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原稿その4:研究心が求められる時代

 落合さんは以前、民藝の魅力について、「盲目的にやりつつげることが美しさを産むという解釈がいい」と言うことを語られていたのですが、まさにそれが、今なぜ民藝なのか?という問いの意味に繋がります。現代はシェアエコノミーで共感経済で脱成長で持続可能な時代です。ですが、誰もが最初から自分にとっての「最適」な答えを持てるわけではありません、研究とは常に失敗の積み重ねから最適化を目指しますが、僕らの日常は失敗を許さない「効率的」な毎日です。

持続可能とは、同じことを永遠と続けるという意味ではありませんし、強い目標の元に数字を競う社会でもありません。その本質は、どんな問題が起こっても「最適な状態」に戻すことのできる調整力、あるいは変化する波に適合することで、より良いグルーブを生み出す適応力です。それは、個々の相互作用=インタラクティブを最大限に活かして、トライアンドエラーの質を高めていくという考え方です。

繰り返しになりますが、それは万人に底通する答えを元に「規格化」することで、全体を平均的にすることを「平等」と呼んできた近代の消費の原理に反する考えです。大きな答えや目標のない時代、それぞれが答えや目標を持つことが求められる時代において、何を支えにしたらいいのか?コンヴィヴィウムや民藝の在り方は、それに対する柔軟な答えを有しています。 

 努力は認められる。と言うのは、現代の原罪のひとつです。それは妄想と勘違いです。他者の努力は定数化してスコア化しなければ比べることは出来ません。「努力はやがて報われる」は真実ですが、現代の考えでは努力はすぐに報われるというコスパ重視に利己的な利他行動が当然のことになっています。その結果として、2~3年でそれなりの成果が出ることは評価され、10年後に大きな成果を産む可能性がある物事は、軽んじられています。しかし、本来それは、それはどちらも必要なことのはずです。

考えながらトライアンドエラーを繰り返す。これは、研究というマインドを理解している人には当然のことではありますが、多くの普通の人は研究心を持ちません。なぜなら社会が求めるのは、研究心ではなく、すぐに成果の出る行動や効率化、あるいは盲目に指示に従う人物だからです。

実験のように成果が出るまでの時間軸が長い物事は、結果も小出しになるので、社会的に評価され難いです。そこで大切なのが「盲目的にやりつつげることが、やがて美しさに至る」と言う民藝という思想です。美しさは、作るものではなく、育てるもの、もっと言えば至るものです。貧しくても、無学であっても、使い続けられることで、やがて美しく至るということを柳は、古びた道具から見出しました。そして、やがて美しくなるのだから不安しなくてもいいと言いました。これを信じられるとトライアンドエラーは格段に楽になります。目先の結果に囚われなくていいからです。 

 なんでそんなことが求められるのか?盲目的にいつか至る美しさや幸福なんかなくても、自分は会社や社会の中でやりがいも意味もある。と感じている人は多いです。機械のように振る舞い、就労時間をやり過ごせば、生活費を稼ぐことが出来ます。それが出来てしまうが故に、消費的人間は、無意識のうちに自らも消費材として社会に組み込まれます。もちろん、それは悪いことばかりでがありません。僕らの日常を支えているのはそのようなホワイトラーの労働力です。

しかし、これからはテクノロジーがその分野を担うことになります。レジや品出しは自動でも構いません、車の運転は自動運転で構わないはずです。人間は機械を最適化、微調整をするための役割を担うことになります。しかし、そこにこれまでと同じようなやりがいや生きている実感はあるのでしょうか?これまでとは違う幸福感が求められるのではないでしょうか?そこで民藝本来の意味が立ち現れてきます。

その5「馬もそろばんもいらない」に続く。

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