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小泉八雲の生き方に、日本人が忘れていた本当の幸福を知る

小学生の頃には、休みになるとしばしば親戚の家に遊びに行っていました。両親が共働きで留守がちであり、親戚の家には年の近い、いとこがいたということもあったのかもしれません。ですが、親戚の家でする事は、いとこ同士で遊ぶということではなく、本を読む事でした。親戚の家の引き出しには絵本が数冊入っていました。今でも覚えている本は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『耳なし芳一』でした。ご存知のように、耳にお経を書き忘れることで起こる芳一への試練の話は、自分の心の奥底までこびりついて消すことができず、自分が芳一の立場になってしまうかも知れない恐怖に恐れながらも、何度も何度も読み返していました。


耳なし芳一のはなし(小泉八雲記念館)

大雨の中、雨宿りも兼ねて焼津の小泉八雲記念館を訪問したことで、八雲を深く知るきっかけになりました。耳なし芳一の姿の後ろに悪霊のような足のない侍が描かれた展示物を見て、あの物語を書いたのは八雲だったのだとわかり、幼い頃に読み返していたことを、ふと思い出しました。


八雲が書いたカタカナの手紙(小泉八雲記念館)

ジャーナリストであった八雲は明治期の1890年に来日し、松江で英語教師をしていましたが、セツと結婚して日本に帰化しました。八雲とは、最初に滞在した出雲で、古事記や神話に触れることで考えられた名前であると思われます。記念館には、小泉八雲から妻のセツへの手紙も展示されており、八雲が妻のセツに英語を教え、セツが八雲に日本語を、お互いに教えあっていたということでした。

焼津駅前の足湯の横にあった小泉八雲の記念碑で、文章の表現の豊かさを学べる

八雲は、夏になると焼津の乙吉の家(この家は現在は明治村に移設してあります)に滞在して、夏の風物を楽しんでいました。毎日歩いてすぐの海岸まで泳ぎに行ったそうです。その中でも乙吉とのだるまに関するエピソードが面白い。左目の不自由な八雲は、なぜダルマの片目が描かれていないのか、乙吉に質問します。

乙吉のだるま(小泉八雲記念館)

「日本の将来には、自然との共生とシンプルライフの維持が必要だ」

「極東の将来」という熊本での講演(1894年)

と、八雲は説きました。自らは子供の頃に左目を失明したため、写真や肖像画は右側だけが残されています。自分の力だけではどうにもならないような自然の力への畏怖と、自然に抗わない姿勢が、彼が選んだ生き方でした。この考えが、後に『怪談』や『知られざる日本の面影』への著書につながっていきます。
また

「日本人は幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている」

『知られざる日本の面影』より

とも言っています。その理由として、

「人生の喜びは周囲の人たちの幸福にかかっており、無私と忍耐を培う必要がある」

『知られざる日本の面影』より

と書いています。八雲は、欧米の個人主義的な宗教観や幸福感とは違うものを日本で発見したように思います。日本人の個人の人生の喜びは、周りの人の幸福感に支えられてこそ成立していることを理解していました。今でいう、利他の心ということなのかもしれません。八雲は日本人自身が忘れていた日本の良さを、130年も前に指摘してくれていたのです。

2025年のNHKの朝の連ドラでは、小泉セツが主人公のドラマになるとのこと。八雲が日本において大きな文化的な影響を与えたと同時に、セツがどのように八雲を支え、そして生きたのかを見てみたい。

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