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原稿その2:時代の変化が生んだ民藝

 柳の目指した民藝は、すでに「当たり前」の存在になりました。カレーと聞いて皆が同じ料理を想像できるようにです。今日、僕らは、好きなものを選び、好きな場所で暮らしてます。その根底には、それぞれが自由にものを選んでも構わない、自由に生きても構わないという生き方が認められる社会の「基礎」を築いた先人たちがいます。柳もその一人です。

今日、僕らが当たり前に享受している自由な社会は、それ以前の社会からしたら目指すべき世界でした。なぜ、当時それが求められたのか、それは、産業革命の余波を受けた当時の日本人が「新しい生き方」を受け入れるための救いを探していたからです。合理的な発想だけでは抜け落ちしてしまう情動の部分を、民藝の規範の中に広く言えば仏教の教えの中に多くの人が求めました。民藝運動と同時代に浄土真宗の開祖「親鸞」がブームになりました。悪人正機はやがて戦争を肯定する論として利用されていきます。このことを考える時、アフガン戦争時にジハードが聖戦と結びついたことを思います。日本でも明治から昭和にかけて、多くの新宗教・新興宗教が生まれました。

最も有名なのは大本教です。出口なおの神がかりを契機に誕生した大本教は、当時爆発的に広がりを見せており、軍部にまで影響を与え、大きな弾圧を受けるに至りました。そして、多くの派生宗派を生み出しました。有名なところで、創価学会・幸福の科学・世界救出教などは、大本教からの派生です。なぜそれらが生まれたのかと言えば、多くの庶民が救いや生きる規範を求めたからです。

明治から昭和にかけて、大きな戦争や近代化による格差の拡大によって、庶民の生活は苦しいものでした。西洋的自我の考えが入り込んだこと、重工業の発展で、豊かさが広がったことで、格差は地方に暮らしていた庶民にすら認識ができるものへと変化しました。知らなければ羨むこともありませんが、知ってしまえば欲しくなるのが人間です。

日本の近代的発展の裏には、数多の貧しい庶民の犠牲がありました。国土を拡大していたこの時代に、多くの日本人が甘言に誘われて開拓民として世界を目指しました。その様子は、少し前の中国のイメージと重なります。土壌を汚染し、公害で多くの人命を奪い、世界にチャイナタウンを作り、実質的植民地を増やす。厳密には異なりますが、大枠で考えた時に、その在り方は、近代の日本が行っていたことと同じ空気を感じます。

そのような時代に、民藝もまた庶民の生活の安心を支えるひとつの規範として機能しました。ただし、民藝の場合は、庶民向けというよりは上流階級に向いていた点を考えないといけません。ノブレスオブリージュという言葉があります。特権を持つものは庶民を支える義務があるという考え方です。民藝は、豊かな人々の意識変革を持って、庶民の当たり前の生活を守ろうとした運動の側面があります。柳は、貧しくも美しい物を保護することで、それを作る人や環境も保護しようと考えました。ここは重要なところです。

柳はあくまで「物」の価値を正当な位置に引き上げることで、自律的な意味での貧しさからの脱却をさせたいと考えたと、僕は考えています。つまりは、お金を与えたり、豊かな環境を作り与えるのではなく、貧しさを貧しさのまま、貧しさと考えない世界を作りたいと考えたのだと思います。「あなたたちの営みは貧しくなどない、そのままで美しいのだからそのまま誇りを持って欲しい」そのような訴えであったと思います。

しかし、当然、豊かさを知った庶民は貧しさからの脱却を目指しました。民藝運動は、その意味で、地方にお金を稼ぐ方法を伝えました。自分たちが普段使っている道具や、暮らしぶりが都会でニーズがあり、高値で売れることを教えてしまいした。世界の未開拓部族がそうであるように、お金を稼ぐ方法を知った人々は、それに群がります。その歪みは、生活の中で使われていた伝統的製品が、チープな土産品に堕ちることへとつながりました。「民藝品」が、単なるお土産品となっていった背景にはそのような歪みがあります。

おそらく柳は、人にあまり興味を持たない人物であったと僕は理解しています。いえ、ここは誤解を招くので正確に言わせてください。柳は、人の可能性を誰よりも信じていたのだと思います。民藝運動以前の柳が属していたのは白樺派です。白樺派は自由と人間の内なる可能性を信じました。ある意味で独善的ではありますが、信じるが故に、彼らは「友愛」を大切にしました。それは、友がどのような過ちを犯しても見捨てないという覚悟です。友が過った道に進まないように導くのではなく、個々人がお互いを思い合うが故に、自由を容認し、その結果には全体が責任を負うという考えが根底にあったのではないかと僕は考えています。あくまで個人的な考えですが、この自由を認め、結果には責任を負うというのは、今日「多様性」と呼ばれている環境に近しいと思います。

柳は冷徹な人物ではなく、深い人間愛故に他者に対して不干渉だったのだと思います。来るもの拒まず去る者は追わず、ただ目の前の問題について考え続けた真摯な人物であったと思います。しかし、当然、そのような生き方は誤解を生みます。それでも柳は終生その考えを貫いたように思います。柳は物を酷評しましたが、人の悪口をいうことは極めて少ない人物でした。伝えられてエピソードに中にも、他者を気遣う姿と、権力者に屈せずはっきりと物を言う姿が残されています。美を理解しない役人や作家には厳しい言葉を投げかけましたが、それは、自分の考えを理解しないことへの怒りではなく、物の内側に宿る人間性を蔑ろにする人々への怒りでした。柳が民藝への理解に関して他者に怒っていることは多くありません。その批評の矛先は常に自分の近しい人、民藝の内側を向いていました。ここに厳しい修験者のような姿勢を感じることが出来ます。

話を戻します。現代に求められるのは、貧しい時代に夢見た豊かさ=万人にうける誰でも再現可能な料理=マクドナルドやコカコーラが食べられる環境ではないように思います。むしろ、それはもう達成されています。僕らは「大衆的な味=フランチャイズで安価な即席料理」という考えを持っています。しかし、柳の生きた時代の「大衆的な味」は、むしろ、現代の地域や個々の特性を生かして作られる「ローカルフード」あるいは「家庭の味」でした。このズレは、民藝を考える上で重要な違いだと僕は考えています。

これは、生まれた時から資本主義に育てられた豊かな僕らが見失っていることなのではないでしょうか?そして同時に柳の目指したことの困難さを表すことでもあります。現代人の僕らに当然のことですが、消費は均一で安定的な供給とセットのものです。それは、大量の廃棄という名の在庫を抱えることを求め、個別の好みとは無関係の普通さを強要します。大衆という存在の性質について考えた時、柳の時代の大衆は、消費に毒された富裕層とは異なる階層の貧しくとも美しい人々でした。しかし、今日の大衆は、柳が嫌った消費に毒された富裕層そのものです。僕らは等しく豊かになったことで、消費的なブルジョワへとなってしまいました。その意味で、柳が民藝で目指した美しいものを多く大衆が日常使いする世界は、未達成であると言えます。

柳が夢見た世界は、仏教の華厳世界のような「それぞれの多様性のうちに、異なった人々が共生する世界」でした。今日のように均一化されたロールモデルを批判も肯定もせず当たり前のものとしてただ生きる大衆では決してありません。柳は貧しさを無くそうとしたのではありません。貧しいままでも貧しいと感じない心豊かな多様性を目指しました。そう考えると、柳が晩年、妙高人に惹かれたのも納得がいきます。

その3「コンヴィヴィアルと民藝」に続く

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