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原稿その3:コンヴィヴィアルと民藝

 今日求められているのは、世界中どこでも誰でも同じに安価で作れるような個々の素材の差異を濃い味でまとめる(覆い隠す)料理です。料理家の土井善晴さんは、そのような料理を「ソースの料理」と言います。これは西洋的料理です。日本にはソースで味を整える料理が少なく、「出汁」で整える料理が大半です。この差は非常に大きいです。ソースの料理は、どんな素材でも、どんなプロセスでも、最後のソースをかけることで全体をまとめます。それは、質のいい食材が手に入りにくい大陸に適して発展した料理ですが、最後に味を整えるという方法は、社会問題を解決する際のプロセスにも現れているように思います。

ソース料理は、日本的な意味でのまとまりではありません。もちろん素晴らしいソース料理はたくさんありますが、誤魔化しやすいことは事実です。それに対して、和食の「出汁」は誤魔化しが難しい料理です。和食は素材の味を複雑に足し合わせることで全体のまとまりを作ります。ここに民藝とも通づる点を見出すことが出来ます。和食はダイバーシティ・多様性の料理です。

和食は調和・民藝も調和です。アクがあるものや、臭みをソースで消すのではなく、その味の特徴を生かすのが和食としたら、柳の人に対する誠意な姿勢とも重なります。柳は異物を追い出すのではなく、異質な存在との共生を目指したのではないでしょうか?僕は民藝からそのようにおおらかな気配を感じます。

二日間、落合さんと行動を共にさせていただいて強く感じたのは、トラブルと正面から向き合い、諦めず最適化を探求する落合さんの、研究姿勢「普通の真面目さ」でした。落合さんは、細かな指示を与えることで、周囲の環境を整えることに全然注力しません。その場その場のアンコントロールな状況「自分の外側の環境」を整えるのではなく、自らが心身的に適応することで、柔軟に問題を解決していきました。その様子は、見えないリズムに乗って揺れているようで、身体の波動や揺れに素直に従うことで、倍音を響かせるようなダイナミックな動きだと感じました。

そんな落合さんを囲んで、不思議と指示はないのに皆が自然と手伝ったり、作業がしやすいように配慮して周囲が動いてしまう様子は、僕が普段生活している集落でのお祭りの準備を彷彿とさせました。出来る人は各自バラバラに作業を始め、分からない人は補助に回る。精密な計画や人事配置のような計画は不在で、コンヴィヴィアル=自律共生的に、皆が主体的に関わります。強いリーダーは不在ですが、祭りの時は「神事」という中心があり、今回の場合には「落合陽一」という中心は存在します。それゆえに生まれる一体感は、作る物ではなく、育むもの、広く言えば至る物だと感じました。これは 先ほどあげた和食の味付けの話とも通じます。複雑なものが整っているのはコンヴィヴィアル的です。鰻も鮎もコンヴィヴィアルですね。

 イリイチの提唱したコンヴィヴィアル=自律共生には、複数の意味合いが含まれますが、上記の祭りのような「一丸となってバラバラに生きる」という姿勢が、結果的に多様性を容認し、良い結果をやがて産むという感覚です。異なったそれぞれが導き出したそれぞれの最適解が、同じ問題を有している誰かの最適解として広がっていく。そのような現象は、集落の祭りのように小さな集団でも起こっていますし、インターネット上のメタバースの世界でも生まれています。 

ここで問題になるのが「中心」の存在です。中心としてそこにいるけれど、明確な指示を出す訳ではないという状況は、設計的な考え方が身についた僕らには困難なことかもしれません。先の柳の人間性の話と同じように、不干渉というのは信じていあっている関係性の中では好意的に働きますが、コミュニケーションが不在であれば無視と同じ働きをしてしまいます。

「一丸となってバラバラ」の、中心には、一丸となるべき指標が求められます。しかし、この指標が流動的なのが昨今の日本です。そのため、流動的な指標ではなく、ガチガチの目標設定が組まれますが、それはもっとも消費的な行動を促す余韻になってしまうのです。「決められたことだけをやっていればいい」という「自由」を、社会的に実装したのが社会主義でしたが、結果はソビエトの末路を見れば明らかです。これだけをやればいい、というノルマが設定されると人は、そノルマをいかに効率的に達成するかを考え始めます。つまり手を抜きます。こうしてソビエトでは、世界一重いシャンデリアやエンジンが生み出されたわけですが、個々に責任意識はありません。あくまで個人に割り振られたノルマをこなしただけだからです。

同じ構図はナチスの虐殺の際にも見られます。ボタンを押すことを科せられた職員は、そのボタンがどのような意味を持つかを知らされませんでした。ユダヤ人を告発する市民に、その行為の意味は伝えられませんでした。人が機械的に分割された作業をこなしていくリレーの先に、大虐殺は推し進めららえました。そう考えると、大きな目的を設けることも、個々に最適化された指示を出すことも良い結果を生むとは考えられなくなります。一丸となる性質を保ちつつ、個々が不干渉にならないでいるためのヒントは多くありますが、そのひとつが「時間をかけることに価値を与えることです」

その4「研究心が求められる時代」に続く。

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