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◎月で転んで


 バギーに対する過信もあったし、土質を見誤った不覚もあった。クレーターの縁を斜めに登って行く途中で事故は起きた。ズズッと車体が滑って落ちかけたとき、反射的に光一はハンドルを右に切ってアクセルを踏み込んだ。それで右側の車輪がかえって砂を巻き上げ車体が深く嵌まりこんでそのまま横転したのだった。宇宙服を着た光一が跳び出せたのは、重力が地球の6分の1しかない月面で、横転が緩慢な動きだったからに他ならない。アンテナが折れ、通信は不可能となった。光一は予備のバッテリーと酸素ボンベを引き出すと中空に地球を探した。いつ見てもほとんどその位置を変えることのない地球が、コンパスの効かない月面で確かな方角を教えてくれる。ただ、このときは日の出から7日目、太陽は中天にあって地球を真裏から照らし、地球はペンで描いたような細い一本の円弧でしかない。代わりに明るい太陽そのものが目印となった。6分の1でもスペース・スーツを含め全部で30キロ近い重さを身につけて、光一は基地へと向かって歩き始めた。それは歩くというよりも、月面特有の跳ねる動作に近い。
《これでクビだな。地球に帰れるかもしれない》
 光一はかえってホッとしたような気分でいた。人間嫌いになって、自ら応募してここまで来たものの、もう4カ月になる。契約はあと4カ月あるけれど、最近月でも地球の放送が見られるようになって、すっかりホームシックになっていたのだ。
《2時間で通信が届くところまで戻れるだろう。それなら酸素も足りるし、今日あたり地表は100℃を超えてるだろうが冷却ユニットは予備電源で十分まかなえる》
 そうはいかなかった。光一は普段の3倍の重さを運んでいたのだ。足取りが急に重くなった。呼吸が激しくなり体温が上昇した。めまいがして、スーツの中に吐きそうになった。休みながら進むうち、距離は稼げず時間だけが過ぎて行った。
 何度目かの休憩のとき突然、人間嫌いになるきっかけとなった事件の記憶がよみがえった。
《俺が悪かったのかもしれない》
 努めて何も考えないようにしてきた4カ月だった。それが今、地球にいたころは思い出すたびいつもあれほど苦々しかった出来事に対し、不思議と素直になれた。
《あれがあいつなりの精一杯の表現だったんだ。俺はそんなことすら見えていなかった。もう一度会ってあいつと話すことができるだろうか》
 真上に見えていた太陽が暗くなった。意識が遠のいた。

 ベッドに寝かされていた。「気づいたか」と言う声がした。「大丈夫だ。心配いらん。応答がないんで迎えに出たんだ。間に合って良かったよ」
「ありがとう」本当に久し振りに口にした言葉だった。頑なに拒んだこの言葉をこんなにすんなりと出せるなんて思わなかった。
《人間って良いな》
 ちょうど日本の放送が入ってくる時間だった。「では富士山五合目からの映像をお楽しみ下さい」女性アナウンサーの美しい声がした。振り向くと壁のスクリーン一杯に望遠で捕えた月が映し出されていた。「今夜は中秋の名月です。昔はうさぎが餅つきをしていると言ったそうですが……」
《月ってこんなにきれいだったんだ》
 何故か涙が滲み出て画像がぼやけた。

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