見出し画像

こういうのはタイミングだから

『アリスインデッドリースクール 永遠』が、COVID-19の感染拡大の状況を鑑みての公演中止になってから、だいたい一ヶ月が経った。

 10年間、再演を続けた脚本作品を自分の手で演出する、しかもアリスインでの演出も10年ぶりだ。思い入れもあったし、たくさんの人に演者たちの姿を見て欲しかった。今でも思い出すとまだ辛い。辛かった。一ヶ月経って話せるようになるかなと思ったけど、まだ全然無理だった。

 おかげでまだリードロニカの感想も書いてない。新しい作品も書かなきゃいけないのに、あまりしっかりと目処が立たない。上演の計画を立てても状況が日々刻一刻と変わる。

 永遠は再演したい、リモートじゃなくて劇場で。

 当時メモしたことや、いま思い出せることを、できるだけ書き留めておこうとおもう。忘れてしまわないように。まずは平瀬さんと鈴木さん、ソラ豆さん。本編に関するネタバレもたくさんあるけど、あまり気にしなくていいと思う。

墨尾優 平瀬美里

 平瀬さんは、読み合わせの前に一度だけ面談をさせてもらった時の印象が強い。ハキハキとして、思慮深く、緊張もしていたが芯のある良い声の優等生だと思った。まさか、あんな稽古場で軟体動物のように他の演者にまとわりついたりするような人だとは思わなかった。彼女のある種「雑」とも言えるような態度の軟化によって、ぼく自身の緊張と、どうにもならない不安が解消されていった。

 稽古後半においては、彼女の俳優としての成長があまりに素晴らしく、毎日、ノブ役の石川さんとのディスカッションでは褒めが発生してしまい、二人で涙ぐんだりした(石川さんの項で詳しく書く)。ファンの人には言わずもがなだろうが、OP振付の日、その歌声とダンスには圧倒された。点で作っていた芝居が線で組み上がり、角が光ると面が浮かび上がる。その中心にユウがいた。

 みーちゃん、というニックネームも、ぼくにとっては印象深い。ぼくは基本的に演者さんのことを名字で呼ぶ。今回は渡邊さんと渡辺さんが居たので、スムースに下の名前や愛称で呼ぶことができたけど、それでも改まった話をするときは名字で呼んでしまう。

 でもみーちゃんは、普段の行動がまんまユウだし、なにより「みーちゃん」という音の響きも彼女そのままで、とにかく彼女が中心にいてくれたらなんとかなる、という安心感、じゃないな、演者たちとみんなでこの看板を支えよう、でもないな、毎日その感覚は変わっていった。その成長を見守ることが、座組全体の成長を表している気がした。

 だから自然と「みーちゃん」と呼べるようになったし、他の演者のことも愛称で呼ぶことが可能になった。

 ゲネプロに入ってから、夢の中のノブを見送る場面で、涙を拭うしぐさの中に、顔のほてりをパタパタと手であおぐ動きが入った。ノイズではある、でも大事な動きだ。「泣かないで、笑顔で見送って、泣きたくなると思うけど」とぼくは言った。みーちゃんは言われたとおり、笑顔でいようとしてくれた(客席からは見えないけど)。

 稽古の一ヶ月でぼく自身が成長できた。彼女のおかげだ。

 芯というのは、いつでも空虚だ。ドーナツの真ん中に取り残されたように、自分だけが虚空に立って全てが遠ざかっていくような気がする。そんなときにも、涙を拭いて、手のひらをパタパタさせながら笑顔でいてくれるみーちゃんがユウを演じてくれて、本当に良かったと思う。

辻井水貴 鈴木楓恋

 ぼくが脚本を書いたコメディ『ダンスダンスダンス ダークダンジョンバージョン』という作品で彼女を見たときは、その恵まれた体躯と張りのある声、そのまん丸な目に射抜かれてしまった。まっすぐにボケるというのは、書くと簡単だがやるのは難しい、しかもアイドル的な魅力のある人であれば尚更だ。

 ミズキがその孤独を笑いとしてイジられる場面がある。物語的な救済は(その後に訪れる運命の報復と共に)あるものの、ともすれば痛々しいイジメの場面になってしまう。だから最新作の永遠ではその場面はずいぶんと削ってしまったが、それは逆に言えばいわゆる「おいしい」場面が減っているわけだ。

 楓恋のミズキは、そんなぼくのポリコレ的な気遣いを吹っ飛ばしてくれた。重要なのはバランスだ、あの屋上でミズキをいじっていいのはユウだけだし、そのユウにツッコミを入れていいのはノブだけだ。なぜなら「笑い」のために生きてるのはその二人だけで、他の人たちには他の人生があるからだ。

 それを、楓恋のミズキが教えてくれた。楓恋のミズキは前半の迫力がすごい、だから中盤でドウモトが現れてからの流れで、板の上の全員が「暴君の敗北」をそこに見る。結果として「全員がいじる」といった流れが発現した。

 なるほどな、と感心した。いじるというのは、仲間に「入れてあげる」儀式なのだ。「お前はどこのポジションだ?」と探る群れの力関係が「いじられ」の位置を決める。でも、今回の屋上では人と人との関係は、面ではなく点と線だ。全員が仲良くなる必要はないし、大切なものがそれぞれにひとつあればいい。

 だから、和磨会長がミズキの物真似をするあたりでは、ユウ以外の役にはいじりのゲインをオフにしてもらった。これはすごく重要なことだ。演者というのは表現者である。場の空気を読み、自分を最適であるだろう形に変化させる。場がいじりになれば、盛り上げるためにいじりに参加する。だが、あの屋上にいた「演者」はユウとノブの二人だけなのだ。それがハッキリとしたのは、楓恋がものすごく明確に「暴君の敗北」を演じてくれたからだし、それに屋上の皆が反応してくれたからだ。

 ミズキにはミズキの人生があった。孤独で、他人とうまく接することができず、それでも口だけは達者で知識も豊富で頭の回転も早くて、結果として友達と呼べる同世代の仲間がいない。だからコミュニケーションの手段が言葉で刺すことしか見つけられない。きっと、ユウがいなければ、ドウモトはミズキに声をかけることができなかった。

 本心を隠したまま、誰にも言わず、一人ぼっちでいたかもしれない。

 そんな人間ミズキを、楓恋が演じてくれて本当に良かった。

堂本千十合 ソラ豆琴美

 ドウモトは変なやつだ。10年前からそれは変わらない。初演当時に出したムックぼくが描いた漫画とキャラクターデザインでは、アホ毛からWiFiを飛ばしていた。ソラ豆さんも、たぶんWiFiくらいは飛ばせる気がする。

「セリフが入らない」といつも嘆いている。手順や段取りを間違えて年下の子たちに手取り足取り教えてもらっている。かといっていじられキャラでもなく、いつもポツンと一人で座っている。ソラ豆さんの印象は点だ。

 去年上演した作演出ミュージカル『シーラカンスアピアランス』で初めてご一緒させてもらった時も思ったのだが、今回も、あまり役の内面について話し合ったことがない。稽古でだいたいの方向をつけたらピンボールマシンの中の鉄球みたいに跳ね回る。そこがちょっとぼくの役者としてのスタンスに通じるものを感じている。

 ミズキ役が鈴木楓恋でいなければ、ドウモトがソラ豆琴美でなければ、ぼくは二人の持ち味をここまで活かせなかったかもしれない。稽古の後半、通しに入ってからの、二人のやりとり。そして本番に入ってからのハイテンションとローテンションの落差。本当に二人が二人でいてくれてよかった。

 今回の脚本ではト書きでミズキとドウモトの動きの説明を少しだけ足した。いままでの演出が間違っていたとは言わないが、時に放って置かれる場合が多いように思えたからだ。

 ミズキも、ドウモト、きっと普段は変わり者の厄介者扱いで、誰にも本心を明かすことができないまま生きてきたんだろう。そんな二人が出会ってしまった。そういう出会いをぼくは描きたかったし、ソラ豆さんはそこの心情をとても強く確かに演じてくれた。

 本番に入ってパワーアップしたドウモトを、千秋楽まで観ていたかった。

輪郭に沿うように、柔らかく

 状況も状況だし、あまり詳しい感想はもらえていない。それでも劇場に来てくれた人たちの言葉はひとつひとつがすごく温かくて、いまでも支えになっている。観てもらえなかった人たちに、どうにかして届けたい。

ゆっくりとでも、全員のことを書いていこうと思う。よろしくお願いします。

サポートしていただけると更新頻度とクォリティが上がります。