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脚本内での「引用」について。

 ぼくは、作中で誰かの既存作を引用をするとき、セリフで原典を示すことを、良しとしている。

・自分の作品ではないので、勘違いで褒められたくない。
 たとえば有名な詩を引用したあとで、その詩を知らない人から「あれは名台詞ですね」なんて褒められたら恥ずかしくて眠れなくなる。だったら初めから、探せば出てくる原典の名を示しておきたい。

・原典に接する機会が増える。
 世代差によって、接することのできる作品は限られる。とくに教養と化しているタイプの作品は、敬遠されがちだ。だが作中に出してしまえば「読んでおいた方が作品理解が深まる」というふうに解釈してもらえる。名著をサブテキスト扱いしていいものかどうかは、さて置いて。

・役者としての経験値を上げてほしい。
 パロディやパスティーシュなどの場合、原典を示す隙間が作中にはない。だから原典を知らなければ、それがパロディであることも、脚本を読んだだけではわからない。教養として、ではなく、経験として知っていれば、他の現場でも「あ、このセリフ、ロバート・ブラウニングの詩のパロディになってるんだ」と気づくことができる。ぶっちゃけて言えば、若い俳優が、どこかの稽古場でふと「ああ、ロバート・ブラウニングですね」とか言ってくれたら、かっこいい。

 先に記した通り、もちろん例外はある。作品のコンセプト自体が「パロディの坩堝」である場合だ。猛烈なスピードと軽快なテンポで演じられる物語に、野暮な原典の提示など要らない。知らない奴は置いて行け、というのが坩堝系パロディの醍醐味だ。

 そんな坩堝系パロディの煮こごりみたいな作品が、今月の末から上演される。『ダンスダンスダンス ダークダンジョン』池袋KASSAIにて。

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 一昨年上演された『ダンスダンスダンス踊りヶ丘学園 これが私の舞活動』を、原作者の許可なしに麻草郁が完全パロディ脚本化した『ダンスダンスダンス オルタナティブ』を、さらに麻草郁本人がセルフパロディ化。
・パロディとしての引用改変が極まっているのでどこを褒めていい。
・原典に接しても特に教養が深まったりはしない。
・役者としての経験値は爆上がりしているはずだ。
 いったい何がどうなってダークダンジョンなのか、その答えは劇場で目撃するしかない。お楽しみに。

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