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◎春子のチョコレート

 二月に入った。店頭に華やかにチョコレートが飾られて「ねえ、どうする?」と言う会話が聞かれる。和彦が進学で町を離れることが決まったのは三日前のことだ。これが最後のチャンス、そう思うと春子は急に落ち着かなくなった。
 春子はすべてにおいて不器用だ。「私には取り柄がない」そう思うとなおのこと消極的になる。他の何物にも代え難い優しい心根のあることを春子は自覚していなかった。しっかり者で、昔ソフトボールで活躍した母親の咲恵は、芸術家の父親に似ておとなしく口数も少ない娘をじれったく見詰めるだけだった。
 心が揺れた。揺れが大きくなってついに傾いたとき、春子は店に飛び込んだ。並んだチョコレート全部を時間をかけてじっくり見て回って、結局小さなかたまりを買った。「きっと今回きりだ。オリジナルを作ろう」
 その夜、融かしたチョコレートにアーモンドを入れ、慎重に型を取って冷蔵庫に入れた。
「誰に渡すの?」
 分かっていながら咲恵があえて聞いてきた。もちろん春子は答えない。
 出来栄えに自信はあったけれど、和彦に渡す場面をあれこれ想像して春子はその夜なかなか寝つけなかった。
 14日は長い長い一日だった。休み時間はあっと言う間に過ぎ去ったけど、授業はどれもかつてないほど長かった。その一日が過ぎたとき、結局渡せなかったチョコレートが手元に残った。包みを破ってはみたものの、とても食べる気にもならず、この夜も春子は遅くまで眠れなかった。
 それから三日目の朝、登校した春子の机の中に小さな包みがあった。
「これは多分受け取らない方が良いでしょう」和彦の短いメモが添えてある。
「えっ。誰か他の人と間違えたんだ。私は渡してないもの」
 幾分愉快な気持ちでそっと包みを開けると中には「春子より」と書かれた小さなカードがあった。呆然と見詰めていてやがてハッと気がついた。咲恵の字だったのだ。
 じわっと涙がにじんで何も見えなくなった。
 鳴り出した始業のチャイムも春子の耳には届かない。


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