それから私が特にQueenファンになったかと言うとそういうわけではない。日本は経済的に世界の中心となり、数年後には泡にまみれた饗宴が終息。私はと言えば、相変わらず自分の審美眼に根拠のない自信を持ち続けていた。一方、父とはその話題を一度も交わすことなく今まできて、さっき聞いたらQueenやフレディのことはすっかり忘れていた。あれは私だけに起こった特別なことだったのだろうか。あの日、帰り間際、会場の後ろから見たフレディは上半身を白い光に包まれていた。あの時の彼の神々しいまでの圧倒的なエネルギーは、今も私の細胞の中で小さく光を放ったままだ。

※2016年に書いた自分の記事をリライトしたものです。

サポートありがとうございます!旅の資金にします。地元のお菓子を買って電車の中で食べている写真をTwitterにあげていたら、それがいただいたサポートで買ったものです!重ねてありがとうございます。