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第二章『彷徨う親子』

■■■

………………

……

生後十ヶ月ほどまでに成長した裸の赤ん坊が、ベッドの横のカーペットの上で一人座りをしていた。
 むくみのないすっきりとした顔立ちに、ぱっちりとした可愛らしい目。色素の薄い髪も生えている。

きゃっきゃっ

 赤ん坊は笑っている。

「まま、まま」

 ベッドから上体を起した梓沙を見て、はっきりと、“ママ”と口にした。

「まま、まぁま」

短い両手を上下に振ったり、叩いたりして、無邪気にきゃっきゃと笑っている。
 梓沙は困った顔のまま、可愛らしい赤ん坊を見つめた。恐怖心は全くない。

 梓沙は赤ん坊に笑いかけず、話しかけない。伸ばされる小さな手にも触れず、抱っこすることもしない。
……この赤ん坊に、妙な感情を抱いてはいけない。
 この赤ん坊は、自分の子ではない。誰かの子でもない。

 この赤ん坊には…

 命も肉体も、存在していない…



■■■

 目が覚めた。今日は土曜日だ。
 梓沙は自分の部屋のベッドの中で、ぼんやりと天井を見つめる。今の気分は、そこまで悪くはなかった。

(夢の中の子は一体、なんなんだろう…)

 今回で三度目の、赤ん坊が出てくる夢。
 この夢は一体何を伝えようとしているのか。それとも意味などないのだろうか…。



 梓沙は休日を使い、思いつく範囲で『ケンちゃん遊び』について調べてみたが、情報量が少なく、解決策になるようなことは何も知れなかった。東京の高校の数少ない友達にも聞いてみたが、『ケンちゃん遊び』という名前すら聞いたことがないと言われた。

 そして、梓沙のもう一つの悩みの種となっている赤ん坊の夢は、土曜日、日曜日ともに、見ることはなかった。


■■■

 月曜日の朝。騒がしい教室に浮かない顔で入って来た梓沙が目の前の席に座ってすぐ、光一はその背中に向かって声をかけた。

「梓沙。おはよう」

「…おはよう」

「あれから体調、大丈夫か?土日はよく眠れたか?」

「…はぁ」

 肩を小さく上下させてため息をついた梓沙が、横目で光一をじとりと見る。

「朝からうるさいんだけど」

「やっとこっち見たな。実は、梓沙に見せたい物があるんだ」

 軽くにこっと笑った光一は、机の横にかけていたスクールバッグから一冊の分厚い雑誌を取り出した。
 表紙の全体を飾る不気味な日本人形の写真と、『日本全国の怖い話』のタイトル。一目見てそれがホラー雑誌だと分かる。

「…光一って、こういうの好きだったんだな」

「いや、ぜんぜん。この雑誌は俺の元カノから借りてきた。心霊写真とか怖い話が凄く好きな子だったんだよ。自分で自分のこと心霊オタクって言ってたな」

 中三で付き合い始めたが、中学を卒業すると同時に別れ、別々の高校に入学した。別れた後でも友達として仲が良く、お互いに気さくに連絡を取り合っているという。

 光一は雑誌を自身の机の上に置いた。

「梓沙は、東京の学校で彼女はいなかったのか?」

「…高一の時に一人。けど、付き合ってるのか微妙な関係だった」

「あーわかる。俺も、じゃあ付き合う?いいよ、みたいな軽い告白の流れだったから、本気で付き合ってるのか分からなくなってたな」

「……」

 光一のやけに嬉しそうな笑顔を見て、梓沙は眉間にしわを寄せた。

「何だよ」

「いや、恋人の話を梓沙とできるとは思っていなかったから、嬉しくて」

「……どうでもいい話はもういいから。で、この雑誌が何?」

 よく見ると七年前の雑誌だ。

「このページの、ここを読んでくれ」

 見開きのページは『読者の心霊体験談 -第32回- 四国編』のタイトルで、読者からの心霊体験が複数掲載されていた。

「付き合ってた頃、前カノの家に遊びに行った時に、暇つぶしにこの雑誌を見てたんだ。その時に読んだこの話を思い出してさ、気になったんだよ」

 数ある心霊体験の中から、光一が指差した心霊体験のひとつに、梓沙は目を通した。

 タイトルは『社長室の女』


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 『社長室の女』体験者:山寺淳子(仮名)


 私はとある洋菓子店を経営する社長です。
地元で自分の店をオープンさせるために物件を探していたところ、とても条件が良い物件が見つかりました。その物件は道路沿いに面し、駐車場も広く、向かい側には徒歩五分の社員用のアパート付きという優良物件です。

 しかし、優良物件には何かしらの「理由」があり、私が買い取った物件は「事故物件」でした。
 前の店の女社長が、社長室で首を吊って自殺をし、その後お店は廃業となったそうです。

 私は普通の人よりも霊が見えやすい体質ですが、あまり気にしない性格でもあるので、除霊も既に済ませてあるという安心感もあり、迷わず物件を買い取りました。

 店がオープンして三年。何事もなく順調に経営を続けていたある日、私は社長室で女の霊を見たんです。
 私が社長室のドアを開けると急に体が動かなくなりました。
すると、部屋の壁からすーっと女性の霊が現れたんです。長い黒髪、黒いワンピース、足元は黒いパンプスで、女性がゆっくり歩くと…コツ…コツ…という音が響いていました。「ケンちゃん、どこにいるの…」と、とても悲しい声で女性は誰かの名前を何度も呟きながら、やがて向かい側の壁にすーっと吸い込まれて姿を消しました。

 その後も、私は社長室やロッカールーム、廊下や階段で女の姿を見るようになりました。
 私だけでなく、足音を聞いたり物が勝手に動いたりする怪奇現象に怯える社員も出てきたため、再び除霊を行いました。

 除霊が行われて数ヶ月。怪奇現象もおさまり、女性の霊も見なくなりました。
 でも、また除霊の効果が切れてしまった時…あの女性が姿を現し、今度は私や社員、この店に悪影響を及ぼすのではないかと、とても不安です…。

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 梓沙は驚いた。廃墟で見た女性の風貌と、女性が口にした「ケンちゃん、どこにいるの」という言葉。この『社長室の女』の体験談に酷似している。

「どう思う?」

 光一は真剣な顔をして聞いた。梓沙は思ったことを口にする。

「俺が廃墟で見た女性の風貌と同じだ。それにこの「ケンちゃん、どこにいるの」…この言葉も同じ。これってつまり…」

「この洋菓子店にいた霊を、『ケンちゃん遊び』であの廃墟に呼び寄せてしまった可能性があるな……」

 二人は雑誌に視線を落とし黙り込んだ。すると、一人の女子が二人の席の横を通り過ぎようとして足を止めた。

「あー、光一が教室で雑誌見てるなんて珍しい。もしかしてエロ雑誌?」

 と、茶化すように光一に話しかけてきた。梓沙は彼女の顔も名前も知らない。別のクラスの子か。

「違うって」

 光一は笑って応える。

「隠さなくていいよ。男二人で見る雑誌がエロくない訳ないじゃん」

「だとしても教室で堂々と見る勇気はないな。これはホラー雑誌」

 光一は雑誌の表紙を見せた。

「あ、その雑誌懐かしい!その号の雑誌は家にあったなぁ」

「宮崎、こういうの好きだったか?」

「ううん全然。けどその雑誌に、お姉ちゃんが昔バイトしてた洋菓子店の社長が体験した話が掲載されたの。だからお姉ちゃんが買ってきたんだよね」

 それを聞いて、梓沙と光一は顔を見合わせた。光一は先ほどのページを指差して、宮崎に確認する。

「宮崎、その話ってもしかしてこれか?」

「あ、そうそうそれ」

「この店ってどこにあるんだ?」

「南国市の方だよ」

 南国市の場所は梓沙も何となくわかる。引っ越しの移動で飛行機を利用し、初めて高知龍馬空港に降り立った場所が南国市だった。

「お姉ちゃんから実際に話聞いたけど、怖かったなぁ」

「お姉さんも、何か体験したのか?」

「うん。でもお姉ちゃんは実際に女性の幽霊は見てないんだけどね。休憩室で一人でいたら後ろに気配を感じたり、物が落ちたり動いたり。後は階段や廊下で、ヒールを鳴らすコツコツって音を聞いたりとか、そんな感じ。他の社員もお姉ちゃんと同じような体験してたらしいよ」

「……。宮崎、お姉さんはその社長と今も連絡をとってたりするか?」

「うん。凄く仲良いから、たまにご飯行ったりしてるみたい」

 それがどうかした?と、不思議そうに聞く宮崎を、光一は真剣な目で真っ直ぐに見つめて言った。

「宮崎、頼みがある。この件に関して社長に直接話が聞きたいんだ。だからお姉さんに、社長と直接話ができないか頼んでもらえないか?」

「え?」

 宮崎は驚いた。梓沙も驚いて光一を見る。

「あぁうん、別にいいけど。お姉ちゃんにお願いしてみるよ」

「ありがとう、凄く助かる。結果も急いでくれるともっと助かる」

「はいはい。けどタダじゃないからねー。今度の休日、買い物付き合ってよ」

「分かった。部活が休みの時にな」

 光一が気さくな笑顔を浮かべると、宮崎は満足そうに笑って教室を出て行った。

「…社長に直接話を聞くって、そこまでする必要があるのか?」

 梓沙が怪訝な顔で聞くと、光一の顔からは笑顔が消えた。

 そして静かに話し始めた。

「『ケンちゃん遊び』は、四国地方のオカルト掲示板から広がった遊びだ。俺は実際にその掲示板にアクセスしたことはないけど、気になって調べてみたんだよ。けどお目当ての掲示板は中々見つからなくてな…。それで、心霊オタクの元カノなら何か知っているんじゃないかと思って、連絡したんだ」

 光一も、梓沙と同様『ケンちゃん遊び』について調べていたようだ。

「結果、連絡して大正解だった。元カノはその掲示板に実際にアクセスしたことがあって、『ケンちゃん遊び』のスレッドを立てたスレ主のことも知ってたんだよ」

 何も情報が掴めなかった梓沙と違い、光一はこの雑誌以外にも大きな情報を手に入れていた。

「スレ主のハンドルネームは『メリー』。元カノが掲示板にアクセスしたのが四年前で、スレ主の最終更新は七年前の八月で止まっていた。『ケンちゃん遊び』のスレッドが立てられたのが七月上旬。そこから複数のユーザーと『メリー』のやり取りが続いていたけど、約一ヶ月で書き込みは途絶えてる。
 元カノはそのやり取りの最初から最後まで目を通した後、数日後に再度掲示板にアクセスをしたんだ。そしたら、掲示板自体が閉鎖されて無くなってたって。閉鎖される前でラッキーだったって、あいつ笑ってたな」

 元カノの笑顔でも思い出しているのか、さっき宮崎に見せた作り笑顔とは違った顔をして笑う光一に呆れた。
 梓沙は椅子の背もたれの上に頬杖をつき、さっさと続きを話せ、と目で訴える。

「それでな。ユーザーの中の一人が、『ケンちゃん遊び』を試して、『実際に母親の霊が現れた。距離を取って三回唱えて終わらせたのに、その後も心霊現象に悩まされている。どうしたらいいんだ』みたいな相談をコメントしていたんだ。それに対して『メリー』は、『『ケンちゃん遊び』の中で語った親子の事件。その事件の真相に迫れば、それが呪いを解く鍵に繋がる』というコメントを残した。相談をしたユーザーからは、それに続くコメントはなく、『メリー』もそれ以外の対処法は何もコメントに残していなかった」

 光一は淡々とした口調で続ける。

「親子の事件についても調べたんだ。けど、テレビもネット記事にも取り上げられなかった事件なのか、情報が何も得られなかった。なら、実際に事件があった場所に行って、周辺の住民から話を聞いた方が早い、そう考えていたら、母親が自殺した店の現店長に直接話が聞けるかもしれないチャンスが舞い込んできたんだ。行かない理由なんてないだろ」

話し終えた光一は梓沙を見る。ずっと黙っていた梓沙は視線を落としたまま口を開いた。

「理由はわかった。けど…」

「けど、何だ?」

「…お前がこれに関して動く必要って、あるか?」

 梓沙の言葉に、光一はわずかに眉を歪めた。

「……なぁ、梓沙」

 光一は、神妙な面持ちで口を開いた。

「金曜日の数学の授業中。あの時お前、廊下の方気にしてただろ。何か見たんだよな?」

「……っ」

 梓沙はぎくりとして、光一から目を逸らした。光一の顔は険しくなる。

「…廊下にいたのは、母親の霊か?」

 光一は控えめに聞いた。

「梓沙、頼む。俺には隠さずに話してくれ」

 光一からの強い視線を受け、居心地の悪さに梓沙の眉がかすかに歪む。

「ああ…そうだよ。廃墟で見た母親の霊が、廊下を横切って行くのを見た」

 梓沙は光一の目を見ずに言った。光一の顔が強張る。

「……母親は俺を捜してる。先生に当てられた時も、絶対に声を出すわけにはいかなかった。母親に声を聞かれたら、気づかれたら…」

(…もう、逃げられなくなると思ったから…)


「…俺のせいだ」

 光一から、微かに震えた声が聞こえた。

「梓沙を誘ったのは俺だ。お前を、危険な遊びに巻き込んだ…」

 梓沙は光一を見た。その顔は心配になるくらい青ざめている。

「俺が動く必要があるのかって、梓沙は言うけど……梓沙を巻き込んだのは俺だ。俺に責任がある。何もしないなんてことは出来ない」

 チャイムが鳴り、生徒が席に座り始めた。その間、梓沙と光一はお互いを見つめて動かなかった。けどいつまでもこうしてはいられない。梓沙は曇った表情で雑誌に視線を落とし、静かに言った。

「…社長に会いに行くなら、俺も一緒に行くから」

 それだけ言って梓沙が体の位置を戻すと、光一が名前を呼んだ。

「梓沙」

 首を回して振り向いた梓沙を見つめ、光一は静かに言った。

「怖い目に合わせて、本当にごめん…」

「…気にしなくていい」

 光一はどこか泣きたそうな表情をしていた。梓沙は困った顔でその一言を囁き前を向いた。



■■■

 テーブルを挟んで向かい合い、母親と夕食をとりながら、梓沙は居心地の悪さを感じていた。妙に母親の機嫌がいいからだ。

「ねぇ梓沙ちゃん、新しい学校で気になる子はいないの?」

 唐突なセリフに箸が止まった。驚いた顔で目の前の母親を見る。

「…何、急に」

「前の学校では好きな子いなかったでしょう。高校生活も長くないんだから、恋愛しなきゃ勿体無いじゃない」

「……」

 前の学校では、一人だけ恋人ができた。しかし母親には言わず内緒で付き合っていた。母親は、梓沙が恋人をつくることにずっと猛反対をしていたからだ。それなのに…

「恋人ができたら、家に呼んでもいいからね。お母さんにも紹介して」

 目の前のにこにことした笑顔。珍しく母親は浮かれている。
 いつもと違う母親の様子に気づき、梓沙は困惑した。今まで許さなかった恋愛を、ここにきて急に進めてくるなんておかしい…。

「それより母さん、新しい病院にはちゃんと行ってる?」

「病院?」

 母親は不思議そうに小首をかしげる。
 梓沙は嫌な予感がした。

「どこの病院よ。お母さんはどこも悪くないでしょう?」

 にっこり。

 暗い陰を落とした笑顔に、ぞくっと背筋に悪寒が走った。

 母親は前の心療内科から紹介された病院に通っていないようだ。担当医からの電話も無視しているんだろう。梓沙は頭を抱えたくなった。

『非定型うつ病』と診断された母親は、気分の浮き沈みが激しい。こっちに引っ越して来て一ヶ月の間は、新しい環境と職場で母親の気分は沈みがちだったが、この様子だと最近いいことがあったんだろう。

 …その時、思い出した。

 母親の首筋にあったキスマーク。
 今はタートルネックを着ているため首筋は確認できない。けど、その下にまだあの痕が残っているのかと思うと…

 「梓沙ちゃん、早く食べなさい。せっかくの料理が冷めちゃうでしょう」

「…母さん」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。

「最近、何かいいことあった?」

 すると、母親の箸が止まった。頬がほんのり染まり、照れたように声が緩くなる。

「ちょっとだけ…ちょっとだけいいことがあったの。時期が来れば、梓沙ちゃんにもちゃんと話すから」

 にこにこ。
 その笑顔から、梓沙は目を逸らした。


■■■

 夕食を終え、お風呂から上がって頭を拭きながら自室に戻った梓沙は、カーテンの隙間から射しこむ月の光に吸い寄せられるようにベランダに出た。

 柵に手をかけて、夜風に当たる。マンションの敷地内には小さな公園があり、休日の昼間はそこから子供たちの元気な声が聞こえてくる。

 今は無人の薄気味悪い公園をじっと見つめていると–––…公園の出入口にぽつりと明かりを灯した電話ボックスが目に止まった。
 その真横の暗闇から、黒い人影がぬぅっと姿を現し–––

「っ…!」

 驚いてベランダの柵から手を離し後ずさった。心臓がバクバクする。今見えた何かを確認するために、恐る恐る柵に近づいて下を覗き込み、電話ボックスを見る。…そこには誰もいなかった。

「…はー…」

 梓沙はため息をつき、額を押さえた。

 次、いつどこに母親の霊が現れるのか分からない恐怖から、気を抜くことができない状況に大きな疲れを感じた。


「–––須藤君?」


 突然、真上から声が聞こえた。
 驚いて顔を上げると、上の階のベランダからこちらを見下ろす西村柚瑠にしむらゆずるの姿があった。

「西村先輩…」

「部屋、真下だったんだね」

 彼女も風呂上がりなのか、黒髪がしっとりと濡れていた。
 それからお互いに何も言わないため、妙な間が空く。

「…なんでも言うこと聞いてあげるって話、忘れてないよね」

 ふと、柚瑠がそう呟いた。

「え?」

「何…忘れたの?」

(あぁ…あれか)

「覚えてますよ。けど、特にないです」

「今は、でしょ。期限はないから。私は気長に待つよ」

 借りを作りたくないのか、意地でも言わせようとしてくる柚瑠に、梓沙は困り果てた。

「そういえば、須藤君って小さい妹がいるんだね」

「え?」

 その唐突なセリフに、一瞬何を言われたのか理解が遅れた。

「いや、俺は一人っ子ですよ」

「え?……あ、そうなんだ」

 何故か、しまった、というような反応を見せて、柚瑠は梓沙から目を逸らした。梓沙は怪訝な顔をする。

「どうして、妹がいると思ったんですか?」

「別に…何となくだよ。私もう寝るから。おやすみ」

「ちょ、…」

 柚瑠は部屋の中に引っ込んで扉を閉めてしまった。カーテンが引かれる音を聞いたあと、梓沙は、無言で室内に目を向ける。

「…、……」

 そこに居るはずのない小さな子供の姿を想像して、体が震えた。


■■■

 梓沙は再び夢を見た。
 三〜四歳くらいの裸の女の子が、部屋の中を歩き回っている。梓沙はベッドから上体を起こした。

(この子は、成長している…)

 梓沙が起きたことに気づいて、女の子は嬉しそうな顔で近寄って来た。
 ベッドの縁に両手をかけて、よじ登ろうと片足を上げるが上手くいかず必死になっている。
 梓沙は手を貸さず、口を開かず、その姿を眺めていたが、だんだんと女の子がぐずり始めてきた。
 相変わらず「まま」と口にする女の子が、「あそんで」と初めて違う言葉を口にした。

 困った梓沙は、ベッドの上のブランケットに気づいた。それを手にして、女の子の背中から包み込むようにかけてあげる。すると、女の子は嬉しそうにきゃっきゃっと笑いながらブランケットで遊び始めた。

 夢の中でしか会えない子供。
 魂も肉体もない子供。

 この子供は、どこまで成長を続けるのだろう。
 そして何が目的で、夢の中に現れるのだろうか…。



■■■

「梓沙。昨夜、宮崎から連絡があって、社長と直接話ができることになったぞ」

 教室に入ってすぐ、梓沙の目の前までわざわざやって来た光一が少し声を抑えて言った。

「今日の放課後、問題の洋菓子店に行くけど、梓沙も来れるか?」

「ああ、行くよ」

 二人は話しながら自分たちの席につく。
 梓沙はスクールバッグを机の上に置いて、ふと思ったことを、後ろを向いて光一に言った。

「光一、部活は?」

「休むに決まってるだろ。そこの洋菓子店、火曜日が定休日なんだよ。けど社長は店の事務所にいて夕方の四時以降ならゆっくり時間がつくれるらしいから、五時に店に伺うことを伝えてる」

 五時だと、帰宅するころには門限は過ぎているだろう。母親には、補習授業があるからいつもより遅くなると嘘のメールを送っておこうと思った。

「なぁ梓沙…ほんとうに、行くのか?」

 急に不安げな表情になった光一にそう言われて、梓沙は眉間にしわを寄せた。

「何だよ。ついて来るなって?」

「いや、だってさ…女性の霊が元々いた場所に行くんだぞ。戻って来ている可能性もある…そう考えたら、危険な気がするんだよ」

 光一のその心配は梓沙にもあった。だが、光一一人を行かせる気はさらさらない。

「それでも行く」

「…わかった。けど、何か見たり聞いたりしたら、隠さずに、必ず俺に言ってくれ」

 その強い口調と眼差しを受けた梓沙は、黙って頷いた。

「まぁでも、あのタイミングで現れてくれた宮崎には、感謝だよなぁ」

 光一は頬杖をついて笑いながら、しみじみと口にした。まぁ確かにな、と梓沙も思う。

「休日の買い物には付き合うのか?」

「もちろん。借りはきちんと返さなきゃ駄目だろ」

(なるほど。西村先輩も光一のように真面目で、きちんと借りを返したいのか…)

「…あのさ、もし女子から、一つだけなんでも言うことを聞くって言われたら、光一ならどうする?」

「え、何だそれ。エロ漫画の話か?」

「…お前にはもう二度と相談しない」

「あーごめん!えぇとそうだな…。男一人だと行きづらいケーキバイキングに付き合ってもらうかな。俺、甘い物好きなんだ」

 いまさら真面目に答えてももう遅い。梓沙は不機嫌なまま前を向いた。



■■■

 放課後。
 二人は電車に乗って、南国市方面に向かった。電車が動き始めてすぐ、真横に座っている光一が口を開く。

「梓沙、あれから母親の霊は見てないか?」

「…ああ」

 そっか、とどこかホッとしたように呟いた光一は、足元に視線を落として口を閉じた。いつもみたいに光一が一方的に喋らないため、二人の間に沈黙が流れる。
 梓沙は後ろの車窓から外の景色を眺め、ぽつりと呟いた。

「…田舎だなぁ」

「…はは、そうだろ」

 光一は軽く笑い、その流れで梓沙に会話を振る。

「そういえば、梓沙って東京のどこで生活してたんだ?」

「生まれも育ちも世田谷。母親が高知出身だけど、一度もこっちに遊びに来たことはなかったな」

 母親の両親は、梓沙が三歳の時に亡くなっている。出かけた先で、複数台が絡む玉突き事故に二人が乗る車も巻き込まれた、という話を聞いた。

「光一は、東京に遊びに来たことは?」

「ないな。こっちで都会に遊びに行くなら大阪だよ。俺は大阪に親戚がいるから、連休はよく遊びに行ってる」

「ふうん…」

「あ、そうだ。うちの学校の修学旅行って、北海道か東京なんだよ。東京になったら、梓沙が生まれ育った場所の案内してくれよな」

 梓沙は車窓の外を眺めながら、頭の中では生まれ育った景色を、ぼんやりと思い出していた。



■■■

 最寄り駅から徒歩十五分。車通りが多い道路沿いに、ヨーロッパの家のような外観をした建物が見えた。
 目的地の『coco洋菓子店』だ。

 駐車場の方に回り、事務所に通じる扉の前で光一がインターフォンを押す。すぐに女性の声で応答があった。光一が丁寧な挨拶で名前を告げると、扉が開き、若い女性社員が笑顔で二人を出迎えた。

 二階の応接室に通された二人は、校長室にあるような上質なソファに並んで座る。

「すぐに社長呼ぶから、ちょっと待っててね」

 女性社員は気さくな対応でそう言い残し、応接室を出て行った。

「光一。今更だけど、社長にはなんて説明するんだ」

 ここに出る女性の霊に悩まされていると、正直に話すのはどうかと思った。

「そこはもちろん対策済みだ。今年の映画甲子園に向けたホラー映画を制作するために、実際に心霊体験をした人達に取材をして回っているってことになってるからな」

 光一は笑みを浮かべる。

「うちの学校は、去年も映画甲子園で賞を受賞して、地元じゃ有名なんだよ。宮崎が言うには、社長もそれで快く受け入れてくれたってさ」

 光一がそう言い終えたと同時に、入り口の扉が開き、スーツを着た女性が入って来た。

 二人はソファから腰を上げた。柔和な笑みを浮かべた女性は二人に腰掛けるよう促し、向かい合わせでソファに座る。

「はじめまして。株式会社coco、社長の山本美代子みよこです」

 美代子は五十代だが、見た目も声も年齢より若々しい。

「はじめまして、叶光一です」

「はじめまして、須藤梓沙です」

 二人も挨拶をした。
 美代子はご機嫌な様子で話し始める。

和香わかちゃんの妹さんの同級生よね。和香ちゃんから電話で、あの雑誌に掲載された私の体験談を取材したい高校生がいるって言われた時はびっくりしたわ」

 梓沙はふと、部屋の向こう側から鳥が鳴く声を聞いた気がして、一瞬そっちに意識が持っていかれた。

「今年の映画甲子園はホラー映画なのね、毎年楽しみにしてるのよ。実は、私の大学生の息子が貴方達の学校の卒業生でね、映画部だったの。今は東京の大学でその道に進む勉強をしているわ」

 これも何かの縁が働いてるのかしらね、と嬉しそうに笑う。

 光一が美代子と軽い雑談を交わした後、スクールバッグからあの雑誌を取り出してテーブルの上に置いた。

「この雑誌に掲載された体験談について、今日はぜひ、お話をお伺いしたいと思っています」

 美代子は「あらぁ、懐かしい」と、雑誌を見つめた。

「私もこの雑誌は取っておいたんだけど、何年か前の年末の大掃除で間違って処分してしまったのよ」

 光一が見開きのページを開いて雑誌の向きを美代子の方へ向けると、美代子はそのページを覗き込み、うんうんと頷く。

「『社長室の女』。そうこれね」

「三年前に除霊をしたそうですが、その後、この女性の霊を見ることはなくなったんですか?」

「それがね、やっぱり除霊の効果は長続きしなかったのよ。二年前くらいから、また女性の霊を見るようになったわ」

 美代子は上体の位置を元に戻し、困り果てた表情を浮かべた。

「けど、こちらに危害を加えてくるようなことは何も起こらなかった。霊の姿が見えるのは私だけで、社員は、足音を聞いたり物が勝手に落ちたりするくらいの体験だったから、お互いに慣れてくると気にならなくなって、今はそのまま放置しているの。でも、『事故物件』を買い取ったことは良くなかったわね、後悔しているわ」

 美代子の表情は先ほどのように明るくはないが、口元はずっと笑みを浮かべている。

「この雑誌にも書いてあるけど、このお店の前経営者の女性が、社長室で首を吊って自殺してるのは事実よ。…でも、これ以上のことは怖くて知りたくもなかったから、当時は調べもしなかったわ。でもね、私もだんだんと気になってしまって、二度目の除霊が終わった後に、親子の事件について調べてみたのよ」

 それを聞いた光一と梓沙は顔を見合わせた。親子の事件は、二人が一番知りたいことだった。

 先が気になるところで扉がノックされ
「失礼します」と声が聞こえた。扉が開き、さっきの女性社員がトレイを手にして入って来た。

 トレイに載った紅茶とチーズケーキを、梓沙と光一の前に配り始める。

「このチーズケーキは来月に発売する新商品なの。どうぞ、召し上がって」

 紅茶だけを受け取った美代子は、二人に向かってにっこりと笑った。
 女性社員が軽い会釈をしてから部屋を出て行く。梓沙と光一は「いただきます」と言って、チーズケーキの皿とフォークを手にした。

 チーズケーキを切り分けながら、光一は言った。

「ここの洋菓子、美味しいって有名ですよね。去年放送されたテレビの特集番組で見てから、ずっと食べてみたいって思っていたんです」

「あら、あの番組も見てくれたのね、嬉しいわ。甘い物は好き?」

「はい、大好きです」

 光一が屈託のない笑顔を見せると、美代子は嬉しそうに微笑み、場が和やかな雰囲気になる。
 光一のコミュニケーション能力の高さが、梓沙は羨ましいと心底思う。

「叶くんは地元の子なのね。じゃあ、隣の子が東京から来た転校生ね」

 美代子の視線が梓沙に移る。梓沙は思わずぎくりとした。

「須藤君は、甘い物好き?」

「あ…はい、好きです」

「ふふ、よかった。通販もやってるから、美味しかったら友達や家族にも勧めてもらえると嬉しいわ」

 そこから他の商品についての話が続き、ようやく落ち着いた美代子はカップを持って紅茶を一口飲んだ後、

「えーと、どこまで話したかしら。…あぁそうそう、親子の事件について調べたこと、だったわね」

 やっと話が戻った…、と二人は若干疲れを感じながら思った。

「この辺に住む常連さんに話を聞いたの。この建物は売りに出される前は『ベイクショップ・コロネ』という店名で、前社長の名前は坂本恵子さかもとけいこさん。旦那さんとは死別して、五歳の一人息子のシングルマザーだったそうよ」

「親子の住まいは、社員アパートの二階の角部屋にあったの。そこのアパートは今でも社員用として使用しているわ。で、息子の名前は坂本健一郎けんいちろうくん。元気で明るい子で、社員やご近所の人たちからも可愛がられていて、恵子さん以外の大人からも“ケンちゃん”って親しく呼ばれていたの」

 “ケンちゃん”…それは、息子の坂本健一郎くんのあだ名だった。

「恵子さんは仕事と子育てでとても忙しい毎日を送っていた。ケンちゃんと過ごす時間も十分に取れなかったけど、とても息子を可愛がっていて、大切に育てていたそうよ。……けど、ある日、深夜近い時間帯に、ケンちゃんの大きな泣き声と、恵子さんの怒鳴り声が響いたの。それはアパート全体だけでなく、周辺の家にも聞こえるくらいの声だった。社員もご近所さんも、恵子さんがケンちゃんに怒鳴る声なんて一度も聞いたことがなかったから、とてもびっくりしたそうよ」

 それを聞いた二人は、部室でのことを思い出した。
 子供の泣き叫ぶ声と、母親の怒鳴り声が録音されたビデオカメラ…まさか、あれは…。

「でも、恵子さんがケンちゃんを怒鳴ったのはその夜の一度きり。溜め込んでいたストレスが爆破してしまったんだろうって、皆、恵子さんに何があったのかも聞かずにそっとしておいたんですって」

 –––その出来事から数日後に、幼稚園で母親の迎えを待っていたケンちゃんは行方不明になり、数週間後、山間の川で遺体となって発見された。ケンちゃんを失った悲しみから母親は精神を病み、社長室で首を吊って自殺をした……。

 美代子が調べた事件の話は、『ケンちゃん遊び』の親子の事件に酷似している。

 梓沙が廃墟で呼び寄せてしまった母親の霊は、この建物内で自殺した坂本恵子という人物で、間違いないだろう。
「自殺した恵子さんは成仏ができないまま、亡くなった息子をずっと捜し続けているのね…」

 視線を落とし、悲しい顔をした美代子は一旦話を止めると、紅茶を飲んでほぅと息を吐いた。すると、何か思い出したように口を開く。

「あぁそうそう、こんな話も聞いたわ。ケンちゃんが亡くなったあと、恵子さんはケンちゃんがとても大切にしていたクマのぬいぐるみを必死に捜していたそうよ。でも、アパートや幼稚園、ケンちゃんが歩いて行ける範囲、ケンちゃんの遺体が発見された周辺を捜しても、ぬいぐるみは見つからなかった。…きっと、ぬいぐるみを息子の形見にしたかったんでしょうね」

(……、っ)

 それを聞いた梓沙は、突然得体の知れない悪寒を感じた。片腕をぎゅっと掴み、室内のあちこちに視線を巡らせるが、特に異変は見当たらない。

「…梓沙、どうした?」

 梓沙の異変に気づいた光一。その顔は、心配そうに梓沙を見つめる。

「…いや、何でもない。ちょっと寒気がしただけだ」

「……」

 光一の表情は曇るが、何も言わなかった。
 梓沙は紅茶を飲んだ。熱々だった紅茶はちょうどいい温度になっていて、飲むと気持ちが落ち着いた。

「以上が『社長室の女』の全貌よ。映画制作の力になれそうかしら?」

 美代子は二人に向かってにこりと微笑んだ。光一が笑顔で「はい」と頷く。

「あの…」

 ここで初めて、梓沙が美代子に向かって口を開いた。

「社員アパートの方も、見せていただくことは可能でしょうか」

「ええ、もちろん。さっき紅茶を持って来てくれた川上さんに、案内をお願いするわね」




 話を聞き終えたあと、美代子に続いて応接室を出る。すると、廊下の突き当たりにある扉から、鳥の鳴き声が聞こえてきた。

「小鳥を飼っているんですか?」

「ええ。セキセイインコよ」

 光一の問いかけに答えた美代子は、その扉の方をちらっと見てから、二人に言った。

「あそこが例の社長室よ。中、見てみる?」

 二人は顔を見合わせる。お互いの顔に、社長室を見ることを拒絶する色が浮かんでいた。
 光一が笑顔で丁寧に断り、三人は美代子を先頭にして一階に向かって歩き出す。
 すると、背後の社長室の扉の向こうから、セキセイインコが人の言葉で鳴く声が聞こえてきた。

ケンチャン、ドコニイルノ、チュンチュン、ケンチャン、ドコニイルノ、チュンチュン

 背筋がゾッとした。
 若干青ざめた顔で固まった二人を見て、美代子はあらあらと困った顔で笑う。

「一人で社長室に居るのが怖いから、セキセイインコを飼い始めたんだけど…。あの言葉を覚えちゃうとは思わなかったわ」



■■■

 一階の事務所に入って行くと、受付の近くの席で一人パソコンに向かっている川上に、美代子は声をかけた。

「川上さん、お疲れ様」

「お疲れ様です、社長」

「ちょっとお願いがあるんだけど、二人を社員アパートまで案内してもらえないかしら」

「はい、分かりました」

 川上は明るい笑顔で席を立った。定休日のためか、事務所内には川上しか社員はいない。
 そこで、光一が思い出したように口を開いた。

「あの、お二人にお聞きしたいんですが、『ケンちゃん遊び』という言葉を聞いたことありませんか?『コックリさん』のような降霊術の遊びなんです」

 美代子は不思議そうな表情を見せた。

「いいえ、私は聞いたことないわ。川上さんはどう?」

「私も、聞いたことありません」

 川上は首を振った。



■■■

 美代子にお礼を言って店を出た二人は、川上の案内の元、社員アパートに向かっていた。

「ホラー映画を制作してるんだってね。お店の方も幽霊出るけど、社員アパートも、幽霊が出るっていうのは聞いた?」

 川上の話に二人は驚いた。
 光一が口を開く。

「それは、お店に出る女性の霊ですか?」

「それが違うの。子供なんだって。夜中に外廊下からパタパタ足音がしたり、笑い声がするっていうのは聞いたよ。私も新入社員の時はあのアパートに二年くらい入居してたんだけど、一度も体験しなかったなぁ。私は幽霊とかぜんぜん見えないから。そういうの体験してるのは一部の社員だけだよ」

 子供…。
 アパートに出るその霊は、ケンちゃんだろうか。息子も成仏ができずに、母親と暮らしていた場所を彷徨っているのだろうか…。




 徒歩五分ほどの閑静な場所に、二階建ての社員アパートはあった。アパートの真下には駐車場があり、一台の車が止まっている。

 「ここよ。見た目はどこにでもあるフツーのアパートでしょ」

 駐車場からアパートを見上げる二人に、川上はそう言って笑った。中まで見せてもらうことは、流石にお願いできない。

「あれぇ川上さん、若い男の子二人も連れて何してんの?」

 突然、建物の左側に設置された鉄骨階段から女性の声が聞こえた。

 三人がそちらを見ると、鉄骨階段に腰掛けてタバコを吸っている二十代の女性がいた。
 金色に染められた長髪と、程よく焼けた小麦肌。大きなローマ字のロゴがプリントされた上下スウェットの服。見た目はギャルに近い。

「竹内さん、お疲れ様です。この二人は社長のお客さんですよ」

 川上が他人行儀な口調で挨拶をすると、金髪の女性は何も言わずにひらひらと手を振ったあと、すぐに興味を無くしたかのように手元のスマホを弄り始めた。

 それを見た川上が少し迷惑そうな表情を浮かべてから、二人に向かってこそっと言った。

 「彼女は私のふたつ上の先輩、竹内穂乃香たけうちほのかさん。若い男の子大好きな人だから、絡まれないように気をつけてね。それじゃ、私は仕事に戻るから」

 二人はここまで案内をしてくれた川上にお礼を言って頭を下げた。
 川上が仕事に戻って行く背中が見えなくなった後、光一が地面に視線を落とし、眉をひそめて言った。

「親子の事件の真相に迫れば、それが呪いを解く鍵に繋がる…。話を聞いて思ったけど、やっぱり、母親を成仏させることが有力なんだろうな」

 梓沙も同意見だ。
 だが…

「二回も除霊をして効果がなかった霊を、どうやったら成仏させられるんだろうな…」

「除霊じゃなく、浄霊をすれば効果があるかもしれないぞ」

「じょ……何がどう違うのかよく分からない」

「浄霊は、霊が行くべき世界へ導くためのお祓いだ。除霊は、霊をその場から追い払うだけで、霊を救うためにはならない」

「詳しいんだな」

「元カノから教えてもらった」

 視線を上げて梓沙を見た光一は軽く笑ったあと、また真剣な表情に戻る。

「社長も言ってただろ。母親の恵子さんは、亡くなった息子をずっと捜し続けているって。息子に会うことができれば、母親は成仏できるんじゃないかな」

「…このアパートに出る子供の霊が、ケンちゃんの可能性がありそうじゃないか?」

「それは俺も思った。けど、霊と霊を引き合わせて成仏させるなんてことは俺達にはできない。やっぱりこの先は、それ専門の寺か神社に依頼するしかないな…」

 光一は腕組みをして、眉をひそめる。

「…それと、あと一つ、気になってることがあるんだよ」

「何だよ」

「社長と川上さんに、俺が『ケンちゃん遊び』を知っているかって聞いただろ?けど、二人は知らなかった」

「あぁ、そうだな」

「俺は、『ケンちゃん遊び』を掲示板に流した『メリー』は、社長なんじゃないかって思ってたんだよ。もしくは、あの店の社員の誰かじゃないかってな」

 確かに。社長じゃないなら、社員の誰かが流した可能性は高い。
 そう思ってから、梓沙は光一を見て眉をしかめた。

「光一、もしかして、『メリー』のことも調べるつもりなのか?」

「いや…」

 光一は首を振る。

「仮に本人が見つかって、それで問題解決に繋がるような流れになるとも限らないしな。今は梓沙の身の安全が最優先だ。一刻も早く浄霊をしてもらえる依頼先を探し、」


「–––ねぇそこの二人。今『メリー』って言った?」


 光一の声を遮るように、竹内穂乃香の声が近くから聞こえた。
 いつの間にかすぐ側まで近づいて来ていた穂乃香を同時に見た二人は、驚いた顔で固まる。

 穂乃香はにやっと笑った。

「君たち、『ケンちゃん遊び』について調べてるんだぁ。私、その『メリー』ってハンドルネームを使った人物、知ってるよ」

「「えっ」」

 二人は同時に声を上げた。
 穂乃香は吸っていたタバコを携帯灰皿で消し、ポケットにしまう。

「私、竹内穂乃香。二十七歳。仕事はwebとかグラフィックのデザイナー。店の表には出ない仕事だから、ネイルも髪色も自由なんだよねぇ」

 と言いながら髪を指先に絡めて弄る。舌足らずの口調はわざとらしさがあった。

 光一と梓沙は黙ったままお互いの顔を見る。
 光一は、穂乃香みたいな人間が苦手なタイプだった。梓沙に対応を任せたい気持ちはあるが無理だなと諦めて、仕方なく笑顔で対応しようとしたその時、穂乃香が梓沙の前まで距離を詰め、下からずいっと顔を近づけた。いきなりの行動に梓沙の肩がびくっと跳ねる。

「え〜君めっちゃタイプなんだけどぉ。お名前は?」

「え…と、須藤梓沙です」

「あずさ?えーかわいい名前〜」

穂乃香はくすくすと笑う。馬鹿にされているような気がした梓沙は、思わず顔をしかめた。

 光一はため息をつき、梓沙の肩を掴んで二人の間に割って入ると、目の前の穂乃香に言った。

「あの、さっき『メリー』のことを知っているって言いましたよね?」

 穂乃香がむっとした表情で光一を見上げる。

「人に話を聞く前に、名前くらい名乗ったらどうなの、失礼な子だなぁ」

 どっちが失礼だ、と光一は内心で吐き捨てるが、笑顔が引き攣らないように気をつけながら言った。

「失礼しました、俺は叶光一です。それで、『メリー』のことについて、」

「うわあ嘘っぽい笑顔。君、私みたいな女って嫌いでしょ?」

「……」

 穂乃香はケラケラ笑う。光一の顔から完全に笑顔が消えて氷のように冷たい表情になる。その額に怒りマークが見えた。

「ねぇ梓沙くん、年上の女性ってどう?好き?まぁでも高校生からしたら二十七の女なんてオバサンかぁ」

 一人ハイテンションな穂乃香は、いきなり梓沙の腕に抱きつき、逆ナンを始めた。

「あの、ちょっと…っ」

「てか連絡先教えて〜!今度何か美味しいランチご馳走するからぁ、おねが〜い!」

 お願いお願い〜と、抱き締めている腕を自分の体ごと左右に揺らす穂乃香。
 焦った梓沙は光一に助けを求めて視線を送る。それに対して、しけた顔をした光一は無言で首を振り、『NO』と伝えて来た。

「あのっ、すみません、ちょっと話を、聞いてください!」

「うん、なぁに?梓沙くんの話なら何でも聞いてあげる」

 ぴたっと動きを止めた穂乃香は、ぶりっ子に近い上目遣いで梓沙を見上げる。ひとまずほっとした梓沙は、穂乃香を見下ろし控えめに言った。

「あの、さっき『メリー』のことを知っているって言いましたよね」

「うん。オカルト掲示板に『ケンちゃん遊び』を流した人物のハンドルネームだよ、それ」

「そうです。俺達、その『メリー』って人物が誰なのか知りたいんです。教えてくれませんか?」

「私だよ」

「……え?」

「だーかーら、その『メリー』は、梓沙くんの目の前の人物ってこと」

穂乃香はニコッと笑う。

「あはっ、びっくりした?」と言って、梓沙の腕から手を離した穂乃香は、驚いた顔をしている梓沙と光一の顔を順に見て、小首を傾げると薄い笑みを浮かべた。

「で。二人はどうして『メリー』のことを知りたいの?」

 急に口調が変わったかのように聞こえた。
 梓沙が「実は…」と口を開くと、穂乃香が手のひらを突き出して「あ、待って」と制止する。

「立ち話もなんだし、私の部屋で話聞くよ」

 穂乃香は突き出した手で後ろのアパートを指差した。二人は黙って顔を見合わせるが、穂乃香がさっさとアパートの方に歩いて行くため、仕方なくお邪魔することにした。


■■■

 二階の角部屋、和室6畳の1K。
穂乃香の後に続いて和室の中まで進んだ二人は、どこかで見たことがあるような気がして、はっとした。

「光一、この部屋って…」

「あぁ…」

 –––ビデオカメラに映った和室に似ている。

 6畳の広さも、ベランダと押入れの位置も一緒だ。ただ、ビデオカメラに映っていた家具はなく、レイアウトもまったく違った。
 ベージュやホワイトを基調にしたナチュラルなインテリアで統一された部屋は、見た目がギャルの彼女からは想像もできない。

「突っ立ってないで適当に座ってよ。何、もしかして女性の部屋だから緊張してる?」

 ベッドの縁に腰掛け、にやにや笑う穂乃香。
 二人は何も言わず、ベッドの前に置かれているテーブルのそばに並んで座った。

「『メリー』ってハンドルネームは、怪談話の『メリーさん』からとったの。メリーさんって知ってる?知らない女の子から「私メリーさん。今あなたの後ろにいるの…」って電話がかかってくる都市伝説だよ」

 穂乃香は言いながら、加熱式タバコを吸い始めた。
 梓沙はちらっと横目で光一を見た。光一は無言のまま穂乃香と目すら合わせず、完全に会話を破棄している。珍しいなぁと思いながら、梓沙は穂乃香に尋ねた。

「『ケンちゃん遊び』は、貴女が考えたんですか?」

「うん。私が考えた降霊術遊びだよ」

 穂乃香は梓沙に向かってニコッと笑う。

「けど、ぜんぜんウケなかったんだよねぇ…」

 残念そうにふぅと息を吐き、足を組むと、同意を求めるように梓沙に言った。

「『ケンちゃん遊び』って、そんなに面白そうな感じしないじゃない?事件の話も良くありそうな話だし、降霊術のやり方も『コックリさん』や『ひとりかくれんぼ』に比べたらぜんぜん凝ってないでしょ。考えた私自身も魅力感じないもんなー。でもこういうの考えるの苦手だからさぁ、店に出る親子の事件を参考にして話つくって、掲示板に流したってわけ。ま、流行らせることが目的じゃなかったから、どうでもいいんだけど」

「…じゃあ、一体何が目的だったんですか?」

 穂乃香は無表情になり、梓沙をじっと見つめ返す。

「ただの暇潰し」

 と言って笑った。
 梓沙は眉をしかめた。その隣でも、同じように光一が無言で眉をしかめている。

「親子の事件の真相に迫れば、それが呪いを解く鍵に繋がる…。貴女は、心霊現象に悩んでいたユーザーにそう返信をしましたね」

「ああ、私に相談してきたユーザーにとりあえずそんなアドバイスしたなぁ。その後ソイツどうなったか知らないけど。どうせ相談事自体が嘘だったんでしょ。ま、実際に試して本当に心霊現象が起こるなら、もっとたくさんのユーザーで盛り上がってくれたら良かったのに。そしたら『ケンちゃん遊び』も都市伝説として定着したかもしれないのになぁ」

 まるで他人事のように言って、くすくすと笑う穂乃香は「他に質問はある?」とタバコを咥える。

「てか、なんでこんなことが知りたかったの。夏休みの自由研究みたいなことでもしてるわけ?」

 内心ため息をついた梓沙は、ここに来るまでの経緯を順を追って話した。

「……嘘、マジ?『ケンちゃん遊び』をやって、ほんとうに母親の霊が現れたの?」

 黙って話を聞いていた穂乃香は、大きく目を見開いた。

「はい…俺は二度も、母親の霊を見ているんです」

「それって、梓沙くんが取り憑かれてるってことじゃん。ちょーヤバいじゃん!」

 穂乃香は加熱式タバコを片付けるとベッドの縁から腰を上げ、畳の上を四つん這いで移動しながら梓沙のすぐ隣まで近づいて来た。

「で、どうすんの?解決策はなにかあるの?このままだとヤバいでしょ!」

「いや、そう……はい、そうなんです、だから、」

「お祓いとかした方がいいよ!幽霊相手ならそれが一番だよ!」

「はい、まぁそうするつもりなんですけど、」

「そうだ!私のお母さんの知り合いに霊能力者がいるんだけど、実際に霊に取り憑かれた人を助けた実力もある人だから、一度見てもらったら?いや、見てもらった方がいいよ!絶対いいって!」

「っ、…」

 四つん這いのポーズのまま顔を近づけ、凄い勢いで話す穂乃香に押され気味になっている梓沙は、若干怯えながら後ろに身を引いた。何もしゃべらない光一の肩に背中がぶつかる。

「私が霊能力者の人に連絡してお互いのスケジュールを組むからさ、梓沙くんの連絡先教えてくれる?」

「いや、でも…」

「何、もしかしてもう依頼先決めてたの?けど、依頼料とかめっちゃ高いんじゃない?私に任せてくれたらタダにするよ、タダ!」

 梓沙は助けを求めて、後ろにいる光一に視線を送る。梓沙の後ろで光一は困った顔をしていたが、耳打ちで「霊能力者が信用できる人なら、頼った方がいいかもしれない」と囁いた。

「わ、わかりました…。竹内さん、宜しくお願いします」

「オッケー!ただし、条件がある。依頼料がタダの代わりに、私と一回デートすること!」

 えっ、と呟いた梓沙の口元に人差し指を近づけて、穂乃香は囁くように「大丈夫、エロいことは抜きだから」とにっこり笑う。
 梓沙はもう一度光一に助けを求めて視線を送った。引き攣った顔をした光一は、梓沙から目を逸らして小声で言った。

「いいんじゃないか、デートくらいならさ…」

「俺の目を見て言え…」

 間近で梓沙の目を真っ直ぐに見つめた光一は、今度は真剣な顔で言った。

「梓沙、今は一刻を争う事態だ。探す手間も省けるなら、一回のデートくらい安いと思わないか」

「……」

 梓沙は恨めしそうに光一を睨んだ。

「ちょっとぉ、私の存在無視して見つめ合わないでくれる〜。で、どうするの?私の気分が変わらないうちに早く決めてよねぇ」

 穂乃香のやや不機嫌そうな声が聞こえた。梓沙は内心でため息をつく。

 だいたい、梓沙がこんなことになっているのは暇潰しという理由で『ケンちゃん遊び』を掲示板に流した穂乃香にも原因がある、のに。
 なんで俺が…という気持ちをぐっと堪えて、梓沙は言った。

「わ、わかりました…宜しく、お願いします」

 やったぁ!と喜んだ穂乃香はスマホを取り出して「じゃあ連絡先教えて」とにこにこ笑う。梓沙はスマホを取り出し、穂乃香と連絡先を交換した。

「…え、何だあれ」

 突然、光一が呟いた。
 梓沙は、光一が見つめている視線の先を追った。天井近くの壁の隅に、長方形の紙が貼られている。

「…お札」

 梓沙はぽつりと口にして、お札を見つめる。

「あぁ、あれ。やっぱり部屋にあると不気味だよねぇ」

 穂乃香はなんでもないことのように笑って言った。梓沙はちらっと穂乃香を見る。

「なんで、あんなもの…」

「そりゃあ、幽霊が出るからだよ」

 穂乃香は脅かすような口調で言って、にやりと笑う。

「生前の親子がこのアパートに住んでたことを社長から聞いたから来たんでしょ。で、その親子が住んでた部屋っていうのが、ここってワケ」

 穂乃香は両手を軽く広げて、室内を見回す。

「住み始めて最初の頃は、部屋の中で子供の足音や声を聞いたよ。夜中だからもーうるさくてさぁ、寝不足になっちゃって最悪だったよ。で、さっき言った霊能力者に相談してお札を貰ったの。そのお札を貼ってからは、この部屋では何も起こらなくなったんだよねぇ。逆に居心地良すぎてもう七年だよ」

 とっくに入居の期限を過ぎているが、幽霊が出る部屋だと分かれば新入社員は誰も住みたがらない為、特別に住まわせてもらっているんだとベラベラ話す穂乃香から、梓沙はもう一度お札に視線を向けた。

 あんな一枚のお札に効果があるなら、穂乃香が依頼してくれる霊能力者の力は信用出来るかもしれない。梓沙はここにきてやっと安心できた。



 梓沙と光一はアパートを出た。
 二人が並んで帰って行くのを、二階の外廊下から見下ろしていた穂乃香は、梓沙の背中に向かって叫んだ。

「まったねぇ梓沙く〜ん!」

 足を止めた梓沙が振り返ると、ハートを飛ばす勢いで手を振る笑顔の穂乃香が見えた。梓沙は苦笑いを浮かべる。

「光一くんも、またね〜」

「さようなら」

 一緒に足を止めて振り返っていた光一はその一言を吐き捨てて先に歩き出した。梓沙はその背を追いかけて隣に並び、光一の横顔をちらっと見た。光一は前を向いたまま口を開く。

「梓沙。霊能力者に会う予定が決まったら、俺に教えろ」

「え、…なんで」

「決まってるだろ。俺も同行するからだ」

「…俺、思うんだけど。これ以上俺に関わったら、光一も危ないかもしれないだろ。だから、」

「はぁ…」

 ため息をついて急に足を止めた光一は、不機嫌な顔で梓沙を見た。やや困惑した梓沙と目が合うと、ばつが悪そうに目を逸らす。

「梓沙の心配は嬉しいけど、それ以上に俺はお前が心配なんだ。…これは俺が蒔いた種なんだから、最後まで付き合う」

「………わかったよ」

 そう言うしかなかった。




■■■

 梓沙が帰宅すると、ちょうど夕食の準備ができていたところだった。
 制服のまま母親と夕食を済ませて、すぐに風呂に入る。湯に浸かる時間がいつもより長くなるほど今日は疲れていた。風呂から上がると一気に睡魔に襲われて、早々にベッドに潜り込んだ。




……………………
……………
……

 ……目が覚めた。

 薄暗い部屋の天井が見えた。体の感覚はある。頭もはっきりとしていて、これが夢なのか現実なのかわからなくなる。

 ふと、部屋に気配を感じた。

 首を真横に向けると、部屋の片隅…クローゼットのそばで、子供が両足を抱えてうずくまっている。

 小学生くらいまで成長した夢の中の女の子が、ブランケットで裸の体を頭まで包み込んで俯いていたが、梓沙の視線に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。
 その顔を見て、梓沙は息を呑んだ。
 梓沙と同じ瞳の色と、肩まで伸びた同じ髪色。
 顔も、幼かった頃の梓沙に似ていた。まるで自分を見ているような気分になる。

「…なんで、ママはおしゃべりしてくれないの?」

 女の子は悲しそうに言った。はっきりとした言葉をしゃべっている。

「ねぇ、おしゃべりしようよ…『    』と遊んでよ…。ねぇ…つまんないよ…」

 梓沙は眉をひそめた。
 女の子が自身の–––…『名前』、だろうか。それを口にした瞬間、そこだけ声が途切れて聞こえなかった。
 女の子は膝に顔を埋めて、泣き出してしまう。

「…っ、やっぱりママは…『     』のことが、嫌いなんだね……」

 しゃくり上げ、肩を震わせながら言う。

「…それにもう…『    』のことなんか、わすれちゃったんでしょ……だって…代わりがいるもんね……」

 そしてもう一度、ゆっくりと顔を見げた。

(……!)

 目玉がくり抜かれたかのように、ぽっかりと空洞になっていた。
 その空洞から、開いた口から、どろどろとした血が溢れ出す。


「返シテ、『    』ノ『   』ヲ、返シテ」



 返シテ、と繰り返す女の子の顔が、赤黒い血で染まっていく–––

第三章

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