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遠くから見れば喜劇

 【短編小説】

 埃じみた空気がゆっくりと対流している。やわらかい琥珀色の光のうねり。タバコの脂でうす汚れたカーテンが、西日をあわく遮っている。どうして人の殺されたあとの部屋ってのはこう、映画の一場面のように均一で味気ないんだ。鑑識がフラッシュを焚く、証拠物は逃げ出しやしないってのに、まるでクラブの前でたむろって興奮してるパパラッチみたいだ。
 ポリエチレンの袋に入った凶器がおれの視界に入ってきた。
「ペンチか」
「ニッパーだよ、細い鉄線を切る」
 そう言いながら、相棒は凶器の血に濡れた面をおれに向けた。
「これで殺した?」
「被害者は椅子に結束バンドで縛りつけられて、身体中をいたぶられた」
「結束バンド?」
「電源コードなんかをまとめる、プラスチックのバンドだよ。片側にギザギザがついていて、もう片方がラチェットになっていて、一度引っ張ると外れない」
「ああ、刑事が犯人の腕を縛るのに使ってる」
「知ってるじゃないか」
「ドラマで見たんだ、犯人は刑事?」
 相棒は現場を歩き回りながら、おれたちだけに見える証拠品を探している。
「結束バンドはドラッグストアでもCVSでも売ってる。拷問が好きなら取り調べ室の鍵をかければいい、プライベートでやる必要もない」
「倫理的な腐敗が危惧される事態だね」
「なにが見える?」
 おれは視界の中で蠢く異物を探す。死体が座っている籐の椅子。窓の近くにはなにもない。テーブルには食べかけのシリアルの皿と、倒れたミルクボトル。ボトルからこぼれたミルクは隙間だらけの床板に染み込んでいる。死体から飛び散った血痕が床にドリッピングアートを描いている。優雅な曲線の先にはキッチンへの入り口があり、その向こうは薄暗く窓の光も届かない。
「あっちだ」
 おれがそう言うと、相棒は腰の銃に手をそえながらキッチンへと向かった。

 おれが目覚めたのは、ほんの数ヶ月前だ。過去の記憶はない、気がついたら刑事の相棒がいた。三十二歳、男、離婚歴あり。妻との間には子供がいたが、幼い頃に他界。離婚の原因もそれだ。
 趣味は映画鑑賞と旅行。相棒の見る景色がおれの見る景色であり、相棒の聞く音がおれの聴く音だった。はじめて声を発したとき、相棒はちょうど酔っ払っていた。部屋の中に誰かがいると騒ぎ、ベッドをひっくり返して暴れた。だがどこにもおれはいない。
 当たり前だ、おれはおまえの頭の中に居るんだ。
 翌朝、なんとかして相棒に自分のことをわかってもらおうと思って冷静に説明を続けたのがよくなかった。相棒は精神科医のもとへ行き、ズレたカウンセリングに高い料金を払ったあげく、精神安定剤でおれを眠らせようとしやがった。
 あいにくと、おれは「狂気」じゃない。「脳腫瘍」でもない。記憶を失った何者かの人格なんだ。

 キッチンに行くと、戸棚の中から悲鳴が聞こえてきた。恐怖に怯える子供の悲鳴だ。相棒にはこの声は聞こえない、そればかりは運命に感謝すべきだろう。止める方法のない助けを呼ぶ声ってのは、不快なものだ。
「戸棚の中にある、いまは動けない、力を失ってる」
 相棒は手袋をつけた手でそっと戸棚を開ける。中には研ぎすぎて銘柄も形もわからなくなった古い短刀が一本。悲鳴はさらに大きくなっていく。相棒は鑑識を呼ぶと、キッチンから裏口を出て中庭へ向かう。悲鳴が聞こえなくても、あの包丁がやばいってことはただの人間にも伝わるらしい。相棒の発汗量と動悸がそれを物語っていた。
「あれはなんだ」
「妖刀のたぐいだよ、血を吸って、命を得た」
「あれが、犯人を操ったのか」
「正確に言えば、犯人とあれの目的が一致したんだ」

 被害者の死因は失血死。全身を百二十箇所ニッパーで切られ、その傷のいくつかが太い動脈を傷つけた。傷を数えた検屍官には敬意を評したい。物的証拠によって逮捕された犯人は被害者の友人で、現在は心神喪失状態にあり取り調べは難航している。二人は年齢も同じ、趣味の友達だが収入にも差はなく、人間関係によるトラブルも抱えていない。要は「動機のない殺人」というわけだ。

「事件を、未然に防ぎたい」
 蛍光灯が青白く部屋を照らしている。独り暮らしの三十代男が、平均的にこういう部屋に住んでいるのかはわからないが、かなりちらかっている方だと思う。山と積まれた段ボール箱は開封されないまま、ベッドと机と椅子の隙間だけが相棒の生活スペースだ。
「知らない奴の家に踏み込んで『天井裏に置いてある軍刀、いつかあんたに誰かを殺させるよ』って教えるのか?それは刑事の仕事じゃないだろ」
「だから方法を考えてるんだ、遠ざければいいんだろ、人間から」
「そうだな、奴らは自分を使ってくれる連中を求めているし、自分みたいに苦しむ道具を増やそうと思ってる」
「道具を使うのは人間だ。道具に使われてたまるかよ」
 相棒は力なく笑い、ベッドに横になるといびきをかきはじめた。

 おれが現れてからしばらくして、相棒はおれの存在を認めた。とある事件現場で行方不明になっていた凶器をおれが発見したからだ。おれには人を殺した道具のあげる叫び声が聞こえる。あいつらは出してくれ出してくれと叫んでいるんだ、生まれたばかりの子供のように。それが直接の凶器になる場合も、今回のように直接の凶器ではない場合もある。
 余計なことを教えているのかもしれない。普通に生きていれば見えないもの、聞こえないもの、感じないものがある。知らなければ平気で過ごせたものがある。現に多くの人間はそれらに気づかないフリをして日々を過ごしている。相棒はここ数週間で目に見えてやつれてしまった。相棒も学ぶ、おれも学ぶ。
 記憶を失ってなにも知らないおれに、相棒はいろんなことを教えてくれた。旅行先の外国で見た珍しい出来事の話。たまに見る映画やドラマでも、おれの知らないことを説明してくれた。おれにはすべてが新しく珍しい話ばかりだった。映画の歴史や過去の作家についても教えてくれた。喜劇王チャップリンは「近くから見れば悲劇、遠くから見れば喜劇」という言葉を残した。出来事を間近に見れば悲しいだけだが、その出来事に右往左往する人間たちの姿を遠くから見れば喜劇に見えてくる。

 相棒は自分が何者かで、なにをするべきで、なにをしてはいけないかをわかっていた。
 この世界に生まれて相棒と出会えて、おれは良かったと感じている。
 相棒は刑事だ、人を助けたいと願って仕事をしている。だからこそ事件が終わったあとで「証拠品」として奴らを見つけるのが、苦痛で仕方ないのだ。だが、その苦痛を知る術を教えたのは、おれだ。
 おれはまだ、おれが何者かを知らない。なにをするべきで、なにをしてはいけないかもわからない。ただわかるのは、相棒を死なせちゃいけないってことだけだ。

 たぶんそれをするために、おれはここへと呼び戻された。あの世という訳の分からない待合室みたいなところから、列整理もままならない騒がしい現世へ。

 「事件を未然に防ぐには、刑事を辞めるしかないと思う」
 おれは相棒を刺激しないよう、言葉を選びながら話した。相棒はなにも答えず、じっと話を聞いていた。
「廃品回収業者とか、そういう仕事に就けば人の家に上がり込む理由もできる。訪問販売のインチキ業者みたいだけど、やつらを回収したときだけは無料ってことにして」
「刑事をやめて廃品回収業者になる、かーーそれしかないな」

 意外にもあっけなく、相棒は刑事を辞職した。まっとうな廃品回収をしながら、たまに見つける「やつら」を回収しては、匿名で警察に送りつける。事件性のない証拠物品だが、それそのものには血液反応があるから下手に古物市に出ることもないだろう。人を殺したがる道具たちを未然に回収できて、相棒は毎日ぐっすり眠れている。眠るのを邪魔するのも嫌だから、相棒が眠っている時だけはおれもおとなしくしている。

 長く続く廃品回収の仕事は、やがてさまざまな業種とのつながりを作った。時には文化財レベルの「凶器」に出会うこともあった。おれたちと同じように「人を殺したことのある道具」を探しているNPO団体とも遭遇した。
 どうやらそっちの世の中で、おれたちは有名になりつつあるようだった。

 現場に向かう作業車の中で、運転席に座った相棒におれは話しかける。
「寒いと関節部の血流が滞る、温度が下がると精神活動も低下する」
「ホッカイロでも買って帰るか」
「それはなんだ?」
「鉄の粉が入った袋だよ、酸化熱を利用してあったまるんだ」
「なるほど、おれには温度自体は感じられないが、おまえの血流が滞ると活動に支障をきたすからな」
 相棒が急に小さく笑い、おれは戸惑う。
「なにか変なことを言ったか?」
「ああ、ずっと言おうと思っていたんだがな、おまえは話し方をおれからおぼえた、そして鏡に映る姿もおれだ、だから自分がしょぼくれた中年男だと思っているのかもしれないがーーおまえの声は10歳くらいの子供の声なんだよ」
「なんだって?」
「ああ、だから、クソ真面目に難しいことを喋っているのが面白くてな」
 おれは存在しない頬が熱くなるのを感じた。おれが10歳くらいの子供?
 冗談じゃない、訂正をーーと言おうとして、相棒の目頭に涙が浮かんでいるのを感じた。
「もしも、おれの娘が生きていたらーーそのくらいの年だ」
「じゃあ、話し方を変えた方がいいのか?」
「やめてくれ」
 相棒は急に遠くを見て、息を詰めた。
「今まで通りの話し方でいい。お前のおかげでおれは人の役に立てている。動機なき殺人も減った。やるべきことは、わかってる。さあ次は大物だぞ、古物商から武器を取り上げなきゃいけない。文化庁に連絡をしたら、合流して出発だ」

 おれはまだ、自分が何者なのかを知らない。自分がなにをすべきで、なにをしてはいけないかもわからない。なんのためにクソみたいな現世に呼び戻されたのかも。ただ、これからも、おれは独り言の多い元刑事の相棒と一緒に、廃品回収を続けていくだろう。

 それだけは、確実だ。

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