「わかる」とは、何か。
この記事は、2008年当時に書いたものを全面改稿した新作だ。読むということ、わかるということ、思考の解像度について、君が何かを考えるための足しになれば幸いである。
情報の高密度パッケージ
全てのマンガはギャンブルだ。君はページをめくるときに賭けをする、掛け金は時間と、思考と、感情だ。賭けに勝てば君は利益を得る、負ければ時間と思考と感情、ときには金そのものを無駄にする。それでも君はマンガが好きだ、やめられない。マンガには、その魔力がある。
そして、その魔力にはちゃんとタネも仕掛けもある。
ところが「マンガの描き方」なんてのを紹介しているサイトを読んでみると、そのすごさが全然意識されてないところがまたすごい、無意識ですごい、たぶん実作者と紹介者の違い、みたいな問題でもあるんだろう。
ここであるサイトのマンガの描き方に描いてあったコマの説明をちょっと模写で紹介してみよう。サイト名なんてものは忘れてしまった。
1の絵
2の絵
ひとコマでどれだけの情報が伝えられるか、という説明に用いられた絵の模写だが、だいぶ雰囲気は伝わるのではないだろうか。
「1.の絵よりも、2.の方がマンガらしく見えるでしょう」
確かに、2.にはかなりの情報が詰め込まれていることがわかる。
彼は追われている。手には光るナイフ、トンネルの出口は見えているが遠い。
後ろから誰が追ってきているかはわからない。
ところが、だ。その「マンガの描き方」のサイトは、この2.のコマに使われた基本的なマンガ技法を説明するだけで、話を終えてしまった。つまり「集中線」「キャラクターの描き方」「効果音」だけを取り上げて、あとは表情だとか、漫譜だとかにちょっとふれるだけで、この絵の話を終えてしまったのだ。「どうだい、ただ横向きに描くよりも臨場感があるだろう」なんて、そりゃ確かにそうかもしれないけどさ、それが何でそう見えるのかを教えてくれなきゃ、別の場面でどう描けば臨場感を出せるのか、わからないじゃないか。
だいたいにだな、それだけを説明するんだったら、このコマを使わなきゃいけない理由がないだろう。どうして1.のコマと2.のコマは違うんだ、違って見えるんだ?
問い質したって仕方ない、このコマから何を読み取れるのか、上に書いたものを詳しく考えてみよう。
まずはじめにおれたちは、彼がどこへ向かっているのかを知ることができる。おそらく、トンネルらしきところを走っている彼は、出口へと向かっているんだろう。なぜならコマの左下に、白く抜けた出口とおぼしきものが見えるからだ。1.ではそれが描かれていないから、どこからどこへ向かうのか、そして何が描かれていないか、を知ることができない。2.では彼の前方が描かれており、後方が描かれていないから「後ろから何が来ているのかはわからない」ということがわかる。つまり2の作者は情報を選んで君に渡している。
次に、彼が後ろを振り返ることで表情が見える。この場面に臨場感があるとすればここだ。でもそれは「ただ顔の表情が見えている」というだけのことじゃない。もしここで、背景と顔を別のコマに配して、たとえば顔のアップから、表情なしの走る姿を並べたとしても、2と同じ効果は見込めない。背景と同時に、キャラクターの顔が同時に見えると、おれたちはキャラクターの感情や目的をはっきりと瞬時に知ったような気になれる。出口が見える、背後は見えない、彼は焦っている。同時だ。別々じゃない。同時だ。
信用できない? じゃ、ためしに、前のコマから読み取れる材料を、いくつか抜いた絵を描いてみよう。
3.の絵
彼の向かう先が見えないから、おれたちには彼の行く先がわからない。しかも彼の表情が読み取れず、不安や焦りを共有することができない。とにかくあいまいで、彼がどこにいるのかもよくわからない。閉塞感と、絶望感が画面端へと消えていく天井に現れている。突然このコマだけを見せられたら意味がわからないけど、よくわかる話の中に効果的にこのコマが挟み込まれたら、そのわからなさには「わからない」という意味が出てくるだろう。こうすれば、彼が陥っている状況に更なる不気味さを加えることができるのだ。
ひとコマだけで、これだけのことがわかるのだよ。しかも、さらにすごいことに、マンガを読むことに慣れてしまったおれたちは、こうして「見えない」ことにさえ意味を見いだせるようになってしまった。わかることが前提だ。
*もちろん演出のレベルでは、そのあとに続くコマを工夫するだけで、さまざまな印象を与えることができる。『嘘喰い』の斜め後ろアングルとか、派手なところでいえば『範馬刃牙』の、キャラクターの目が描かれなくなるコマとか。
わかることが前提だ。
普段の生活でぼくたちは「わからない」ことが起こると怖い思いをする。怒りをおぼえるときもある。他人が楽しそうにしているのに、自分だけ事情がわからず楽しくなければ、寂しい気持ちにもなるだろう。でも、でもだよ。
好きなマンガの中で何かがわからないときは、次に何が起こるんだろう?って期待しちゃうでしょう。それはつまり、わかるところとわからないところが、きみにとって気持ち良くわかるように配置されているからなんだ。
大雑把にいえば、面白いマンガのコマは「何が起こっているのかわかるコマ」と「何が次に起こるのか気になる(わからない)コマ」の二種類しかない。
最初に書いた「全てのマンガはギャンブルを描いている」って言葉の裏付けがこれだ。ページをめくるまで、おれたちは次に何を見せられるのかを知らない。ということはつまり、何も起こらないように見えるマンガというのは、ずっと期待させ続けるマンガである、というふうにも言える。結果が早く出るギャンブルもあれば、何週間も待たなきゃいけないギャンブルもあるだろう。ページをめくるごとに興奮させてくれるマンガと、単行本で読むと味わいの深いマンガの違い、みたいなもんだ。
だから、あるマンガがつまらんときは、普遍的なつまらなさを持ったつまらないマンガなのではなくて、だいたいそのギャンブルのルールがどんなものかが、わからないで右往左往している君が「つまらんなあ」と感じているってことなんだ。
大島弓子わからん、と彼は言った
あるとき、友達が「大島弓子わからん」と言うので話を聞いた。彼は「何であんなに過剰なまでに説明するのかが、わからん」と言った。おれとしては「大島弓子=ほったらかし」のイメージがあったので、はじめは何を言っているのかが、ちっともわからなかった。それで、何のことだと訊くと、彼は『綿の国星』を取り出した。
彼の開いたページを読むと、確かに説明が過剰だ、むしろ、説明ゼリフの合間に絵があるほどだ。でも、何度も読んだこのマンガには、このページとは正反対に、まったく何も説明していないコマがあることを、おれは知っている。試しにそのページを開いて見せると、友達は腕を組んで「そうなんだよ、過剰に説明していると思ったら、何の説明もない、だから余計にわからなくって……」と困り果てた顔をしてみせた。
『綿の国星』というマンガを読んでなくておいてけぼりの君には申し訳ないけれども、文庫も出ていることだし、きみが読んでる前提で話を進めるよ。
友達が迷い込んだ迷路には、いくつかのルールが読みとれる。
大きく分けると、主人公である「チビ猫」が誰かといるときは、とにかく過剰なほど説明が入り、チビ猫もアホほど自分の考えを述べる。けれど、しばらくしてチビ猫が一匹になったり、最後のひとコマ(見開き)になると、まったく説明のないシーンが続き、セリフも断片的なものに変じていく。
これはつまり、前段で嫌になる程説明されていた言葉の数々が、後段では「君の頭の中で」答えになっていくような仕組みで情報の密度をコントロールしているというわけなのだ。ぼくの友達は、前段の情報過密状態に惑わされてページの中に明白な「答え」を探してしまった。金田一耕助の映画でなにかと「わかった!」と叫ぶ警部のように、わかりやすい答えに飛びついてしまったというわけなのだ。それが、大島弓子の仕掛けたブラフだとも知らず……
もはや少女マンガ特有の技法でもない、アレについて。
次に、情報の密度をコントロールする手法として、少女マンガの基本的な技法を紹介しよう。同時進行するセリフとポエムである。『はちみつとクローバー』の中でも多用されていたから、普段は少女マンガを読まないひとでもなじみがあるだろうし、最近は青年誌でよく見るようになった技法でもある。
4.の絵
似たような技法はミュージカルでもある。別々の人物が歌っている別の歌が、重なって同じ歌の別パートになっていき、違うメロディが同時に聴こえるというようなやつ。マンガと違うのは、その情報は「声」だけでは済まない、というところだ。
とりあえず説明図には「セリフとポエム」とは描いたけど、これは絵でも代替できる。そうすると、単純計算で三本のマンガが一気に展開することになる。というわけで、この技法を使うと、一ページに込められる情報の量が桁外れにでかくなるため、沢山のマンガ家がこの技法を利用した。
たとえば『ホーリーランド』ではそれが「作者ポエム」ではなくて「作者からのメッセージ」になっているところが古くて新しかった。もともとは白土三平の忍法帳であり、プロレススター列伝でもある「ナレーターからの語りかけ」を、読者に近い目線でありながら既にその場から去っていった先輩格である作者が語る。つまりキャラクターがその場にいたことを示す情報になっているのだ。
『男組』と『テニスの王子様』の最終回が、同じようにこの技法を使っている。前者は『ワルシャワ労働歌』を引用して、後者は作者作詞によるテーマソングの初お披露目をした。どちらもキャラクターの耳に聴こえる音として、作中でその曲が流れているわけではない。読者はその曲をBGMとして脳内で再生することになる。でもやっぱり絵としてはキャラクターがそこにいるし、おれたちにはその音がBGMなのか、キャラクターの脳内で響いている音なのか、判別することができない。
判別する必要もない。それらは全て同時に感じられる現象だ。もし映像で再現されたなら、製作者はどちらかを選ぶことになる。その場に流れる音か、それともBGMなのかを。
大島弓子はこの技法を、ぶったぎってしまった。そして、あらためて並べなおして、マンガにしてしまった。犯人がわかっている探偵小説のようなもので、おれたちは答えをさんざん聞かされたあげく放り出される。路上に、雨の町中に。
それはとても効果的だった。ページをめくるおれたちは、まんまとだまされ、翻弄され、ぼくは賭けに勝ち(楽しみ)、友人は負けた(わからん)。
ここに表出するのは「わからないこと」の問題ではない。
「わかること」の問題だ。お前に何がわかるというのだ。
マンガの中で「説明されること」って結局何なのか。
マンガの感想に個人差があるのは、そのマンガの情報密度が高かろうが低かろうが、読み取る人間の持っている解像度に依存する。それはもう、どうしようもないことだ。解像度が高ければ、情報密度の高い作品から何らかの意味を読み取ることができるし、解像度が低ければ低いで、誤読するが楽しいこともある。
テレビドラマ化されやすいマンガ、というのがあって、第一には特撮の必要がない、ってのがあるんだけど(2019年にとうとう覆されましたね、喜ばしいことです)、その次に大切なのが情報密度の適度な単純さが求められる。単純過ぎれば誤読されることが多くなるから企画会議を通らない、複雑過ぎれば誰にも読めないからそもそも企画の俎上に上がらない。
でも、はっきり言って、テレビドラマや映画なんかにならなくたって、マンガはそれだけでいい。もちろん映像化されたら漫画家もうるおうし、それに越したことはないけど(と当時は書いたが、今ではそれも幻想だったような気がする)。
リアルタイムメディアでは絶対に描けないことを、マンガはやれる。それはきっと文学と絵画がずっとやってきたことだし、やろうとしてできなかったことだ。それはマンガという手段が生まれなければ、きっと誰もその効果に気づかなかった。当時はそれを書くのを躊躇してしまったが、10年経った今なら言える。
マンガは、ほんの100年程度で人間の認知機能の限界値を上げてしまった。間違った使い方をすれば「進化」させてしまったのだと言える。正しく言えば「人間が本来持っていて使う必要のない認知機能を覚醒させた」と言えるだろうか。ぼくたちの視神経は、縦、斜め、横の線、そして曲線しか見えない。その少ない感覚器を使って、人間はもっとさらに向こうの方へと行こうとしている。
改めて、もう一度大好きなマンガを読んでみよう。君が見えていたものがどれだけ膨大な情報量を持っていたのかを確認しながら読むマンガは、ある種の意識拡張ドラッグのように、格別なものだ。最後まで読んでくれてありがとう。はじめに書いた通り、この文章がこれからの君の思考の役に少しでも立てば、幸いだ。
それでは、また。
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