見出し画像

原稿その5・馬もそろばんもなくならない。

 さて、ここでテクノロジーが人間を単純労働から解放すると同時に、機械に合わせた新たな単純労働を生み出した「産業革命」の時代に唱えられた民藝の意味が見えてきます。これまでの社会との関わり方が一変し、多くの人々が誇りや自信を失い大衆が均一化したのが産業革命以後の近代です。そして、我々はテクノロジーが発展し、「これまでの社会との関わり方が一変し、多くの人々が誇りや自信を失う」という、19世紀前半とは異なるようで同室の新たな変化の渦中にいます。 

自動化でなくなる職種は多いでしょう。数字を扱う仕事はPCに変わります。しかし人を補助するテクノロジー(落合さんはこの分野の研究者としても有名です)によって、肉体的苦痛から解放されるという利点もあります。馬か車へ変わることで人の利便性は劇的に変わりました。旧街道には宿場町がたくさんありますが、燃料を補給すればほぼ休まず走る車と異なり、当時の移動手段は馬か徒歩、どちらも生き物です。当然、移動時間は現代より遅く、移動距離も短い、車中泊や野宿が今のように安全なはずもありません。野党やオオカミや野犬がいて街灯もない時代の移動の大変さを多くの現代人は肉体的には理解できません。 

テクノロジーは人間から仕事を奪うというディストピアを想像する人は少なありませんが、人は便利さだけでは生きられません。命には喜びや悲しみや葛藤といった情動的な感情が必須です。もし仮に、人間がその時代時代のテクノロジーに全て乗り換えるとしたら、なぜ新幹線があるのに乗馬やレトロカーが今も存在するのでしょう?なぜTVやネットがあるのに、寄席や舞台が存在するのでしょう?なぜ全てがレトルトや冷食になっていないのでしょう??自転車やバイクや車があるのになぜ人は走るのでしょう?それは、そこに喜びや情動があるからです。 

ちょっと想像してみてください。ある日出社したら上司からこう言われました。 

「明日からはこの機械が君の代わりに働くから、君は出社して仕事をしなくていいよ。好きなことをして好きな人と好きな場所で暮らしてください。ウェルビーイングに暮らして、創造的なモチベーションを育てることで、機械には不可能な領域を開発して社に貢献してください。」 

突然そんなこと言われたら、多くの人は戸惑うでしょう。社会的承認を軸に自分の価値を外からの評価に頼ってきた近代人には苦しいことです。「やってる感」の大切さに、コロナ禍で気が付いた人が多いと思います。仕事の意味を家族に理解してもらうには、いかに「疲れた」かをアピールする他ありません。満員電車が快適であっては困るのです。苦しむことが評価につながっているからこそ、人は嫌な仕事を続けられるというのは皮肉なことですが、楽な仕事は実は続けるのが困難です。単純作業も同様ですね。人は大きなリターンと適度なストレスのない環境では飽きてしまうのです。

しかし、24時間働けます!徹夜で頑張ります!無理やり商品を売り成績を上げます!なんて働き方が褒められたのは、90年代の話です。地球環境や弱者に負荷をかけてまで経済的を成長させることを世界は「一応」望んでいません。持続可能な成長とは、今日と同じ幸せが明日も続いていくことです。変わらないという日常は退屈で不満です。「時間をかけて育つ幸福の実感と、募る不安とどう付き合っていくのか」がこれからの問題です。まさにウェルビーイングですね。  

さて、そのような性質の生き方が現時点で存在しているのか考えてみましょう・・・実はあります。それは「育児」子育てです。

意味や、やり甲斐は確かに感じられているけれど、繰り返しの毎日に意味を見失い苦しくなる。自分たちにしかわからない家族の複雑な関係性を理解してない他人から口出しされて怒りや悲しみが湧いてくる・・・似たような経験が、皆さん少なからずされたことがあるかと思います。なぜ育児が低く見られているのか?みなさんもうお気づきですよね。2~3年でそれなりの成果が出ることが評価され、10年後の成果を大きな産む物事が、軽んじられているからです。 

その6「器物と人物」に続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?