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パンプス、夢、爪。バイト先の忘年会に行きたくない。

【小説です】

 私の部屋は、狭い。ドアを開けると靴箱があり、キッチンがあり、向かいにユニットバスがあり、六畳一間に全てのものが詰め込まれている。エアコンが壊れたのが、だいたい半年前、夏の暑い最中、急にリモコンが効かなくなった。ヴィレバンで買った折り畳みの台に乗って、手動のスイッチを押すと温風が出てきたので、それからずっと放置している。

 昨夜は、足の親指の爪を切りすぎた。デパスとマイスリーを飲んでからしばらくテーブルに座ってスマホをいじっていた。夜中に爪を切ると親の死に目に会えないと昔の人は言った。きっと深爪をして、歩くのが嫌になるからだ。デパスは精神安定剤で、マイスリーは睡眠導入剤。ジェルネイルのために買ったLEDのUVライトが部屋の隅で眠っている。ペディキュアも長いことやってない。私が不眠症になってから、もう5年くらい経った。

 私を追い込んだ上司や同僚にまた会えたら、石で殴って歯を全部折ってやりたい。できるはずもないけど。いまのバイト先で、私はすごく笑顔のステキな優しい人ということになっている。毎朝ストラテラを飲んで出勤しているからだ。ストラテラはADHDの処方薬で、不注意や多動、衝動的で落ち着きがない、などの症状を緩和する。私は前の職場では、衝動的で落ち着きがなく、愚鈍で何もできない人間だった。殴ってやりたい。

 バイト先でよく話をしてくれる同性の年上の先輩が好きだ、とても好きだ。笑うと目がなくなって、私のことを「やん」と呼ぶ。他の誰もそういうあだ名では呼ばない。なんでその名前になったのかもわからない。

「やんはさあ、いっぱい本を読んでて偉いよね、いつも話しててびっくりするもん、カタカナの言葉とかさ、なんだっけ前に言ってたやつ、眼がずっと動いてて時計が止まるやつ」

 サッケード停止ですか、先輩、よくおぼえてますね。

「海外に行きたいんだよね、台湾って往復で7千円の航空券とかあるでしょ、ホテルの方が高いくらいだけど。お金貯めようかなあ、やんはどこか行ったことある?」

 ありません、どこにも行ったことありません、先輩。

「やん私服ダサいって言われてたけど、私は好きだな、ああいう変な色の服ってどこで売ってるの?」

 高円寺の古着屋です、先輩。

「忘年会行くのやだよね、会費だけ払って先に帰っちゃおうか、カラオケとか行って朝まで歌ったら楽しいよね」

 忘年会は抜け出せなかった。先輩はしたたかに酔って、千鳥足で電車に乗って帰った。私も少し酔って、つらいことより楽しいことの方が多かったけど、それでもカラオケに行きたかったです、先輩。

 いつか先輩を連れて台湾に行きたい。路地裏に迷い込んでホテルへの帰り道がわからなくなっても、先輩は笑って「わかんなくなっちゃったね、やんどうする?」って言ってくれる。「屋台があるよ、なんか食べようか」って言ってくれる。

 雨が降ると、部屋があたたかい。これはエアコンが壊れたことで得た発見だった。普段は冷気が二枚のカーテンを貫いて部屋の床上をキンキンに冷やすのだけど、雨が降っていると部屋の中に熱がこもって外に出ていかない。少なくとも今は。

 先輩、エアコン直したら家に遊びに来てくださいね。いつか一緒に台湾に旅行に行きましょうね。

おわり

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