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◎吉良邸の怪

 冬の日差しが障子を明るく照らし、梢の影を濃く映している。老人ばかりの静かな室内は思いの外暖かだ。内蔵助は書物に目を遣ってはいるものの、文字を追ってはいない。前年暮れに亡君の遺恨を晴らした後ここ細川家に預かりとなったままひと月となるのに、幕閣はいたずらに評定を繰り返すのみで未だ沙汰がない。もとより切腹は覚悟のうえの吉良邸討ち入りで、本懐を遂げ得たことに悔いのあろうはずもなかったが、公儀の沙汰を待つ間に細川家の用人を通して伝え聞くのは、不本意にも殺傷した敵方の四十人を越える人数の多さや、行を共にしなかった旧藩の同僚が居たたまれず行方知れずとなった話や、市中の町人の間にも仇討ちが流行っている話とか、内蔵助の心にいくばくかの陰りをもたらすものも少なくなかった。
 人が入って来て、内蔵助は書見台から目を上げた。下の間から戻って来た矢田五郎右衛門である。細川預かり組の中では若手である。
「足跡の謎のことですが」
 言いながら真っすぐ内蔵助のところに近づいて来る。
「主税殿からの伝言です」
 内蔵助の息子大石主税はこのとき十六才、松平家に預かりの身となっていた。
 あの夜の出来事はつれづれに思い出す。前日、江戸には珍しいほどの積雪があった。探索で上野介の在宅は確信していたものの、踏み入ってすぐには少将を探しあぐねていた。そのとき内蔵助は原惣右衛門から庭の方へと呼ばれたのである。直前に騒ぎのある旨隣家に断りを入れておいたため、吉良家の庭はその家から急遽塀の上に差し出された高張提灯の光で明るかった。そしてその明りは雪の上にくっきりと人の足跡を照らしていたのである。
「居るはずの吉良殿が宙に消えたかのように見つからない。もしかしてこれが…」
 皺を一段と深くして惣右衛門が指さす足跡は不思議なことに庭の中程三間ばかり先で突然消えていた。空に架けられた綱などないことは明らかで、内蔵助は振り返って屋敷を見上げたが屋根の雪に何の乱れもない。そのとき裏の方から「居たぞ!」の声と、続いて呼子の音がしたのだった。
 この足跡の件は後に内蔵助も考えることがあり、惣右衛門が人に語ることもあったが、今まで謎解きはなされないままであった。
 主税の見立ては、ある人物が雪の上を途中まで歩き、同じ足跡を後ろ向きに踏んで戻ったというもので、誰もが考えることと同じであった。要点はむしろその動機にあった。
 吉良家も我らの身辺に細作を多く放っていた。その中にあの夜の討ち入りを事前に察知した者がいたのではなかろうか。その者が討ち入り直前に足跡の細工をしたのだ。我らに見せるために。討ち入りの日時は事前に知っている、けれどあえて吉良殿を逃がそうとはしない。そうすることで、この義挙を是とする者が吉良方にもいたことを伝えたかったのだ。あの夜我らがそれを見ると知っていて、それがあの雪に記した符丁となったのだ。そうでなければ、あの夜更けにわざわざあのような真似はすまい。
「それに相異ない」
 五郎右衛門が語るのを片隅でじっと聞いていた惣右衛門が声を上げた。
「これでいよいよ思い残す事もない」
 内蔵助が見ると部屋の中の他の者たちも皆こちらを見てにこやかに頷いている。解釈にいささか強引さを感じつつも
「さもあらん」
  小さく呟きながら内蔵助はこのところの心の憂さが晴れて行くのを感じていた。

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