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第一章『呪いの遊び』

■■■

ピピピピピッ

「…ッ!」

 耳元でスマホのアラームが鳴り響いたことで、須藤梓沙すどうあずさは夢から目覚めた。

「はっ、はっ…」

 自室の天井を見つめたまま、口から乱れた呼吸を繰り返す。手のひらを当てた額には汗をかいていた。

(嫌な夢だ…)

 夢でありながらリアルな痛みを思い出し、梓沙は青ざめた顔のまま、スマホのアラームを何とか止めるが、身体を丸めて横になったまますぐにベッドからは抜け出せなかった。

腹を突き破って出てくる赤ん坊。

 グロいホラー映画のワンシーンにありそうな夢だ。けど、過去にそんなホラー映画を見た記憶はない。

 それに何より、男の自分が出産の夢を見ること自体がおかしい。夢ならなんでもありなのかとは思うけれど、何か良くないことが起こる警告のようにも思えてしまう。

 そのままじっとして数分後。気分もだいぶ落ち着いてきた梓沙は、のろのろと起き上がりベッドから抜け出す。

 全身鏡でネクタイを結びながら新しい学校の制服に着替え、肩まで伸びた暗めの茶髪を後ろで一纏めに結ぶ。身支度を整えると、スクールバッグとスマホを手にして部屋を出た。




「おはよう、梓沙ちゃん」

 リビングに入ると、キッチンに立っていた母親の須藤あゆみが振り返り、目尻にシワを浮かべた穏やかな笑みを浮かべる。

「おはよう、母さん」

「今朝は随分とゆっくりだったわね。ほら、遅刻しないように急いで食べてね」

 梓沙は椅子に座り、テーブルの上に並べられた和風のメニューを見下ろす。味噌汁と卵焼きと焼き鮭に、白米と漬物。美味しそうな匂い。でも、食欲は湧かない。
 母親が椅子に座る。向かい合って、二人一緒に手を合わせた。

「いただきます」

「…いただきます」

 梓沙は味噌汁を一口飲む。

 梓沙は母子家庭だ。梓沙が十歳の時に、今は東京にいる父親、中城信宏《なかじょうのぶひろ》と母親の離婚が決まった。
 父親と二人で公園に行ってサッカーのパス練習をしている時に、父親の口から「父さん、母さんと別れるんだ。今後、梓沙は母さんと二人で暮らすんだぞ」と寂しい声で聞かされたのを覚えている。

 離婚後、梓沙は高一の冬まで東京で暮らしていた。だが、母親がうつ病を発症。症状が更に重くなる前に環境を変えた方がいいと判断した母親は、母親の地元である四国の高知県に戻ることを決め、転職先が決まると同時に慌ただしく引っ越しをした。

 梓沙が高知市内の高校に通い始めて、早くも一ヶ月が経過している。
 梓沙は、引っ越しをすると母親から聞かされた時、特に反対もしなかった。諦めに似た無気力感の方が大きかった。そして何よりも、今後うつ病の母親を自分が一生支えていかなければならないことが、彼の大きな不安とストレスになっていた。


「ねぇ梓沙ちゃん。もう一ヶ月経ったけど、新しい学校はどう?友達はできた?」

 食事に手をつけ始めてすぐ、母親が口を開いた。最近は、口を開くとすぐこれだった。

「…普通に、楽しいよ」

 母親とは目を合わせず、梓沙は焼き鮭に箸をつけながらぼそりと答えた。
 学校が楽しいとは、前の学校でも思ったことはない。友達は数人いたけど、今の学校ではまだ友達と呼べる様な奴はいない。

「新しい学校で、梓沙ちゃんが上手く周りと馴染めるかお母さん心配なのよ。ねぇ、せっかくだし部活を始めてみたら?前の学校では帰宅部だったけど、部活動がきっかけでたくさんお友達ができるかもしれないじゃない?」

 にこにこ。
 視界にその顔を映さなくても、母親が笑っているのが伝わってくる。その圧がひどく不快で、息苦しい。

「手芸部なんてどうかしら。吹奏楽部もいいわね。ねぇ梓沙ちゃん、興味がある部活はないの?」

「……サッカー、なら」

 最後に父親としたサッカーのパス練習を思い出し、梓沙の口は無意識に呟いていた。口にしてしまってから、後悔する。
 顔を上げると、目の前にある母親の顔からは笑顔が消え、そこに表情はなくなっていた。

「駄目よ…そんな男の子がする部活なんて。ね、手芸部はどう?梓沙ちゃん、手が器用でしょう。きっと楽しいと思うわよ」

「っ、母さん」

「なあに?」

 力強さのある声を上げた梓沙に向かって、母親は穏やかな口調と笑みを浮かべ、小首を傾げる。

 落ち着け。落ち着け。
 梓沙は自身に言い聞かせる。いつも、苛立ちの感情をそうやって押さえ込む。

「…俺、手芸部には興味ないよ。それに俺、男だから。そろそろちゃん付けで呼ぶのも、やめてほしい」

「あら、どうして?梓沙ちゃんが小さくてかわいい頃から、お母さんずーっとそう呼んでるじゃない。今更気にするようなことなの?」

「俺、もう高ニだよ。身長だって一八十センチ近くある。かわいい見た目でもない。母さんが思ってるほど、子供じゃないんだよ」

「………変なこと言うのね、梓沙ちゃん」

 カッと頭に血が上り、母親を睨みつけた。

「変なのは…ッ!、…」

(–––どっちだよ…)

 その言葉を呑み込んだ。
 母親が、泣きたそうな顔をして自分を見つめている。

 何を言っても無駄なのだ。
 この母親は、とうの昔におかしくなっている。

「–––…、ごちそうさま」

 箸を置き、テーブルに手をついて梓沙は立ち上がった。

「まだ残ってるじゃない。朝ご飯はきちんと食べなきゃ駄目よ。ねぇ梓沙ちゃん、待って」

 母親の声を無視して、スクールバッグを持って玄関に向かった。


 靴を履いていると、背後から母親の声がした。

「待って梓沙ちゃん。はい、お弁当」

「……」

 梓沙は振り返り、母親に視線を向けることなく差し出されたお弁当箱を受け取る。

「お母さん、今夜も残業で遅くなるから。先に夕飯食べて、夜更かしせずに寝るのよ」

「……わかった」

「行ってらっしゃい」

 お弁当箱をスクールバッグに入れ、玄関のドアを開けて外に出ると、五月の穏やかな風と少し肌寒い空気が顔を撫でた。

「……行ってきます」

 背中を向けたまま、後ろ手にドアを閉めた。


■■■

 教室に入った瞬間、クラスメイトの視線が梓沙に向けられた。梓沙はそれを軽く無視して、窓際の自分の席に座る。
 一ヶ月経過しても、梓沙はクラスメイトに遠巻きにされていた。東京モノがそんなに珍しいのだろうか。

「…っ」

 スクールバッグを机の横にかけたその時、後ろに結んである髪を誰かがそっと掴んだ。その拍子に指先がうなじに触れて、ぞわっと鳥肌が立つ。

 うなじをおさえて振り返り、相手を睨む。
後ろの席の叶光一かのうこういちが、驚いた顔で目をパチクリさせた。その反応を見て、驚くのはこっちだろうと内心で思った。

「おはよう、梓沙」

 光一は満面の笑顔を見せた。

 筋肉も脂肪も少なく肌の色も白い梓沙とは違い、光一はバスケ部で鍛えられている筋肉質な体つきが男らしく、健康的な肌の色をしている。短い前髪はいつもワックスで上にあげてセットされていた。彼は性格も明るくてクラスの中心的な存在だ。男女共に友達も多い。

「……おはよ。で、何?」

「え?」

「人の髪を触っただろ」

「あぁ、綺麗な髪だなぁって思ってさ。俺のツンツンした硬い髪質とは大違いだな。ずっと気になってたんだけど、なんで髪の毛伸ばしてるんだ?」

「…どうだっていいだろ」

 梓沙は光一から目を逸らし低い声で呟いた。
 光一に悪気があったわけじゃないことはわかっている。けれど、嫌な質問をされて不快だった。

 梓沙が髪を伸ばしている理由は、母親にあった。
 梓沙は幼い頃から髪が長かった。周りの男の子の短い髪型を見て違和感を感じ始めた梓沙は、母親に髪の毛を短くしたいと言った。すると母親は髪を切ることを断固拒否し、幼い梓沙が泣いて訴えても、怒りを露わにして決して許さなかった。

 小学校、中学校、高校と、梓沙は母親が許可した肩までの髪の長さをキープし続けている。これ以上短くすることは許されないのに、逆に伸ばすことは喜ばれた。諦めつつも、せめてもの抵抗心で、肩を越す前にセルフカットしている。

「けど、梓沙はイケメンだからそういう髪型もお洒落で、似合うよなー」

 頬杖をついた光一は、嫌味をいっさい感じさせない笑顔と口調で言った。

「梓沙、女子に人気だぞ。美人顔だってさ。羨ましいなこのヤロー」

「…お前さっきから、俺をからかってるだろ」

「からかってないって。純粋に羨ましいんだよ。それより、そろそろお前って呼び方やめないか?名前、呼び捨てでいいからさ」

 屈託のない笑みを浮かべる光一の顔を、梓沙はまじまじと見た。

 初日。教室での挨拶を済ませた梓沙が席に座ると同時に、光一は後ろから梓沙の背中を突いて「俺、叶光一。宜しくな」と、誰よりも先に挨拶をしてきた。
 それから一ヶ月。お互い席に座っている時に、光一が梓沙にだらだらと喋り続け、それに対して梓沙は適当に相槌をうつ。友達と呼ぶには微妙な関係だ。

「……光一」

「何?」

「次、また俺の髪の毛触ったら、二度と口を利かないからな」

「え〜それは勘弁して。俺の愚痴とかどうでもいい話をちゃんと聞いてくれるの、梓沙だけなんだって」

 梓沙がため息をついて体の向きを戻すと同時に、チャイムが鳴った。


■■■

 放課後の掃除の時間帯。

「なーなー、梓沙の親って、子供が夜に出歩いても何も言わない方?」

 教室の黒板を消す作業をしていた梓沙の背後から光一は尋ねた。箒の先に顎を乗せている光一を、梓沙はちらっと見る。

「いや、結構うるさい方」

「あーそっかぁ。やっぱり母親の方がうるさいか?ちなみに、俺の親は特に何も言ってこないけど、勉強に関しては両方ともガミガミうるさい」

「…うちは母子家庭だから」

「あ、そうなのか。梓沙って兄弟は?」

「いない」

「だったら母親も一人息子を心配するか。あ、ちなみに俺には、中学生の妹と小学生の弟がいる」

「あっそ。で、本題は何だよ」

「今晩、数人で集まって肝試しすることになってるんだけど、梓沙も参加しないか?」

「しない」

 梓沙は黒板を消す作業に戻る。

「え〜なんでだよ。あ、幽霊苦手か?」

「理由はそこじゃない」

「じゃあ、母親に怒られるから?」

 もちろん怒られる。帰宅部の梓沙の門限は遅くても十八時だ。娘ならまだしも高校生の息子に門限なんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

「肝試しって、夏でもないのに…」

「ただの肝試しが目的じゃないんだよ。隣のクラスの友達ニ人が映画部なんだけど、今年の映画甲子園に向けて、ドキュメンタリーのホラー映画を企画してるんだ。その撮影の一部に俺は協力するんだけど、あともう一人協力者が必要なんだよ。カメラ持って周りの様子を映すだけで顔出しはないからさ。なぁ頼む梓沙、協力してくれ!」

 光一は顔の前で手を合わせ、必死に懇願した。なんで俺なんだよ、と梓沙は思いながら嫌がった。

 けど、ここ最近の母親は残業で帰宅するのが十時近くなっている。今朝も残業だと言っていたから、それまでに帰宅すればバレずには済むだろう。

 初日、部活の見学をした中で、映画部に少し興味が湧いた。母親は梓沙が運動部に入部することを反対しているが、映画部ならもしかすると許しが出るかもしれない。
 先にその部員二人と親しくなっておいても損はないだろう。

「はぁ…分かったよ」

「やった!ありがとな、梓沙」

 光一は嬉しそうに笑った。


■■■

 辺りが真っ暗になった時刻。

 学校から徒歩二十分程のところに、廃墟となった五階建てのマンション、『コンフォート澤田』はある。
 山を背にして道路沿いに建つ長年放置された建物は、若者が肝試しをする格好の場所となっていた。

 梓沙と光一は、マンションの裏手の出入り口付近で、少し遅れて来る映画部の二人を待っていた。
 梓沙は腕を組んでコンクリートの壁に背中を預けて立っている。その真横でしゃがみ込んでいる光一は、落ちていた枝で地面に何かよく分からない絵を描いていた。

「梓沙ってさー、身長いくつ?」

 その様子を上から眺めていた梓沙に向かって、光一は地面に視線を落としたまま尋ねた。

「一七八センチ」

「羨ましいなぁ。俺は一七三センチ。せめて一七五センチは欲しいんだよな」

「バスケって、やっぱり身長高いと有利なのか?」

「まぁ、高い方が得ではあるかもな。つか、梓沙は部活やらないのか?その身長を活かして、バスケ部はどう?」

 ガリガリと地面を掘っていた手を止めて光一は顔を上げた。梓沙はばつの悪そうな顔で、光一から目を逸らした。

「バスケは興味ないな」

「じゃあ何が興味あるんだ?野球?サッカー?」

「……」

 梓沙は眉を歪め、答えなかった。
 光一はその顔を見つめ、話したくないんだなと判断し、「よっこいしょ。あー、腰いてぇ」と立ち上がる。

 その時、二人の耳に足音が聞こえた。梓沙たちと同じ制服を着た少年二人が、前方から歩いて来る姿が見える。

「よっ、光一。お待たせー」

「遅いぞ、修斗」

「つっても十五分くらいの遅刻だろー」

 二人は目の前で立ち止まる。
 陽気な笑顔の久野修斗くのしゅうと。その隣にいる西岡翔にしおかかけるは、申し訳なさそうに眉を下げた。

「待たせてごめん。部活のミーティングが長引いちゃったんだよ」

「そっか、じゃあしょうがない。おい修斗、お前は素直に謝る翔を見習いなさい」

「うっせー。おめーは俺の母ちゃんかよ」

 修斗が光一を軽くど突いた。そのままふざけ合う二人に呆れた翔は、初対面の梓沙を見た。梓沙と目が合うと、翔はにっこりと笑った。

「須藤、今日は撮影に協力してくれてありがとう。俺は西岡翔。よろしくね」

「ああ、よろしく」

「俺は久野修斗な。よろしく頼むわ」

 二人の間に割り込み、梓沙に向かって人懐こい笑みを浮かべる修斗の顔は、転入初日で見た光一の笑顔にどこか似ていた。


 その後すぐ、映画部二人が撮影に使うビデオカメラの準備をし始めた。その間、梓沙は疑問に思っていたことを光一に聞く。

「ここって、実際に幽霊は出るのか?」

「いや、見たって話は聞いたことないな。過去にこのマンションで、殺人事件や自殺があったって事実もない」

「ドキュメンタリーの映画なのに、本物の幽霊が出ないなら、いくら雰囲気のある廃墟で撮影しても意味がないだろ」

 呆れる梓沙を見て、光一は意味ありげな表情を見せる。

「ここに幽霊はいない。いないなら、呼び寄せるんだよ。降霊術でな」

「降霊術…?」

 梓沙は丸く目を見開いた。

「コックリさんでもするのか?」

「いや–––…」

 光一はにやりと笑って、その“遊び”について話し始めた。



 『ケンちゃん遊び』

 七年前、四国地方のオカルト掲示板で紹介されたその遊びには、このような親子の物語がある。

 –––四国のとある地域に、あだ名が“ケンちゃん”という五歳の男の子がいた。

 ケンちゃんは母子家庭。母親は仕事で毎日忙しかった為、ケンちゃんに構ってあげられる時間が少なかった。

 母親は、ケンちゃんが少しでも寂しい思いをしないようにと、クマのぬいぐるみをプレゼントした。ケンちゃんは幼稚園にも持っていくほどクマのぬいぐるみを気に入り、ずっと腕に抱いて離さなかった。

 その日の夜も、幼稚園で一人ぬいぐるみと遊びながら母親のお迎えを待っていたケンちゃんが、忽然と姿を消してしまう。
 数週間後、ケンちゃんは山間の川で遺体となって発見された。事故と事件の両方で調査されたが、最終的に事故として処理をされた。

 ケンちゃんを失った母親はその後、精神的にどんどん不安定な状態に追い詰められ、やがて首を吊って自殺をした。その母親の魂は成仏することなく怨霊と化し、失ったケンちゃんを捜しながら、この世を彷徨い続けている–––…。



「ケンちゃんを捜しながら彷徨う母親の霊を呼び寄せる。それが今から行う降霊術遊びだ」

「…その親子のことは、実際にあった話なのか?」

「さあな。でも、掲示板に書かれることすべて信憑性の薄い話だろ。ずっと語り継がれる都市伝説なんかも、嘘かホントかなんて誰にもわからない」

 梓沙は浮かない表情で、ふうんと控えめに呟いた。

「ここからはやり方を説明するぞ。『ケンちゃん遊び』を実行する場所は夜のマンション、又はアパートだ。今回みたいに、場所が廃墟でも問題はない」

 光一は、修斗が鞄から取り出して地面に置いていたクマのぬいぐるみを拾い上げた。

「準備するものは、人数分のクマのぬいぐるみだけ。ぬいぐるみを一人一つ持って、各階に一人づつスタンバイする。開始時刻を決め、その時刻になったら声に出してまず、この場所の住所をマンション名まで正確に言う。そのあと続けて『私がケンちゃんです』と三回唱える。その後は、息子を捜しに現れる母親の霊に見つからないように、身を隠すんだ。その間は絶対に、大きな物音を立てない。声を出してはいけない。あと、遊びを終わらせる前にマンションから外に出ることも禁止だ」

 黒い大きな塊の建物を見上げていた梓沙が視線を光一に向け、疑問を尋ねる。

「もし母親に見つかったら、どうなるんだ?」

「あの世に連れて行かれるとか、最悪殺されるらしいな」

「…じゃあ、マンションの外に出てしまったら?」

「外に出たら最後、そこは異界へ繋がっていて、二度と元の世界には戻って来られなくなる…だったかな。まーとにかく、どちらもバッドエンドだな」

 どこかの都市伝説で聞いたことがあるような話だな…と、梓沙はぼんやり思った。

「遊びの終わらせ方も簡単だ。声に出して『私はケンちゃんではありません』って三回唱えるだけ。けど、母親の霊が近くに現れたら、声が聞こえない距離まで見つからないように移動する必要がある。もし母親に見つかって襲われそうになったら、クマのぬいぐるみを投げ付けるんだ。母親がクマのぬいぐるみに気を取られている間に逃げて、無事に三回唱えることができれば助かる」

 光一は梓沙に向かってぬいぐるみを投げた。キャッチしたぬいぐるみを見て、梓沙は嫌そうに眉を寄せる。

 梓沙は、ぬいぐるみが嫌いだった。その理由に、もはや毒親といえる母親が関係していることは言うまでもない。

 かわいいものを梓沙に与える母親。小学生までならまだ我慢はできた。しかし、中高と息子の誕生日にぬいぐるみをプレゼントしてくるその精神は異常だ。梓沙の部屋のクローゼットには、飾られることがない様々なぬいぐるみがゴミ袋の中で眠っている。

「よーし。準備できたぜ」

 修斗は腰を上げると、ビデオカメラを梓沙と光一に手渡した。

「このボタン押せば録画できるから。怪奇現象が起きても起きなくても、ビデオは回し続けてくれよな」

 ビデオカメラの操作を確認した梓沙は、静かな声で尋ねる。

「あのさ、『ケンちゃん遊び』を実際にやって、母親の霊を見たっていう人はいるのか?」

 すると三人は顔を見合わせ、揃って笑いながら「ないない」と首を振った。

「うちの学校で為した奴ら何人かいるけど、母親の霊を見たって話は聞いたことねぇな」

 と修斗は言い、ビデオカメラを顔の横に掲げる。

「けどやっぱ廃墟でこういうことすると、心霊現象的なことは多少起こるだろ。そこを撮影できればラッキーくらいだよ。ま、バッチリ幽霊が撮れたら、それに越したことはねーけど」

 全員が、ビデオカメラとぬいぐるみ、そして懐中電灯を持った。
 幸い、今日は満月だ。道路沿いに佇む廃墟は、懐中電灯が無くても十分明るい。

「それじゃあ、開始時刻と終了時刻を決めようか」

 翔が腕時計を見て言った。

「開始時刻は十五分後の十九時半。撮影は四十分くらいかな…最低でも三十分は撮影して、遊びを終わらせたらここに集合しよう」

 すると修斗が光一の方に腕を回し、にやにやしながら言った。

「光一、びびって早々に切り上げんなよ」

「ばぁか。お前じゃないんだから」

「む。俺はビビリじゃねぇぞ」

「そっちじゃ無くて。虫に耐えられなくて逃げ出すんじゃないかと」

「うわ馬鹿っ、それ言うなよ!想像しちまったじゃねーか!」

 虫嫌いな修斗が青ざめ大袈裟なリアクションをとると、光一と翔は声を上げて笑った。

 それから適当にジャンケンをして、二階に梓沙、三階に光一、四階に翔、五階に修斗と各階の担当が決まった。

 万が一何か起こった場合に備えて、スマホのトーク画面を使って状況を共有できるようにと四人のグループを作成した。

 そして四人は、マンションの一階から階段を使って各階へ移動した。


■■■

 五階担当の修斗は、階段を上がって外廊下に出た。
 階段もそうだったが、外廊下にも空の缶ビールやタバコの吸い殻などがあちこちに落ちている。中には使用済みの手持ち花火もあった。

「おーおー、荒らされてんなぁ」

 夏休みになると、うちの学校の生徒がここを肝試しに使っていることは知っている。修斗も、一年の夏休みに数人で肝試しに来たことがあった。

 その時に全部屋を確認したが、中身が空っぽの部屋もあれば、家具が残っている部屋もあった。ベッドが残されている部屋もあり、一緒に来ていた同級生の男子が「ここでうちの学校の先輩がセックスをしたって話聞いたことあるぜ」と、からかい混じりに言っていたのを思い出す。

 くだらねぇ、と思いながら足元の缶ビールを蹴った。静かな空間にその音は思ったよりも大きく響く。『ケンちゃん遊び』が始まれば大きな音は出せない。こりゃ足元に注意しねぇとな、と思いながら、ふと目に止まった使い捨てライターに気づき、なんとなく拾い上げる。

 まだ中身が少し残っていた。
 ライターの先端部分に親指を押し当て試しに火をつける。難なくついた。放置しておくのは危険な物だが、特に価値もない物だ。修斗は足元にライターを捨てた。

 スマホで時間を確認する。
 そろそろ開始時刻だな。


■■■

 二階の外廊下を月の光が照らしている。
 梓沙は階段を上がってすぐ、二〇一号室のドアの前に立ったまま、手元にあるスマホを見下ろした。

 開始時刻まで、あとニ分。

「……」

 念のために、先にビデオカメラを回し始めた。
 カメラを顔の前に掲げて、寂れた目の前の廊下を撮影する。

 試しに二〇一号室のドアノブを掴んで回すと、軽い音を立ててドアは開いた。
 隙間を開けて中を覗くと、ワンルームほどの広さの洋室だった。
 懐中電灯を使って、玄関のすぐ真横のキッチンから、奥の洋室を照らす。
 破れたカーテンがあるだけで、物は何一つ無い。誰かが生活していた名残は全く感じられなかった。

 梓沙はスマホを見た。開始時刻、十五秒前だ。
 ドアは開けたままにして、再び外廊下にビデオカメラを向けて立った梓沙は、開始時刻を待ちながら『ケンちゃん遊び』の流れを頭の中で一通りおさらいする。

 十秒前……五秒前…

 四、三、二、

 一…

「………」

 一度、深く深呼吸をした後、静かに住所を口にした。

「––––、コンフォート澤田…」

 マンション名まで言い終わった梓沙は、一度口を閉じた。
 ひやりとした風が、梓沙の前髪を微かに揺する。
 ビデオカメラをゆっくりと動かして辺りを撮影した。特に異変もなく、妙な気もしない。

「私がケンちゃんです、私がケンちゃんです、私がケンちゃんです…」

 –––ここから先は、決して声を出してはいけない。

 口を閉じ、ゆっくりと辺りを見回した。
 遊びは始まったが、今のところ特に変わった様子はない。

(どこかに身を隠そう…)

 先程開けた部屋の中に身を隠すことに決めて、再び中を覗き込んだ。

「………」

 なるべく音を立てないように、ゆっくりと動く。狭い玄関に足を踏み入れると、部屋の中は湿った空気に満ちていた。

(臭うな…)

 カビの臭いが鼻を突く。
 ドアを閉め、懐中電灯で足元を照らしながら、短い廊下をゆっくりと進んで奥の洋室に入った。

 クローゼットを見つけた梓沙は、そこを開けた。
 役目を果たしていない収納棚とハンガーパイプをビデオカメラで撮影しながら、人一人余裕で入れる広さがあることを確認する。カビ臭さは多少あるが、長年放置されていたにも関わらず比較的綺麗な方で虫もいなさそうだ。

(…ここで、しばらく待つか)

 そう決めた梓沙はクローゼットの中に入ると、立ったままゆっくりとドアを閉めた。



 遊びを始めてから二十分が経過した時、通知をオフにしているスマホのトーク画面に最初のメッセージが上がった。

 メッセージは修斗からだった。『こちらは異状なし。みんなは?』
 次に光一からメッセージが上がる。『俺も何も起きてない。けどでかい蜘蛛がいたぞ。写メ送ろうか?』
 『やめろバカ』すぐさま修斗のメッセージが上がる。
 『俺も異状なしだよ。須藤は?』
 翔からのメッセージに、梓沙は一言返そうと指を動かした。



 –––ふと、外から微かな物音を聞いた。



「…、…?」

 指の動きを止めた。
 息を潜め、クローゼットの外に耳をすます。

 …コツ…

 何かが硬い床に打つかるような小さな音だった。

 コツ……コツ…

「………」
(何の音だ…?)

 ……コツ……コツ…コツ…

 ふと頭をよぎったのは、女性が歩く時に鳴らす、ヒールの音だ。

「…っ…」

 その音に似ていると気づいた瞬間、体が震えた。無意識に、クマのぬいぐるみを抱く腕にぎゅっと力を込める。

 音は、外廊下からしているようだ。
 そして、この部屋の前まで近づいて来ている。

「……、…」

 声を出してはいけない。
 物音を立ててはいけない。

 緊張感に強張る体。
 口を手のひらで押さえて、目だけを動かす。
 呼吸の音も、心臓の音も、やけに大きく耳に響いた。

 ……コツ…コツ…

 近づいて来る、音。
 そのまま部屋の前を通り過ぎてくれることを祈る。

 …コツ…コツ……

 足音と、気配が迫る。

「……、…ちゃン…?」

 嗄れた女の声が聞こえてきた。

「…ケンちゃン……どコに、イるのォ…?」

 ぞっとした悪寒が背筋に走る。
 この先にいるのは、ケンちゃんの母親だ–––。

「…っ…」
(来るな…)

 …コツ……コツ…

「…ケンちゃン……」

 ……コツ…コツ…

「……どコに…イるの…?」

見つからないように息を殺す。
だが、




 –––梓沙ちゃん


 突然、頭の中にその声は響いた。

「–––、母、さんっ……?」

 梓沙の口から、空気を吐くように声が洩れた。

 そして遅れて、自分が声を出してしまったことに気づいて青ざめる。

(どうして…なんで…母さんの、声が–––…)

 コツ、……………

 ヒールの音が止んだ。
 体が凍りつく。

「っ…」
(気づかれた…?)

「…ケンちゃん…そこニ…いルのネ…?」

 ガチャッ

「……‼︎」

 玄関のドアが開く音と共に、その気配は部屋の中に入って来た。
 気づかれてしまった–––…。

「…ケンちゃァん……」

 –––梓沙ちゃん

 クローゼットの向こう側から…
 頭の中から…
 二つの声が重なるように聞こえてくる。
 梓沙は震えながら頭を抱えた。

「…ケンちゃァん…どコに、隠れテるのォ…?」

 –––梓沙ちゃん、どうしたの?お母さんよ、出てきてちょうだい

「––––……っ」

(やめろ、やめてくれ…頭が…おかしくなりそうだ…‼︎)

「……っ」

 ここから逃げなきゃ駄目だ。
 ケンちゃんの母親から距離をとって、この遊びを終わらせる。
 その為には–––

 梓沙は静かに立ち上がり、クローゼットのドアに手をかけた。
 この先に、母親がいる。
 自殺をした、母親の霊が。
 その姿を想像すると恐ろしくなった。
 覚悟を決めた梓沙は、ゆっくりと、音を立てないように開けた。隙間から、暗い部屋の様子を覗く。

 –––全身が黒い影のような人影が、部屋の中央に背を向けて立っていた。

 暗闇に更に濃い色を足したような黒だ。棒のような体つき。腰まである乱れた長い黒髪。足元は三センチ程の高さの黒いパンプス。黒いワンピースのような服は、見様によっては喪服のようだ。

 母親は、息子をさがすように左右をきょろきょろしていたが、やがてその首が、ゆっくりと背後を振り向こうとした。

 今しかない。
 梓沙は隙間から腕を出し、その手に掴んでいたぬいぐるみを投げた。
 ぬいぐるみは母親の脇を超え、そのまま壁に打つかってぽとりと落ちる。

「……ア…ぁあ…、ぁあ"ァアあ"––––」

 ぬいぐるみに気づいた母親は泣き声に似た声を上げながら、床に落ちたぬいぐるみを拾い上げて腕に抱いた。

「……っ」

 クローゼットから飛び出した梓沙は、立ち止まることなく玄関に向かいドアを開けて外廊下に出ると、そのまま振り返らずに階段へ向かって走った。


■■■

 三階担当の光一は、玄関のドアが閉ざされた室内の中に居た。
 『ケンちゃん遊び』が始まってからも、特に隠れることなく部屋の中央に立っている。

 スマホのトーク画面から顔を上げて、室内を見回す。今のところ特に異変は起きていない。壁を這っていたでかいクモが、天井近くまで移動しているくらいしか、室内での動きはなかった。

「……」

 光一は無言でクモの動きをぼんやりと眺めていた。その時、下の階の部屋からガタンッと重い物音がこの部屋にまで響いた。驚いて軽く肩が跳ね上がる。

「……?」

 二階は、梓沙が担当している。
 光一は眉を寄せ、ゆっくりと玄関に向かう。
 ドアを開けたその時、下の階から、玄関のドアが勢いよく開く音が聞こえた。
 そして外廊下の突き当たりにある階段の方から、誰かが一階に向かって下りて行く足音を聞いた。

 梓沙に、何かあったのかもしれない。
 そう思った光一は焦って走り出した足を慌てて止めた。先に『ケンちゃん遊び』を終わらせた方がいいだろう。

「私はケンちゃんではありません、私はケンちゃんではありません、私はケンちゃんではありません…」

 しっかりと三回唱えてから、急いで階段に向かった。


■■■

 一階へ下りた梓沙は、止まることなく出入口に向かう。
 そのままマンションから外へと飛び出しそうになった足を、寸前のところで止めた。

『ケンちゃん遊び』を終わらせないと、外には出られない。

「はぁっ、はっ」

 呼吸を整えている暇はない。
 梓沙はすぐさま声に出す。

「私はケンちゃんではありません、私はケンちゃんではありません、私はケンちゃんではありません、っ」

 必死に言い終わった後は祈るようにぎゅっと目を閉じて、その場でジッとした。

 これでいいのか?
 あの母親の霊は、追ってこないか?

 心臓がバクバクしている。
 恐怖に全身が支配され、その場から動けず、目も開けられない。

「–––梓沙!」

 後ろから誰かに肩を掴まれた瞬間、梓沙は目を見開いて勢いよく振り返った。

「……ぁ……」

 梓沙の口から小さな声が洩れた。
 いつのまにか光一が背後に立っていて、梓沙を見上げた顔がすぐそばにあった。

「どうした、大丈夫か?」

 光一は心配するように言った。梓沙は光一の顔を凝視したまま答えない。

「ニ階から大きな物音がしたから、お前に何かあったのかと思って…」

 梓沙の身を心配した光一は、『ケンちゃん遊び』を終わらせた後に、階段を下りて一階へ向かった。
 そして出入り口の前で佇む梓沙の姿を見つけた光一は、その背中に近づいて後ろから肩を叩いたのだった。

「何があったんだ……おい、梓沙?」

「……うっ…」

 俯いた梓沙の口から呻き声が洩れ、その体がよろめいた。

「梓沙…⁉︎」

 光一はその体を慌てて支えた。

「大丈夫か?一旦外に出よう…、あ、お前、遊びは終わらせたのか?」

 梓沙は黙ったまま、こくりと頷いた。
 光一はほっとして、梓沙の肩を支えながらマンションの外へ出た。

 外の新鮮な空気が、梓沙の体から徐々に恐怖を取り除いていく。
 梓沙は外壁に背中を押しつけると、そのままずるずると腰を落とした。

 「落ち着くまでそうしてろ。遊びはもう終わりにした方がいいな…。二人に連絡するから」

 光一は落ち着いた声で梓沙に伝え、スマホのトーク画面で二人に戻って来るようメッセージを送った。

 梓沙はぼんやりする視界に、ビデオカメラを持ったままの手を映した。
 録画はまだ続いている。あの状況でビデオカメラを放り出さなかった自分を褒めてやりたいと思う。


■■■

 修斗と翔が一緒に戻って来た。
 座り込み俯いている梓沙の様子を見た二人は、そのそばに立っていた光一に視線をやった。

「で、何があったんだよ」

 ポケットに手を入れたままの姿勢で、修斗が光一に言った。光一は梓沙に視線を落とす。

「わからない。何も話してくれないんだ」

「その様子だと、幽霊を見ちまったって感じだよな」

 修斗が笑いながら茶化すように言ったが、梓沙は無反応だった。修斗がむっとした顔になり、前に出て梓沙に詰め寄る。

「須藤、何があったのか話せって。こっちは撮影中断して来たんだぜ」

「……悪いけど、話せない」

「はあ?何でだよ」

 腕からわずかに顔を上げた梓沙の口からそう言われ、修斗の口調が苛立ちで強くなる。
 すると光一が修斗の肩を掴み、困った顔で彼に笑いかけた。

「落ち着け、修斗。梓沙はまだ気分が良くないんだよ」

「けどよ、こいつ、」

「いいから」

 光一の顔からは笑みが消え、声がワントーン低くなる。

「蜘蛛の写メ連続で送りつけるぞ」

「う、それは勘弁してくれ…」

 悪かったよ、と苦笑いした修斗は光一から身を引いた。

 そんな修斗を呆れ顔で見ていた翔は、梓沙に視線を向け、いつもの穏やかな声で言った。

「須藤、今日は撮影に協力してくれてありがとう。何があったのか気になるけど、後日、話せそうな時に聞かせてよ」

 梓沙は答えない。翔は気にせず、二人に言った。

「三十分は撮影出来たことだし、これで終わりにして帰ろうか」

 翔に反対する者はいなかった。
 全員分のビデオカメラ、懐中電灯、ぬいぐるみを修斗と翔はバッグにしまう。ぬいぐるみに関しては、梓沙の分はなかった。
 三人は、梓沙の身に何があったのかを察したが、誰もそのことについて口を開かなかった。


 四人は道路沿いに出る。
 自転車組みの修斗と翔は自転車のサドルに跨ると「また明日な」「おやすみ」と言って走り去って行った。

 二人の姿があっという間に見えなくなると、梓沙と光一は駅まで向かって歩き出した。
 いつものように光一がべらべら喋り続ける。梓沙は心ここにあらずといった様子で、無言のまま歩き続けた。


 電車に乗り、向かい合ってボックス席に座る。梓沙が降りる駅は、光一が降りる駅の二駅手前だ。
 真っ暗な窓の外を眺める梓沙の前でスマホを触っていた光一が顔を顰め、「うわぁ」とわざとらしい声を出した。

「……どうした?」

 梓沙はここに来てやっと声を出した。
 光一は軽く目を見開いて梓沙の顔を見たあと、困った顔で笑いながら言う。

「いや、妹から。帰って来る前にコンビニで食パンと牛乳、あとついでにシュークリームも買って来てってさ」

「ふうん…」

 素っ気なく呟いた梓沙は、また窓の方に顔を戻した。

「梓沙、今日はなんか、ごめんな」

「……何だよ、急に」

「お前は何も言わないけど、あそこで身の危険を感じることがあったんじゃないか?こうして無事だったから良かったけど…怪我とか、もしものことがあったら俺にも責任があるだろ。誘ったのは俺なんだから」

「くそ真面目だな」

「え、口悪」

 梓沙の憎まれ口に対して、光一は気分を害した様子もなく笑った。心が広すぎると思う。

 あの恐怖体験から時間が経ったおかげか、梓沙から恐怖心は消えつつあった。このまま、あそこで起こったことは全て忘れてしまいたい。

「光一…」

「ん?」

「…いや、なんでもない」

 梓沙は言いかけてやめた。
 忘れてしまおう。だから光一にも…誰にも言わない。忘れて、やがて記憶からも消し去ってしまおう。

「……」
「……」

 窓の外に映った自身の浮かない顔を黙って見つめる梓沙。
 その横顔を黙って見ていた光一は、あきらめて肩を落とした。



■■■

「ただいま…」

 マンションの玄関を開けて電気をつけた梓沙は、誰もいないリビングに向かう。
 夕飯がラップに包まれてセットされているテーブルをちらっと見ただけで、そのまま自室へ移動した。
 荷物を置いて着替えを持つと、今度はバスルームに向かう。シャワーを浴びて部屋着に着替えた後は、テーブルの上の夕飯を食べて、早々に自室のベッドに潜り込んだ。

「………」

 仰向けになり、薄暗い部屋の天井を見つめる。頭の中は無だった。そのまま何も考えないことに集中し、目を閉じる。

 どのくらいの時間が流れただろうか。
 やっと、意識がぼやけてくる…




 ………

 …………

 ……おぎゃぁ……

 ……おぎゃぁ……おぎゃぁっ…

 視界が真っ暗な眠りの中で、赤ん坊の泣き声を聞いた。
 泣き声はだんだんと音量を強め、鼓膜を震わせる。

 ……おぎゃあ……おぎゃあっ…

 手足の先まで、全身が動かせない。声も出せない。金縛りだ。

 …おぎゃあ……おぎゃぁあっ…

 ずしり、とした重みが胸元を襲った。
 息苦しさに襲われる。
 目を覚ませ。目を覚ませ。
 必死に念じる。

 …おぎゃぁ……………………

 …………………………

 唐突に、赤ん坊の泣き声が止んだ。
 同時に指先がぴくっと反応し、体が金縛りから解けて動かせるようになった。

 ––––…しかし、胸元を圧迫する重みは消えない。

 重い瞼をゆっくりと開いた。
 視界が、人間の肌の色に覆い隠されている。鼻先が触れ合う程の距離に、赤ん坊の顔があった。
 白目がない黒い瞳と目が合う。
 全身が総毛立った。




「まぁーま?」





(っ–––!)




ピピピピピッ

「…ッ!」

 耳元で、起床を知らせるスマホのアラームが鳴り響き、ハッと目が覚めた。

「はぁっ…はぁっ…」

 天井を見上げたまま、梓沙は荒い呼吸を繰り返す。胸元にはまだ圧迫感が残っていた。

「……、……」

 胸元のシャツをくしゃりと握りしめて、額に浮かんだ汗をもう片方の手の甲で拭う。

この訳の分からない夢は、いつまで見続けるのだろう…そんな不安を感じながら、アラームを消してゆっくりと体を起こした。


■■■

「おはよう、梓沙ちゃん。今日も遅いわね、早く食べないと遅刻…」


 キッチンで朝食を準備していた母親、須藤あゆみが振り返ってにっこりと笑った。
 しかし、その笑顔は一瞬で消えて、困惑の色を浮かべる。

「梓沙ちゃん、顔色悪いけどどうしたの?昨日はよく眠れたの?」

「…別に。朝食、いらないよ。遅刻するからもう出る」

「あ、待って梓沙ちゃんっ」

 リビングを抜け、振り返らずに玄関に向かった梓沙を追いかけた母親は、靴を履く梓沙の背中に向かって言った。

「梓沙ちゃん。はい、お弁当」

「……」

 無言で振り返った梓沙は、母親に手渡されたお弁当箱を受け取りスクールバッグにしまう。

「具合が悪いなら、早退してもいいからね…。いってらっしゃい」

 不安げに微笑む母親の顔を、梓沙は見下ろした。
 ふと、その首筋…鎖骨の上あたりに視線が止まる。

 虫刺されのような、赤い痕が一つ…

 –––キスマークだ…

「梓沙ちゃん?」

「っ、いってきます」

 梓沙は逃げるように外に出て、玄関のドアを閉めた。
 エレベーターに乗り込み押したボタンを意味もなく見つめながら、一階に降りるのをじっと待つ。

 母親に対して、怒りとも悲しみともいえる思いが、ふつふつと胸に湧き上がっていくのを感じた…。


■■■

 朝ご飯を抜いたおかげで、時間に余裕ができた。
 学校の生徒玄関で靴を履き替えていると、後ろからぽんと肩を叩かれる。

「おはよう、梓沙」

 光一が真横に並び、にっこりと笑う。

「…おはよう」

 少し冷めた声で梓沙は挨拶した。

「顔色悪いな、寝不足か?」

 光一は梓沙の顔を覗き込む。

「あぁ…」

「それ、昨日のアレが原因…だよな」

 光一は躊躇いがちに言った。
 思い出したくないことを言われて、梓沙の眉間にしわが寄る。

「夢見が悪いだけだ」

「夢?ふうん、俺は最近見てないな」

 二人は階段を上がり始めたが、梓沙の隣を歩いていた光一がスマホを確認して急に立ち止まった。

「梓沙、ちょっと待ってくれ」

「何だよ」

「修斗から呼び出しだ。今から映画部の部室に、お前と一緒に来て欲しいって」


■■■

 映画部の部室に、昨夜の四人は揃った。


「夜、家でビデオカメラのチェックをしたんだ。俺と修斗、あと光一のビデオカメラには何の異常もなかったんだけど…」

 言いながら、翔は手に持っていた一台のビデオカメラを長テーブルに置いた。

「…須藤のビデオカメラだけ、ちょっと問題があったんだ」

 と、翔は言った。
 光一はやや戸惑いつつ、すぐそばの修斗に目を向ける。俯いている修斗の様子が見るからにおかしい。

「修斗、お前はもう見たのか?」

「…あぁ。さっきここで、翔と一緒に見た」

 修斗の声は弱々しい。心なしか顔は青ざめている。

「映像が…っつーより、音声が…」

「音声?」

「……」

 それ以上何も言いたくないのか、修斗は口を閉じてしまう。
 翔はやや深刻な表情で言った。

「二人にも、できれば見てほしいんだよ」

「俺は、見てもいいけど…」

 光一は、テーブルの上のビデオカメラを見つめている梓沙の横顔を見た。

 梓沙は顔を顰めた。
 忘れようとした恐怖がじわりと蘇ってくる。逃げ出したい…一瞬そう思ったのに、口からは言葉がこぼれる。

「…あの廃墟で俺は、ケンちゃんの母親の霊を見た」

「っえ?」

 三人の口から驚きの声が上がった。
 三人の視線を集中的に受ける梓沙は、誰とも目を合わせないまま下を向き、諦めたように話し出した。

「母親の霊は子供を捜していた。『ケンちゃん、どこにいるの』って…何度も言いながら」

「見つからなかったんだろ?」

 光一が梓沙の肩を掴み、ぐいっと強く引っ張る。梓沙は眉を歪めて、目が合った光一を睨んだ。

「痛いって」

「お前は、母親に見つからなかったんだよな?」

「……、いや」

 梓沙は光一から目を逸らす。

「声は、出してしまった。母親には気づかれた。けど、ぬいぐるみを投げてなんとか母親からは逃げられた。声は聞かれたけど、姿は見られていないと思う」

「…、……」

 光一は唇を噛んで、そのまま俯いた。
 光一に肩を掴まれたまま、梓沙も黙っている。

「須藤。子供の声は聞いた?」

「…?」

 梓沙は不意をつかれたかのように、翔を見た。

(子供の声…?)

 その時、修斗が部屋の時計を見てから慌てた声を上げる。

「やべ、もうすぐチャイムが鳴っちまうぞ。とにかく二人とも見てくれよ」

 修斗はビデオカメラに触れ、再生ボタンを押した。

 梓沙は逃げることはせず、その場に残った。
 全員が無言で、液晶画面を見つめる。


 –––画面に、外廊下の映像が映る。

 外廊下から玄関、室内、クローゼットへと、梓沙が撮影した静かな映像が流れていく。
 クローゼットの扉が閉じられ、画面は真っ暗になる。やがて画面の片隅がスマホの明かりに照らされた。
 すると、クローゼットの扉の向こう側から、くぐもった声が聞こえ始める。

 …わあぁあん…わあぁあん…

 子供の泣き声だった。
 それは徐々に、大きな泣き声になっていく。

 …わあぁあん……わあぁぁああんっ…

 うるさい‼︎

 子供の泣き叫ぶ声に重なるように、女性の甲高い怒鳴り声が響いた。
 子供の泣き声と、女性の強い怒気が込められた「うるさい」「黙れ」などの言葉。母親が激しく子を叱っている–––…それはひどく耳障りで不快な音声だった。

(なんだ、これ…)

 梓沙は絶句した。
 こんなものは、知らない。

 永遠に続くかのように思われたその声は唐突に止んだ。
 暗闇の映像が静かに流れるだけになった画面から、皆がゆっくりと顔を上げる。

「…これ、どうするんだ。制作の素材に使うのか?」

 光一が言うと、修斗が首を振った。

「いやいやいや…さすがに度が過ぎてんだろ。マジもんでも使えねぇって。なぁ翔」

「そうだね…」

 苦笑いを浮かべた翔も、使用する気はないようだ。

「…ここから先の映像には、何か映ってたか?」

 梓沙が聞くと、翔は首を振る。

「いや、特に何も。この先はずっと画面が真っ暗で、しばらくしたら映像が終わるんだけど…」

 翔は言いながら、ビデオカメラに手を伸ばす。翔がビデオカメラに触れた、その時だった。

 画面に、ジジッ、とノイズが走る。
 翔があれ?と驚いた声を上げた。

 全員の視線が再び画面に向けられた。
 ノイズは激しさを増したかと思うと急速に消えていき、そこに白黒の映像を流し始めた。
 部屋の天井の片隅から、ベランダと押入れが見える角度で撮影された、6畳の和室が映し出されている。
 机、本棚、テレビ。畳の上に散らかった積み木や車の子供のおもちゃ。
 人が生活しているようだが、そこには誰もいない。

「何だよこれ…こんなの、翔と確認した時はなかったぜ…?」

「うん…」

 修斗が戸惑った顔で言うと、翔も同じ顔つきで頷く。
 全員、食い入るように映像を見つめる。
 何かが、この後起こるのだろうか…。
 そう思ったが、映像は無人の部屋を映し出しただけで突如フッと真っ暗になり、今度こそビデオ再生は終わった。

「な…なんだったんだ…?」

 修斗が呟いた、その直後にチャイムが鳴り響き全員の肩がビクッと跳ね上がる。
 翔が慌ててビデオカメラを棚に片付け、慌ただしく部室を出た四人はそれぞれの教室に向かった。




 梓沙は、心の中で思う。

(これ以上のことは…もう何も…)

 起こらないことを祈りたい。

 だが、梓沙は自身の身に、得体が知れない何かが近づいて来ているのを感じていた。

そしてそれは、すぐそこまで近づいて来ていた–––…



■■■

 一限目の授業中。
 静かな教室内にはチョークの音だけが響いている。黒板の数式を見つめる梓沙は上の空だった。

 コツ…

「……?」

 コツ……コツ……

 どこからか響き始めた、微かな音。
 その音が耳に届いた時、背筋がぞわりとした。

 コツ……コツ……コツ…

(この音…まさか…)

 その音に、クラスメイトの誰一人気づいていない。梓沙にしか聞こえていないようだった。
 その音は、教室の中ではなく外から聞こえてくる。梓沙は恐る恐る、視線を廊下側の窓に向けた。

(……!)

 廊下の左側からゆっくりと、女性が姿を見せた。
 開いた窓から見える上半身の姿は、黒く長い髪に殆どが隠れてしまっていて、横顔は鼻先しか確認できない。女性は俯いたままゆっくり、ゆっくりと歩きながら、教室の前を横切ろうとしていた。

 あれは、昨夜見た、ケンちゃんの母親だ–––

「っ、…」

 梓沙は手のひらで口元をおさえ、視線をノートの上に落とした。
 心臓の鼓動が大きく響く。
 捜しに来た…
 まさか俺を…?
 声を出すな…


 声を聞かれたら、気づかれる–––…


「じゃあここの答えを……須藤。須藤梓沙、わかるか?」

 数学教師の尾上 《おのえ》に名前を呼ばれた。このタイミングで運悪く当てられてしまった梓沙は、顔を上げずに黙っている。

 ……コツ…コツ……

「おい、どうした須藤。俯いてないで、早く答えなさい」

 尾上は顔を顰め、語気を強めた。
 梓沙は目だけを動かし、横髪で遮られた視界の隙間から廊下を見た。母親の黒い姿は、廊下の半分まで通り過ぎている。

 …コツ…コツ……コツ…

(早く…早く、通り過ぎてくれ…)

「おい須藤、聞こえないのか」

「–––先生」

 梓沙の後ろから、光一の声がした。

 手を挙げている光一に、尾上は「どうした、叶」と問う。

「梓沙、朝から具合が悪くて、吐き気がするって言っていました。今も具合が悪そうなんで、保健室に行かせた方がいいかと思います」

「おお、そうだったのか。須藤、今すぐ保健室に行きなさい」

「先生、俺が保健室まで須藤を連れて行きます。いいですか?」

「そうか、じゃあ頼む」

「はい」

 光一は席を立つと、梓沙の肩にそっと触れて顔を覗き込み、小声で言った。

「行こう、梓沙。立てるか?」

「……、…」

 梓沙は口をおさえたまま無言で頷き、席を立った。
 ちらっと廊下側を見る。
 母親の姿はない。
 靴音も聞こえなくなっていた。

 梓沙と光一は後ろのドアから廊下に出ると、母親が進んだ方向とは逆方向に向かって歩き出した。
 保健室につくまでの間、梓沙は一言も喋らず、俯いたまま、歩き続けた…。



■■■

 保健室は無人だった。
 ベッドに腰掛けた梓沙の正面に立った光一は、梓沙の頭を見下ろした。

「大丈夫か、梓沙」

「あぁ……。……ごめん、助かった…」

「いいって。お前が朝から具合が悪そうだったのは事実だしな」

 光一は笑った。だがすぐにその笑みは消え、深刻な顔になる。

「なぁ梓沙、何かあったのか?」

「……」

 答えない梓沙に、光一は少し躊躇ってから言った。

「廊下の方、気にしていただろ」

 梓沙の心臓がどきりとした。

「……何もない。お前が言ったように、さっきは吐きそうになっただけだ」

 梓沙はそれだけ言った。
 光一の表情が曇る。

「……そっか。夢見が悪いって言ってたし、このまま寝たらどうだ?」

「…いや…。今日はこのまま、早退するよ」

「分かった。じゃあ鞄持って来てやるから、ちょっと待ってろ」

 光一がドアへ向かって歩き出した。頭を上げた梓沙が暗い瞳に光一の背中を映し、名前を呼ぶ。

「光一」
「ん?」

 ドアに伸ばした手を止めて、光一が振り返った。思いの外優しい笑みを見せられて、梓沙は言い淀んだ。
 “ありがとう”という言葉が声にならず、数秒間の妙な間が出来た。そのせいで気恥ずかしい気持ちが勝ってしまい、お礼をいうタイミングを逃してしまう。

「……いや、なんでもない」

 なんとか声を絞り出し、それだけ言った。


■■■

 職員室にいた担任に早退することを告げて、梓沙は帰宅した。
 真っ先にベッドに向かって横になると目を閉じる。あの悪夢を見るかもしれないことに恐怖を抱きつつも、急激な眠気には勝てなかった。

 夢は、見なかった。





 夕方に、梓沙は目を覚ました。
 久しぶりに深く眠れたおかげで頭はスッキリとしていて気分はいい。

 ベッドから出てリビングを覗く。母親はまだ帰ってきていない。
 梓沙は財布とスマホをズボンのポケットに入れると、マンションに一番近いコンビニに行くため玄関に向かった。

「………」

 玄関扉に手を伸ばし、動きが止まる。外に出ることに少し躊躇いを覚えた。

 (…あの母親の霊は、俺を捜して、学校にまで来ていた…)

 おそらく、そうなんだろう。声を出していたらどうなってしまったのか…今思い返すとぞっとする。
 『ケンちゃん遊び』は終わらせた。光一から聞いた通り、母親から距離を取って三回口にした。

 あれだけでは…足りなかった?

 「ケンちゃん遊び、か…」

 都市伝説などにはまったく興味がない。ただ今回は、対処法を調べる必要がある。

 そうしなければ、あの母親の霊からは逃がれられない…。


■■■

 周辺の音を気にしながら無言で歩き、広い駐車場の中を通ってコンビニの出入口の前に来た。
 ふと、視線がすぐ横の駐輪場スペースに向く。一人の女子高生が、スマホを操作しながら立っていた。黒髪のショートカットで、同じ学校の制服を着ていた。

 コンビニで短く買い物を済ませて外に出た時、その女子高生はいなくなっていた。
 梓沙は駐車場を早歩きで進む。ふと一台の黒い車の助手席に、さっき見た女子高生の姿があるのに気づいた。
 運転席には、五十代ほどの男性が座っている。彼女の父親だろうか。けど、二人の様子がおかしい。
 何か話し合っているようだが、女子高生の顔が険しい。男性は困った顔で笑いながら、彼女を説得しているようだ。
 女子高生がドアを開けて外に出ようとすると、男性は逃がさないというように腕を掴み引っ張り戻す。

(えっ?)

「やめてっ、離してよ!」

 女子高生が声を上げて抵抗する。誰かに助けを求めようとし、梓沙と目が合った。

 助けて、とその口が動いた。

「何やってるんだ!」

 梓沙は車に向かって走り、助手席の開いたドアから中に向かって叫んだ。男性が驚いた顔で固まる。女子高生が男性の手を払いのけた。今度は梓沙が女子高生の腕を掴み、外に引っ張り出す。

「走って…!」

「っ…」

 二人は急いで、その場から逃げた。


 コンビニから通りに出てしばらく走りやっと足を止めた二人は、はぁはぁと息を切らせた。梓沙は後ろを振り返り、男性が追って来ていないのを確認する。

「助けてくれて、ありがと。ほんと、焦った…」

 女子高生にお礼を言われた。梓沙は彼女の低い位置にある頭を見下ろす。

「さっきの男、知り合いとかじゃないよな。まさか、誘拐されそうになったとか…」

「顔合わせだった相手だよ」

「え?」

「パパ活。聞いたことない?君、東京の人でしょ。いいよね東京。太パパになってくれる相手も田舎ここより見つけやすいだろうなぁ」

「……」

 女子高生は、梓沙と目を合わせない。

「俺のこと、知ってるんだ」

「三年の女子の間でも、噂の的になってるよ」

  彼女の表情と声は暗かった。危険な目にあったんだ、無理もない。

「私、3-Aの西村柚瑠にしむらゆずる

 柚瑠は言った。

「俺は、」

「二年の須藤梓沙君でしょ。…さっきは本当にありがとね。じゃあ」

 バイバイ、と言って柚瑠は歩き出した。
 梓沙はその後ろを歩き出す。柚瑠が歩きながら振り返り、梓沙を見た。

「なんでついて来るの?」

「いや…俺の家がこの先なんです」

「私もこの先だよ」

 二人は無言で歩いた。
 少しして、梓沙が口を開く。

「さっきの…。ああいう危険な目に遭うようなことは、しない方がいいと思います」

「注意してくれるんだ、優しいね。…でも、どうでもいいでしょ。私がどうなっても、赤の他人の君には関係ないでしょ」

「お金が、必要なんですか?」

「…別に」

 そこからはどちらも口を開かなかった。




 同じマンションの前で二人は足を止めた。まさかの同じマンションの住人だった。

「びっくりだね。何階?」

「五階です」

「私は六階」

一緒にエレベーターに乗り、柚瑠がボタンを押した。


 五階に止まり、ドアが開く。

「じゃあ…おやすみなさい」

 梓沙は短く挨拶をしてエレベーターを降りた。廊下を歩いて行くその背中を見つめる柚瑠は、梓沙を呼び止める。

「須藤君」

「?…はい」

 梓沙が振り返ると、柚瑠は開くボタンを押し続けたまま言った。

「さっきのお礼をしたいんだけど、何がいいかなってずっと考えてた」

「いや…別に、気にしなくていいですよ」

「それで決めたんだけど。一つだけ、なんでも言うことを聞くよ」

「え?」

「どんなことでもいいよ。決まったら教えてね。じゃ、おやすみ」

ドアが閉まり、柚瑠の姿が見えなくなった後、梓沙は困った顔で「まいったな…」と呟いた。



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