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セリフに「正しい読み方」なんて、ない。

【小説:このお話はフィクションです、実在する団体、個人、出来事(略)】

「セリフに『正しい読み方』なんて、ないんだよ」

 という言葉を、誰かが口にした。ちょっとした寸劇についての、ちょっとしたやり取りの、ちょっとした返答の一部でしかないその言葉に、その場にいる人々が曖昧に頷く。

 ぼくはその言葉に、頭の中で答える。いや、あるよ。誰の心にもある。その人なりの、その人が正しいと思う感じる読み方がある。でもそれは脳内で響く音ではない音、つまりは電気信号と脳内物質の化学反応が生み出す「理想」に過ぎない。

 だから、どんな読み方をしてもそれは常に正しいし、誰かにとってはどうしたって正しくはない。それでもセリフは必ず発せられて誰かの耳に届くし、その言葉は誰かの心を動かすだろう。

 と、いうようなことを、読み合わせカフェの座席でぼくは一人考える。

 舞台演劇の短い脚本を選び、その場にいる知らない誰かとまるで役者のように「読み合わせ」るカフェ。観劇をする人や、実際に役者をやっている人、作演出家など、さまざまな人たちがやってくるカフェに、ぼくは来て、一人でオレンジジュースを飲んでいる。

 憧れの女優さんが、少し離れた席に座っている。彼女のようにきらびやかで、彼女のように自由に演じて、彼女のように普段から振る舞えたらいいのに、とぼくは思う。

 知らない人と話すのはとても難しい。ましてや、やったこともない「読み合わせ」なんて、できるわけがない。

「マッチングしますか? この本なんて勢いがあっていいと思うんですけど」

 主催者でもあり、店員でもある女性が声をかけてくる。ぼくが「はあ」とか「まあ」などといったフワフワした返事をしていると、いつのまにかぼくのまわりで「読み合わせ」が始まることになっていた。

 ハキハキとした声の男性が役を割り振っていく。ヒゲの男性が「じゃあ、オレはこれ」などと役を選ぶ。メガネの理知的な女性が脚本の説明をしてくれる。

 そして、ぼくの隣に

 あの、憧れの女優さんが、座った。

 それからのことは、よくおぼえていない。大きな声でわあわあ読んでいると、自然と笑いがあふれて楽しい時間を過ごすことができた。正しいか間違っているかなんて関係ない、馬鹿馬鹿しい笑える脚本だった。読み終わってぼーっとしていると、ハキハキした男性に「この脚本初めてですか?え?芝居も初めて?役の読み取り完璧ですよ」などと褒められていい気になった。二杯目のオレンジジュースで喉を潤していると、憧れの女優さんは席を立ち、タバコを吸いに外へ出て行った。ガラス窓越しに見えるその姿は夕闇の青に染められて、さっきまで隣でぼくの恋人役だったとは、とても思えない。

 別世界の人だ。

 ぼくは用事を思い出したふりをして、席を立ち、会計を済ませた。帰り際に声をかけよう、見た舞台の話をすればいい? それとも吸ってるタバコの銘柄を聞く? 使ってるアイシャドウの種類かな? あなたのように綺麗になりたい、なんていきなり言われたら引くよな。

 ぼくは結局、店を出ると「どうも」と会釈をして駅に向かった。たしかにセリフの読み方に正しさなどというものはない。

 いつか、自分自身のセリフで、あの人にもう一度気持ちを伝えよう。正しさなんてないのだから、それがあの人にとって間違っていたとしても、それでもセリフは必ず発せられてあの人の耳に届くし、その言葉はあの人の心を動かすだろう。

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