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歴史に残って擦られるとしたら

 100年後、ぼくたちはおそらく生きてはいない。このnoteを読んだ人も、その子孫から子孫が、どこでどうやって暮らしているかの検討もつかない。そもそも中央集権の国家制度そのものが存続しているかどうか、データの世界でまた会えたらいいけど、それも間に合うかどうか。

 とにかく、何ひとつ想像がつかないけれど、もしもその世界に「歴史学者」がいたら、今の時代をどう語ってくれるだろうか。

 疫病によって社会が変質し、何かが決定的に変わってしまったこの時代を、どのように語ってくれるだろうか。それとも語るべき何かを見出すことはできないだろうか。

 この状況で創作をするということは、そういうことだ。ぼくはとある映画の顔合わせ(撮影前にキャストスタッフ全員で集まって挨拶する儀式)で、集まった俳優たちに向かって言った。

「10年、上演してきた舞台です。けれど、舞台は花火のようなもので、上演すれば消えてなくなります。同じ舞台を同じように皆さんが見ることはできない。そういう芸術様式です。映画は違います。映画が生まれて100年、私たちは100年前の世界をスクリーン越しに見ることができる。100年後も同じです。100年後の世界で誰かが、あなたたちがここに居て、生きていたことを確認できるメディア、それが映画です。100年後にも1000年後にも残る作品に出演してれて、ありがとうございます」

 大袈裟でもなんでもない、そしてぼくは尊大なので、実を言えば舞台は戯曲が1000年残ることを知っている。だから気になる。100年後、いったい誰がどういうふうに解釈するのか知らないが、この時代に上演された作品の戯曲を手に入れて、上演された当時の感想を見て、必ず分析しようとする者が出てくる。

 そして、言うだろう。

「100年前の人類、そのさらに200年くらい前の話をしてるんだが……」

 そう、ぼくは今、幕末の舞台を演出している。新撰組が京へ向かう前後の話を描いた青春活劇『虚ろな記憶』と、人斬りと呼ばれた中村半次郎を軸に幕末の動乱をジェットコースターのように描いた『刹那、その遥か先へ』の二本である。 

 この舞台、めっぽう面白い。ミクロに人間像へと切り込んでいく『虚』と、マクロを幕末を横断する『刹那』では、演出の方法もまるで違う。何しろ新撰組が結成される前、まだ試衛館にいた頃の近藤土方と、京で不逞浪士を斬りまくり、隊内粛清どんと来い時代の近藤土方では、当然描き方も演じ方も違う(そこで別人の役者が演じるのも面白い趣向だ)。

 何よりも実際に見ることのできない歴史の一部を覗き見て、そこに存在していた実在の人物を想像で動かすのは何とも言えない贅沢だ。誰も見たことがない割に、生き残った元隊士や政治家たちの証言から浮かび上がる人物像だけは多くある。更にそこに後世の創作が混ざり、二次創作三次創作とバリエーションは増えていき、まるでカニッツァの三角形のように、近藤勇といえばこんな人、土方歳三としえばこんな人、というイメージが見る人それぞれの頭の中に生まれていのだ。

 今風に言えば、擦られ続けているというわけだ。

 今回に限らず、自分が実在の事件を扱うときには、史実や時系列といったものを大切にするように心がけている。脚本で言えばプロットのようなもので、追いかけてみるとその隙間から人物像が見え隠れしてくる。歴史を追いかけていても面白いのはいつもそこだ。○○何年何月何日、何処其処で云々。

 その時を見ることはできない。ただぼくたちは「その時なのであれば」と真摯な思いを込めて、歴史上の人物を擦り続ける。

 「新撰組」は明治当初、物語に出てくる悪役だった。新政府軍に楯突く逆賊だからだ。それがやがて幕府と新政府軍の関係が歴史の彼方へとずれていく過程で、様々な新解釈が生まれた。今では新撰組を描く場合に、その悪さをメインに据える作品は少ないだろう。その二面性を今回の二本立てではお見せできそうだ。

 さて、今のぼくたちはどうだろう。生きていて何か書き残すことはできているようだ。それらのデータが無事に保管され、100年後の未来でつまびらかにされた時、戯曲やツイートやnoteが読まれて分析される時、果たしてそれからの100年擦李続けてもらえる人間なのだろうか。

 素晴らしい功績を残した人間はたくさんいる。彼らは擦られていくだろう。だが我々は?悪でもない正義でもない、市井に生きて政府の思惑に翻弄され。生きていくことに精一杯の我々は?

 知らんだろう。こっちも知らん、勝手に擦っとれ。

 100年後がどうあれ、僕たちは今を、明日を生きる力を役者たちと練り上げて観客の皆さんに届けられたらいい。そして今から200年弱、今はもういない人間たちの生きて死んでそして生きて生きた様を見届けてほしい。

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脚本家になりたい人、面白い話を書きたい人、読んでいて分析したい人などにおすすめです。 あと表に書けない愚痴も書く。

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