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フリンジ、マニピュレータ

「苦い、は知ってる、外殻を修繕したときに出るイオンガスがスーツの素材に反応して酸素が苦くなるんだ」
 ぼくはスーツのフリンジに光点字で返事を表示する。地球産のフレームに小惑星から採ったミネラルをまとわせた一点もの、脳を中枢とした後方に肢を伸ばす人間タイプの形態を模している、白くて流線型の体が自慢の愛機だ。
 同じ航路を飛んでいた彼の機体はボロボロで、ところどころにツギハギがある。マニピュレータの長さもまちまちで、先が割れていて不格好だ。
 亜光速で飛ぶ旅の途中で、同じ速度の誰かと出会うなんてめったにないから、はじめに話しかけられた時は攻撃されたのかと思って身構えた。それが光点字だってわかってから、ログを探って何を聞かれたのかを読んでぼくは笑った。

「コーヒーを飲んだことはあるか?」
「誰だか知らないけど、コーヒーならいつでも飲める。地球産の豆を原料にした飲料のことだよね」
 地球産のものならたくさん経験した。夕陽、電話、交差点、雨。どれも記録を元にしたシミュラクラだけど、ぼくにとっては懐かしい地球の思い出だ。

「そうだ、地獄のように熱く、悪魔のように苦く、愛のように甘い」
 地球に詳しいぼくならわかる、地獄とは神が不在の地、そこに生息する黒くて羽のある生物が悪魔。最後の愛ってのは、よくわからなかったけど、たぶん地獄と関係があるんだろう。

「悪魔って食べたことない、苦いのかい」
「私も食べたことはない、たぶん苦いんだろうな。苦いという感覚は知ってるのか」

 そして冒頭の答えに戻るってわけ。残念ながら、ぼくが飲んだコーヒーは苦くなかった。甘さはあった、砂糖が入っていたからね。でも愛と同じくらいかどうかは、やっぱりわからない。

「イカにも味がわかるんだな、いつかお前が本物のコーヒーを飲んだら私のことを思い出してくれ」

 イカ?イカってなんだ?
 彼は中央殻から伸びた二本のマニピュレータ(関節が三個しかない可動域の低いやつ)を操作すると、器用に割れた先端の関節を動かして、機体のいくつかの部品を外した。

 機体を軽くして、亜光速を脱する気だ。

「そんなことをしたら、時の壁にぶつかる」
 見ず知らずの他人だって、目の前で爆散するのを見たら気分が悪い。ぼくの光点字が見えたのか見えていないのか、彼の機体は二本の何に使うのかわからない長いマニピュレータを後ろに伸ばし、先端についた観測機を正面に向けた。

 彼のフリンジに、光点字が表示される。よく見えなかったが、そこには「また会おう」と表示されていたように思う。そのログは時の壁と衝突した彼のエコーでノイズだらけになって、うまく再生できない。

 ぼくは十本のマニピュレータをひろげて、速度を落とした。急ぐ旅じゃない。時の壁を超えて過去へ飛んだ例は、あるといえばある。ぼくたちのような宇宙を飛ぶ人間(ちゃんと脚が十本あって、脚の先の吸盤でなんでもできるちゃんとした人間)が生まれるずっと前、まだ地球があの軌道上に惑星として存在していたほどの過去の「ほんとう」を知るには、過去に飛ぶしかないからだ。

 四角い胴体と、二本の腕、そして二本の移動用の脚部だけを持った、地球産の人間。もしかしてあれは、最後の生き残りだったのかもしれない。

 いつか彼が、シミュラクラではない本物のコーヒーを持って訪ねに来てくれるのを、愛の甘さって何なのかを教えてくれるのを、ぼくはいつかいつかと思いながら待っている。

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あとがき
というわけで小説です。お題はコーヒー。ものすごく未来のお話なので、主人公はイカ(的な、進化を遂げた何か)です。コーヒーの甘さ、ほんとうは「口づけ」なんですけど、未来だからちょっと変わっちゃったってことで。感想ください(サポートも大歓迎)。

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