見出し画像

第四章『再会と別れ』

■■■

 翌日。
 目を覚ました梓沙は、首に残る圧迫感を不快に思いながらベッドから降り、制服に着替え始めた。シャツのボタンを留めながら、ふと見た鏡に映る自身の姿を見て、胸元のボタンを留めていた手が止まった。
 首筋にそっと手をやる。
 そこには、両手で首を絞められた痕が残っていた…。




■■■

 母親とろくに口を利かないまま、三日が過ぎた。

 水曜日の放課後。
 この日は、朝からずっと雨が降っていた。
 梓沙は電車から降り、黒い傘をさして、マンションまでの道のりを無言で歩く。

 この三日間の行動がぼんやりしていて、よく思い出せない。
 だが、何も考えず、与えられた生活をしていると楽だった。
 このまま、自身の感情を殺して生きた方が…

「……?」

 マンションの公園の前を歩きながら、ふと視線をやった先に見えた人影に気づき、足が止まる。
 公園内の片隅に屋根付きのベンチがあり、そこに柚瑠が一人で座っていた。雨の日の公園には柚瑠しかいない。
 私服姿の柚瑠は、身動きもせずに俯いている。落ち込んでいるような、考えごとをしているような、そんな様子だった。

「………」

 梓沙はその姿を見つめながら、しばし佇んだ。
 近づいて声をかける理由はない。そっとしておこうかと思ったが、柚瑠と初めて出会った日の記憶–––……知らない男の車の中から、自分に助けを求めてきた柚瑠の姿を思い出した瞬間、足は公園の中へと進んでいた。


 すぐそばまで近づいて来た梓沙に気づいた柚瑠が、びくっと肩を震わせて顔を上げた。
 怯えたような目をしていた。
 梓沙だと気づいた瞬間、その顔に安堵の色が浮かぶ。

「あぁもう、びっくりした……驚かせないでよ、須藤君」

「すみません…」

 柚瑠の横には薬局の小さいビニール袋が置いてあった。買い物に出かけた後にここにずっと座っていたのか、寒そうに身を縮めている柚瑠を見て、梓沙は口を開く。

「あの…どうかしたんですか?」

「……別に」

 素っ気ない態度で、柚瑠は梓沙から顔を逸らした。梓沙は遠慮がちに言った。

「外、寒いですから、家の中に入った方が…」

「あのさ」

 やや強い口調で、柚瑠は梓沙に顔も向けずに言う。

「私の相談事、聞いてくれる?」

「え?…あ、はい」

「誰にもしゃべらないって、約束して」

「…はい」

 軽く戸惑った顔で梓沙は頷き、屋根の下に入って傘を閉じると、柚瑠の隣に腰を下ろした。
 しばらくの間、二人は沈黙した。雨音だけが耳に響く中、柚瑠がようやく静かに口を開いた。

「私……妊娠したかも、しれなくて…」

「…え?」

 梓沙は耳を疑った。
 柚瑠は下を向いたまま、膝の上で組んでいた両手をぎゅっと握りしめる。

「…心当たりはあるの。それで最近、胃のむかつきとか、吐き気が酷くて……。生理《あれ》も、予定日過ぎてるし…」

「その、相手の人は…」

「…出会い系。二十代前半の会社員で、……一回ヤッて、もうそれ以降は連絡も取り合ってない」

 震え声でそう話した柚瑠は無言になる。
 梓沙は視線を落とし、わずかに考えてから、また柚瑠を見て落ち着いた声で言った。

「…調べられるなら早いうちに、調べた方がいいですよ」

「うん…。今日、学校休んだの。それでさっき、薬局で検査薬買って来たんだ。でも……結果を知るのが怖くて、だからずっとここで、悩んでた」

 柚瑠は静かに息を吐くと、覚悟を決めたように顔を上げた。その覚悟が現れた強い瞳で、梓沙を見つめる。

「須藤君。わがまま言って申し訳ないんだけど……結果がわかるまで、ここで待っててくれないかな」

 柚瑠は無理をして笑う。

「ずっと悩んでても仕方ないから、さっさとやってくるよ。…でも、一人だと怖くて…。結果がわかった後に、誰かがそばにいてくれた方が、ホッとするから…」

「わかりました。ここで待ってます」

 柚瑠の心を少しでも軽くさせようと、梓沙は小さく微笑んだ。梓沙の想いが伝わったのか、柚瑠は自然と頬を緩める。
 ビニール袋を持って腰を上げ、傘をさした柚瑠は、公園内にあるトイレへ向かって歩いて行った。



 しばらくして、柚瑠がトイレから出て来た。
 戻って来る柚瑠の表情は傘に隠れて見えない。屋根の下に入らず、柚瑠は梓沙の前で立ち止まる。
 梓沙は無言で立ち上がった。
 柚瑠は、雨の音よりも小さな声で、言う。

「……妊娠………してなかった……」

 その声には安堵が感じられた。
 梓沙は何も言わない。
 柚瑠の瞳から涙が溢れ、張り詰めていた緊張がほぐれていく。

「……よ、よかった……私、もし、っ、妊娠…してっ…、どうしようって、…っ…」

 傘の下で、柚瑠は嗚咽を漏らした。涙が止まらない。年下の男子を気まずいことに付き合わせて、終いには泣いて、何をやっているんだろうと思う。

 梓沙は傘もささず、屋根の下から出て柚瑠に近づいた。冷たい雨が頭と肩に降り注ぐ。
 柚瑠の頭に、片手だけでそっと触れた。
 突然、柚瑠が傘を地面に落とした。
 そして梓沙の胸元にしがみつくように飛び込み、胸元に額を押しつけ、押し返すように力を込めた。その力に逆らえないまま梓沙は後退り、また屋根の下に戻る。
 胸元に顔を埋めたままくぐもった泣き声を上げ続ける柚瑠。梓沙は、その背中と後頭部に手を回し、優しく抱きしめた。



 しばらくして落ち着いた柚瑠と、再びベンチに並んで座った。
 柚瑠は両手で持ったハンカチで鼻と口元を覆い隠して、足元に視線を落としている。
 梓沙は柚瑠の顔を見ることなく、落ち着いた声で言った。

「…西村先輩。もう、出会い系で知らない男性に会うのは危ないですから、やめて下さい」

「……うん、もう絶対にしない。約束する」

 柚瑠は言って、梓沙の横顔をちらっと見た。またすぐに視線を戻し、謝罪の言葉を口にする。

「…余計なことに付き合わせて、本当に、ごめんなさい」

「気にしないでください」

「…また、借りができちゃったね」

「返さなくていいですよ」

「駄目だよ。それは絶対に駄目。…また一つだけなんでも言うこと聞くから、考えといてよ」

 柚瑠は顔を上げて梓沙を見た。梓沙の横顔には暗い影が差している。先ほどまでの自分のように、梓沙も何かに悩んでいるように思えて、柚瑠は心配になった。
 それが何なのか、一つの心当たりがあった柚瑠は、梓沙に尋ねた。

「須藤君。最近、霊的なことで悩まされてない?」

 梓沙は驚いて、柚瑠を見た。

「私ね、小さい頃から、幽霊が見えるんだ。ただ幽霊が見えるだけじゃなくて、私のは霊能力に近いのかもしれない。霊能力にもいろいろあるけど、私の力は『霊聴』って言って、霊の声を聴いたり、会話をすることができるの」

 梓沙は何も言わず、柚瑠の話を聞く。

「前に私、須藤君に聞いたよね。小さい妹がいるのかって。最近はなくなったけど、須藤君の部屋から女の子の笑い声が聞こえたり、走り回るような足音もしてた。須藤君が越して来る前までは、そんなこと一度もなかったから…」

 柚瑠は話し続ける。

「…それで私、勝手なことだけど、『霊聴』を試してみたの。女の子と会話をしてみたら、女の子はただ一言…“名前が欲しい”って言ったんだよ」

 黙っていた梓沙が目を見開き、口を開いた。

「返して…じゃなくてですか?」
「うん。その時私が聴いたのは、“名前が欲しい”だったよ。名前がないってことは、もしかしたら…水子の霊なのかな」

 水子の霊…。
 生きていたら梓沙の姉になっていた存在。いや、もしかすると、姉が生きていたら、梓沙は生まれてくることはなかったのかもしれない。

「ねぇ、須藤君。もし、霊的なことで悩んでるなら力になるよ。まぁでも、その道のプロじゃないから、協力できることは限られちゃうし、悩みを解決できるなんてカッコいいことは言えないけど」

 そう言って、柚瑠はぎこちなく笑った。
 梓沙はじっと柚瑠を見つめる。
 柚瑠は、何故か心臓がドキドキしていた。すぐ近くで梓沙に見つめられることに緊張しているのか、それ以外の何かに緊張しているのか、自分の気持ちがよく分からなかった。

「…ありがとうございます、先輩」

 梓沙は、それだけしか言わなかった。
 頼ってほしい…という気持ちを、柚瑠はぐっと胸の奥に押し込めた。
 帰りましょう、先輩。と言って梓沙が腰を上げた。
 柚瑠も立ち上がる。
 雨はまだ止みそうにない。

 傘をさした二人は公園の出入り口に向かって、肩を並べて歩き出した。


■■■

 木曜日。
 昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に、後ろの席の光一に背中を突かれた。

「あーずさ。昼飯、一緒に屋上で食べよう」

「……」

 梓沙は眉を寄せて後ろを見る。光一はにこにこ笑っていた。その笑顔の中に見え隠れする怪しい何かを感じとった梓沙は、すぐさま断ろうとした。が、弁当箱を持って椅子から立ち上がった光一が梓沙の腕を掴み、「ほら行くぞ」と有無を言わせない視線で圧力をかけてくる。初めて光一が怖いと思った梓沙は、渋々と昼飯に付き合うことにした。


■■■

「梓沙、何かあったのか?」

 屋上のフェンス近くに並んで座り、お弁当を食べ始めてすぐ、光一が言った。
 梓沙は無言で、お茶のペットボトルのキャップを外す。

「最近のお前、ピリピリしてて近づくなオーラ凄いから、みんな怖がってるぞ。そんなんだと、いつまで経っても俺しか友達がいなくなるぞー」

「……」

「なぁ、もしかして、また母親の霊を見たのか?それで…」

「違う。…それとは、ぜんぜん関係がない」

 梓沙は力強く否定した後、ばつが悪そうに口を閉じた。

「梓沙、こっち見ろ」

 光一に言われた梓沙は、ちらっと視線をやった。すると口元に、卵焼きを挟んだ箸が近づけられる。

「ほら、あーん」

「…いらない」

「いいから食べろって、ほら」

「ちょ、押し付けんな、んぐっ…」

口を開いた瞬間、唇に押しつけられた卵焼きを突っ込まれた。仕方なく食べるが、卵焼きの味が口いっぱいに広がった瞬間、梓沙は片手で口元を押さえて青ざめた。

「甘っ⁉︎」

「あはははっ、いいリアクション。これ、妹が焼いたやつだから、砂糖の量が半端ないんだよ」

「……お前、自分が食べたくないから俺に食わせたな」

「まさか。妹が一生懸命焼いてくれた卵焼きを他の奴に食わせるなんてするわけないだろ。それに俺は甘いの好きだからな。今回は特別。イライラしてる時は、甘いもの食べればいいって言うだろ?」
 光一の笑顔から視線を外した梓沙は呟いた。

「……お前って、いつも楽しそうだな」

 光一を見ていると、悩みとは無縁のような人間もいるんじゃないかと思えてしまう。

「まぁ楽しい方が多いからな。梓沙は、楽しくないのか?」

「……」

 疲れたように目を閉じた梓沙は、顎を上げて後ろのフェンスにもたれかかった。
 そのまま動かない梓沙の耳に、光一の明るい声が響く。

「梓沙の人生は、これから楽しくなるぞ」

「……その根拠は?」

「俺がいるから」

 目を開けた梓沙は今度は下を向き、わざとらしく大きくため息をついた。

「…不安だ」

「失礼な」

 光一はむっとした後にまた笑顔を浮かべ、梓沙の肩を軽く叩いて言った。

「ま、悩み事があるなら遠慮せず俺に言えばいい。ただの愚痴でもいいぞ。吐き出した方が楽になるさ」

「–––……」

 梓沙は、心がすっと軽くなるのを感じた。
 もう誰にも助けを求められない暗闇の中を一人歩いていた梓沙に、光一は一筋の光を差し込んだ。
 その光に、すがってもいいだろうか…


 お互いに食事を済ませたタイミングで、梓沙は話し始めた。

 母親の浮気が原因で、両親は離婚したこと。その浮気相手と母親が再婚しようとしていること。何度も夢に現れながら成長していく少女が、母親と浮気相手の子供で死産していたこと。“梓沙”の名前はその少女の名前になるはずだったこと。少女は名前を欲しがっていること…

 一人で抱えていた悩みを、光一に話した。

 黙って話を聞いていた光一が口を開いた。

「…その子供は、ちゃんと供養されていないんだな」

 光一は、まるで自分のことのように悲しげな声で呟いた。
 梓沙はちらっと光一を見る。
 光一は何やら考えごとをするように遠くを見つめていたが、ぱっと梓沙を見て言った。

「よし。今日の放課後、水子供養をしに行くか」

「今日って…そんな簡単に供養ができるのか?」

「あぁ。水子供養してくれる寺が近くにあるんだよ。そこできちんと供養してもらおう。あと、名前も与えてあげないとな」

 名前…と、梓沙は口の中で呟く。

 少女は梓沙に、“名前を返して”と言った。
 返すことができるならそうしたい。けど現実問題それはできない。なら、せめて新しい名前を与えてあげよう。
そして少女の名前を呼んで、その存在を思い出してあげよう…そう思った。



■■■

 放課後。
 光一の案内でその寺にやって来た梓沙は、本堂の中で住職の男性に会い、時間がなくても誰でも気軽に供養ができる塔婆を紹介され、テーブルの上に設置された手のひらサイズの塔婆の裏面に、水子の名前を書くように言われた。
 この寺では、こうして集まった塔婆を毎月決まった日に供養しているという。

 梓沙が備え付けのペンをとり名前を記入している間、光一は住職の男性と親しげに話していた。二人は初対面ではなく、月に数回この寺で顔を合わせているようだった。

「名前、見てもいいか?」

 梓沙が書き終わったタイミングで、隣に来た光一が言った。梓沙は裏面を光一に見せる。

須藤梓美あずみ

「綺麗な名前だな」

 光一は呟いて微笑む。
 梓沙から塔婆を丁寧に受け取った男性は、「大切にご供養させていただきます」と穏和な微笑みを浮かべた。



 本堂を出た二人は、並んで境内を歩く。

「俺の兄も、ここで供養してもらってるんだよ」

 前を見据えたまま、光一が言った。
 小学生の時に親から死産した兄のことを聞かされてから、毎月この寺に供養しに来るようになった。それで寺の住職とも顔見知りなのだという。

「ここに初めて訪れた時に、生まれてくることができなかった兄の分まで、俺は毎日を楽しく生きようって思ったんだよ。両親との時間、妹と弟と一緒に過ごす時間、友達と過ごす時間も、知らない人と話す時間もさ。俺は楽しい時間にしたいんだ」

 梓沙が光一の顔を見ると、光一が足を止めた。梓沙も立ち止まる。光一は真剣な顔で梓沙と目を合わせた。

「なぁ、梓沙。母親の再婚の件、お前は凄く辛いと思う。お前って誰にも頼らずにストレスや悩みを溜め込むだろ。だからさ、今日みたいに俺に話してくれたら、俺はどんなことでも力になる。頼れる人が近くにいることを忘れるな」

 梓沙は目を見開いて光一の顔を見つめた後、目を細めて口元を緩めた。

「あ、笑った!今の凄く自然な笑い方で良かったぞ梓沙!」

ぱっと表情を明るくさせた光一が、必要以上に顔を寄せて来た。

「あれ、そういえば俺、お前がちゃんと笑ってるとこ見るの初めてかもな。もっと笑え〜梓沙。一日一回は笑うルールつくるか」

「っ、却下だ」

 照れくさい気持ちを隠すように顔を逸らして、梓沙は先に歩き出す。

 ズキンッ

「うっ…!」

 頭に、鋭い痛みが走った。
 足を止めた梓沙は頭を押さえる。ズキズキとした痛みに襲われ、思わずその場に両膝をついた。

「! どうした、梓沙」

 梓沙の真横にしゃがみ込んだ光一は、苦しむ梓沙の顔を覗き込む。

「頭が痛いのか?あっちにベンチがあるから座って休もう。立てるか?」

「…、っ…」

 返事もできず、梓沙はかろうじて頷いた。
 光一に支えられながら、境内の片隅にある休憩スペースに向かう。

 ベンチに座った梓沙は背中を丸め、頭痛に耐える。梓沙の隣に座った光一は、落ち着くまで話しかけない方が良さそうだと判断して、無言で梓沙を心配する。

ズキ、ズキ、ズキ、ズキ、

「っ、」

(まただ…この頭痛…あの時と、同じ…)


–––––……くすくすくす…


 突然、耳元に響いた笑い声とともに、背中に目に見えない存在の重みが覆い被さるのを感じた。
 体が、金縛りのように動かせない。
 背中から肺を圧迫されているかのように、呼吸が息苦しい。

––––私に、新しい名前をくれたんだね……

 夢の中の少女の声が響く。

–––いいよ、“梓沙”の名前は貴方にあげる。……でも、また新しく、欲しいものができちゃったの

 体温のない唇が、耳に触れる感触。梓沙は恐怖に目を見開き、整わない呼吸を浅く繰り返す。

––––…光一君。私の名前、綺麗って言ってくれてすごく嬉しかった。…私、光一君のことが、好き

「……っ」

––––光一君が、欲しい


「…っ、……こう、いち…」

「…! 梓沙、どうした?」

 絞り出した声で名前を呼ばれた光一は、背中を丸めている梓沙の顔を覗き込む。
 梓沙は、肺を圧迫する息苦しさにこれ以上声が出せず、逃げろ、と目で訴える。困惑した顔の光一と目が合った。

( –––!)

 どっ、と背中に衝撃。
 息が止まる。
 ずぶずぶと、背中から少女の体がめり込むような錯覚。
 視界が、脳が、ぐらぐらする。
 自身の意識がはっきりしない。頭の中を支配するのは、少女の、声–––…


––––光一君が、欲しい…


「………欲しい……」

「え…?」

 虚ろな目をして、感情のない声で梓沙は呟いた。その顔からは先ほどまでの苦痛が消えている。

 光一は、空気がすっと冷たくなるのを感じた。わずかに鳥肌が立ち、思わず背中を伸ばして辺りを見回す。
 その時、胸ぐらを掴まれた。
 視界に、無表情の梓沙が映る。

「あず、っ」

 引き寄せられ、名前を呼びかけた唇を塞がれた。
 数秒間、時が止まった。
 正気に戻ったのか、梓沙の目に光が宿る。
 瞬間、梓沙は勢いよく顔を後ろに引いた。
 お互い、瞬きも出来ず目を見開いて見つめ合う。

「…あ、えと、今のは……?」

「……っ!」

 ぎこちない口調で、光一が先ほどの行動の意味を問うと、梓沙はぶわっと顔を赤くして狼狽えた。

「ち、違う!今のは俺じゃない!」

「え?いや、その誤魔化しは無理があるだろ…」

「〜〜〜っ」

 逃げよう、そう思った梓沙は勢いよく立ち上がった。そのせいで立ち眩みに襲われる。ぐらついた体を、慌てて立ち上がった光一に支えられた。

「落ち着けって梓沙、まだ体調が悪いんだろ」

「…………」

 二人はまたベンチに座り直した。
 顔を手で覆い隠して深く俯く梓沙。光一は気まずい気持ちを隠しながら、笑って言う。

「まぁ、そんな気にするな。勢いでやっちゃうことはあるだろ」

「……忘れろ」

「え?」

「さっきのアレは忘れろ!」

 梓沙はキレ気味になって叫んだ。光一は苦笑いで、ハイ…と返事をする。

(…っ、くそ…何で、キスなんかしたんだ…)

 梓沙は、先ほどの自身の行動が理解できずに内心で頭を抱えた。

 光一君が、欲しい…

 少女が発した言葉を思い出して、ぞっとする。
 少女は、居る。
 夢の中からだけでなく、こうして梓沙のそばに現れて、そして意識を乗っとった。
 からかったのか、本気なのか、分からない。だが、もし本気だとしたら…

 光一の身に危険が及ぶかもしれない…。疲労した頭でそれを理解した梓沙は、強く唇を噛んだ。



■■■

 その日の夜に、穂乃香から電話がかかってきた。
 自室で、明日提出の課題をやっていた梓沙は、何も考えずに反射的に電話に出る。

「はい、須藤です」

『もしもし、梓沙くん久しぶり!』

 相変わらずの弾んだ声が響く。

『きゃ〜、久しぶりに梓沙くんの声聞いたらめっちゃ癒されちゃう!仕事の疲れも吹っ飛ぶよマジで!』

「はぁ…あの、今日は一体何の用ですか?」

 まさかデートの件だろうか…と内心身構えていると、穂乃香は少し改まった声で話し始めた。

『あのね、私が母親の霊に憑依されていた間の記憶のことなんだけど、あれ、思い出したんだよ』

「え」

『私あの時、まるで夢の中にいるように母親の記憶を見ていたの。……母親は一人で山の中にいて、必死にあちこち捜してた。捜しながら、何度も何度も、「ケンちゃん、どこにいるの」って口にしてた』

 もう聞き慣れすぎた、その言葉…

「…やっぱり母親は、息子を捜しているんですね」

『ううん、それが違うの。母親の脳内…なんて言ったらいいんだろ…。言葉にするのが難しいんだけど、母親の脳内のイメージが、私の脳内に送り込まれてくるみたいな感じで、クマのぬいぐるみが浮かんだんだよね。
 私には、母親がクマのぬいぐるみを捜しながら、ケンちゃんどこにいるのって、口にしているように感じたの』

 梓沙はそれを聞いて、社長室で美代子から聞いた話の一部を思い出した。

“ あぁそうそう、こんな話も聞いたわ。ケンちゃんが亡くなったあと、恵子さんはケンちゃんがとても大切にしていたクマのぬいぐるみを必死に捜していたそうよ。でも、アパートや幼稚園、ケンちゃんが歩いて行ける範囲、ケンちゃんの遺体が発見された周辺を捜しても、ぬいぐるみは見つからなかった。…きっと、ぬいぐるみを息子の形見にしたかったんでしょうね ”

『でね。私、健一郎くんが生前通っていた幼稚園を調べて行ってみたの。そこの園長先生に会えて、健一郎くんについて話を聞いてみたら、幼稚園にいつも持って来ていたクマのぬいぐるみの名前に、健一郎くんは“ケンちゃん”って、自分と同じあだ名をつけていたんだって。だからきっと、母親が呼んでいたケンちゃんっていう名前は、クマのぬいぐるみの方だったんだよ』

 梓沙の脳裏に、廃墟のマンションで見た母親の姿が浮かび上がる。
 ぬいぐるみを放り投げた時、母親は泣き声に似た声を上げながら、床に落ちたぬいぐるみを拾い上げて腕に抱いていた–––…

(そういうことか…)

 見つからないクマのぬいぐるみ。
 自殺した母親は成仏できず、この世を彷徨いながら捜し続けるほど、クマのぬいぐるみを見つけたかったのか。
 それほどまでに、クマのぬいぐるみに対しての思い入れが強かった。
 亡くした息子よりも…?
 何かが、引っかかる…。

『それとね…』

 穂乃香は一瞬ためらうと、怯えたような声で言った。

『母親が私に伝えてきたの。こんなことをしても無駄だって。私を騙して逃げたことは許さない。あそこにいた全員、呪い殺してやる…って』

 “私を騙して逃げた”というのは、梓沙のことだ。
 “あそこにいた全員”というのは、光一と修斗と翔も含まれる。

 “呪い殺してやる”

 このままだと言葉通り、全員が呪い殺されてしまうかもしれない。
 気を抜いている場合ではなかった。
 なんとかしないと。
 時間がない–––…

『クマのぬいぐるみ、早く捜した方がいいよ。見つかったら、それを母親に返せばきっと成仏するよね!そしたら梓沙くんも、もう狙われずに済むよ!』

「そうですね…」

 梓沙は頭の中で、この情報を手がかりにどう行動したらいいのか考えていた。
 そして、思いつく。

「竹内さん、有力な情報をありがとうございます。ここから先は俺の方で何とかしますから、大丈夫です」

『えぇっ?でも……あーもうっ、仕事の締め切り近くなかったら即協力できたのに!でも、梓沙くんのお願いだったら仕事ほっぽって協力するから!すぐに言ってね、絶対だからね!』

 必死な穂乃香の声を聞いて、梓沙は胸がじんわりと、あたたかくなるのを感じた。

 穂乃香、柚瑠、光一…三人とも、梓沙を心配し、何かあったら力になると言ってくれた。その言葉、想いが、今の梓沙の心の支えになっている。

「はい、ありがとうございます」

『あと、デートの件も忘れないようにね!』

「わかってます。また、連絡下さい」

 穂乃香との通話を終えた梓沙は、すぐにベランダに出た。
 上の階のベランダを見つめてしばらく待ったが、いつものように相手が出て来ないため、声を出して呼ぶ。

「西村先輩、いますか?」

 呼んですぐ、ベランダに柚瑠が出て来た。

「こんばんは。須藤君」

「こんばんは。今、大丈夫ですか?」

「うん。いいよ」

「二回目の、一つだけ何でも言うことを聞くやつですけど、決めました」

「え、もう?今回は早いね。じゃあ聞かせて」

 柚瑠を真剣な表情で見つめ、言った。

「先輩の、『霊聴』の力を貸してください」



■■■

「なるほどな。西村先輩の霊能力を使って、アパートにいる息子の霊と会話をしてもらい、息子からクマのぬいぐるみをどこで無くしたのかを聞くってわけか」

 壁に背中を預け腕を組み、光一は言った。
 梓沙、光一、柚瑠の三人は、朝のホームルームが始まるまでの時間、屋上に続く人気のない階段に集まり話をしていた。

 屋上に出る扉の前のスペースに居る光一と柚瑠は、壁に背中を預けて立っている。二人から距離を取って、梓沙は階段を下りた先の踊り場で一人、壁に背中を預けて立っている。

 今朝、マンションの公園前で梓沙と柚瑠は待ち合わせをした。そして一緒に学校に向かうまでの間に、これまでの経緯について梓沙は全てを話した。
 話を聞いて納得した柚瑠は、「クマのぬいぐるみを見つけるまで協力するよ」と言ってくれたのだ。

「捜しに行くなら、今日の放課後からだな」

 光一も協力する気満々だ。梓沙も、お前部活は、とはもう言わない。

 光一が梓沙の方を見ると、梓沙は視線を逸らした。光一は気付いているが、梓沙は光一から距離を取ってる。昨日のアレの件でお互いに気まずい気持ちはあるが、それ以外に、梓沙には何か理由があるように光一は感じていた。後で吐かせてやる、と内心で思う。

 いつ頭痛に襲われて、意識を乗っ取られるか分からない。だから梓沙は、なるべく光一のそばには居たくなかった。教室に戻れば嫌でも距離が前後になるが…。

 男子二人の間に流れる変な空気を感じた柚瑠は、この二人喧嘩でもしてるのかな…と思いながら、光一の方を見て言った。

「けど、亡くなったケンちゃんは山間の川で発見されたんでしょ?だったらぬいぐるみも山の中の可能性が高いし、放課後だと、捜すのに時間がかかったら暗くなって危ないよ」

「確かにそうですね。じゃあ、午後の授業は三人揃って早退するのはどうですか」

「うん、それがいいね」

 二人が話を進めていくのを、梓沙は黙って聞いていた。そんな梓沙に視線を向けた柚瑠が言った。

「須藤君、話聞いてる?一人だけ距離遠いよ。こっちに来たら?」

「…話は、聞いてます。この距離でも聞こえているので大丈夫です」

 柚瑠を見上げて、梓沙はぎこちない笑みを浮かべる。柚瑠は怪訝な顔をして、光一の方は呆れ顔だ。

 今日の昼休みから早退してアパートに向かうことを決め、三人はチャイムが鳴る前に教室に戻って行った。



■■■

 午後の授業が終了した後、三人は昼食を済ませてから学校を早退し、電車に乗って南国市方面へ向かった。
 coco洋菓子店の社員アパートの前に到着して早々、足を止めた柚瑠が呟いた。

「居るよ、男の子。駐車場の中で遊んでる」

 柚瑠が指さす先の駐車場を見るが、二人の目には男の子の姿は映らない。
 無人の駐車場に柚瑠は一人で近づいて行き、しゃがみ込んだ。小さな男の子に話しかける高さで視線を合わせ、見えない男の子と会話をしている。
 時間にして約十五分ほど。立ち上がった柚瑠は、後ろの方で様子を見守っていた二人の元へ戻って来た。

「男の子は坂本健一郎君。ケンちゃんで間違いないよ。凄く人懐っこくて、いい子だよ」

 柚瑠はそう言った後に、ふと自身の足元に視線を落とした。

「あ、今私の右足にしがみついて来た。このお兄ちゃん達だれ?だって」

 それを聞いた光一はしゃがみ込み、柚瑠の右足にしがみついているという男の子を想像しながら、にっこりと笑う。

「俺の名前は光一だ、宜しくな。で、後ろのちょっと怖い顔したお兄ちゃんの名前は梓沙だ。性格も荒いけど、根は優しいから怖がらなくていいぞ〜」

「おい、子供をビビらせるな」

 梓沙は光一を睨むが、光一は振り向きもしない。柚瑠がくすっと笑った。

「ケンちゃん笑ってるよ。話しかけてもらえることが凄く嬉しいみたい」

 人懐っこく、社員や近所の人たちにも可愛がられていたという男の子。今は誰にも話しかけてもらえずに、長い年月一人寂しく遊んでいたことを思うと…三人は、胸が締め付けられる思いだった。

「クマのぬいぐるみ、やっぱり山の中にあるみたい。ここから近い山だよ。案内してくれるって」

 男の子の案内の元、三人は歩き出した。

 ケンちゃんは前方を走り、何度も立ち止まって振り返りながら、三人がちゃんとついて来ているか確認している。無邪気な男の子の姿を見つめながら、柚瑠は先ほど男の子から聴いた話を、後ろをついて歩く二人に向けて話し始めた。

「母親の迎えが遅くて退屈していたケンちゃんは、幼稚園を抜け出して、一人でアパートに帰ろうとしていた。その途中の道に野生の狸が現れて森の中に入って行ったのを見たケンちゃんは、その後を追いかけて行って、迷子になってしまったの。出口を捜して彷徨っていたら足を滑らせて、そのまま崖から川に転落した…。クマのぬいぐるみを離さないように必死に抱きしめたけど、水の勢いで引き離された…。力尽きたケンちゃんは、そのまま……」

 柚瑠は、だんだんとつらそうな声で話し続ける。

「…亡くなった後、ケンちゃんはクマのぬいぐるみを捜しながら山の中を彷徨った。そして、小さな洞窟の中で見つけたの。けど、ぬいぐるみはそのまま洞窟内に隠しておくことにして、森から離れたんだって言ってた」

「隠すって、どうしてですか?」

 柚瑠に、光一が質問した。
 柚瑠は僅かに振り返り、言った。

「お母さんに、ぬいぐるみが見つかるのが嫌だったからって言ってたよ。嫌な理由を聴いたけど、教えてくれなかった」



 母親は、ぬいぐるみを捜している。
 男の子は、母親がぬいぐるみを見つけることを嫌がっている。
 一体、どういうこと何だろう…。


■■■


 国道から離れた住宅街は途端に人気がなくなり、昼間でも静かだ。
 森が近接する住宅街の、車一台が通るのがやっとの狭さの舗装された道を歩いていると、急に柚瑠が立ち止まり、「ここから森に入るよ」と、真横を見て言った。
 どう見ても、人が出入りしているような入口も道もない。陽が届かない薄暗い森の中が見えているだけだ。



 三人は森の中に入って行く。
 人の手が全く加えられていない中を、足元に注意しながら慎重に進む。
 登って行くというよりは、ただ真っ直ぐ進んで行く。
 しばらくして、微かな水の音が聞こえ始めた。冷たく湿った空気が体温を少し下げる。
 だんだんと水の音は大きさを増した。
 やがて目の前に、大きな川が現れた。

 森を抜けて、三人は川原に降りた。
 頭上からは青空が見え、陽の光が地面に届いている。透き通った山の水が穏やかに流れ、自然の空気に満ちたここだけ、時が止まっているかのように感じた。

「へぇ、綺麗なところだな」

 光一が言った。
 ここで男の子の死体が発見されたことを、三人とも忘れてしまうほどだ。
 梓沙も、東京でいう奥多摩の景色と比べながら、久しぶりに自然の心地良さを感じていた。

 少し休憩した後、三人は川沿いを歩き出す。
 真横を流れる水量がどんどん減水し、やがて広く開けた川原に到着した。昔はこの先まで水が流れていたようだが、巨大な岩石や、大小様々の石が川の流れを失わせてしまっていた。

「あったよ。あの洞窟だって」

 柚瑠が指をさした先に、巨大な岩石が横倒しになってできた小さな洞窟の入口が見えた。

 洞窟の前にしゃがみ込んだ光一が、スマホのライトをその入口に近づけ中を確認する。

「奥が深くてライトの光が届かないな…。中も狭いし、匍匐前進で行くしかないか」

 だとしても、この入口の狭さでは男の体は無理がある。

「じゃあ、私が中に入って取ってくるね」

 柚瑠が言うと、梓沙が「えっ」と声を上げて焦った。

「いやでも、さすがに危ないし、何かあったら…」

「でも、この中で一番小柄な私が行く方がいいでしょ。大丈夫だよ、何かあっても二人いるなら助け呼べるから」

「虫とか、もしかしたらコウモリがいるかもしれませんよ」

「それくらいならぜんぜん平気」

 全く嫌な顔を見せない柚瑠に勇ましさを感じた。
 立ち上がった光一が、柚瑠に質問する。

「ケンちゃんに取って来てもらうことは出来ないんですか?」

「幽霊がみんな物に触れられるってことはないみたいだよ。ある程度の力がある幽霊ならできるけど、そういう幽霊は攻撃的で危険なのが多いよ。だから、ケンちゃんみたいに人に害を与えなくて力が弱い幽霊は、人間に聞こえるように声を出したり、肌に触れたり、物に触れて動かしたりすることは難しいんだって」

「へぇ、そうなんだ。勉強になりました」

 納得して笑う光一に、梓沙がジト目を向ける。

「んーでも、制服は汚せないなぁ…。あ、そうだ、体操着!午後の授業で使うから鞄に入れっぱなしだった、良かったぁ」

 柚瑠は肩にかけていたスクールバッグを地面に下ろし、体操着を取り出し始めた。柚瑠は洞窟内に入る気満々だ。
 不安が拭えない梓沙と、光一も同じ気持ちだったが、ここは柚瑠に頼るしかない。

「ちょっと着替えて来るね」

 体操着を持って、柚瑠は目に止まった巨大な岩石の裏に向かって走って行った。

「西村先輩って、意外にも勇ましい人だな」

 光一がやや驚き気味でそう言った。梓沙も同じ気持ちだ。このどうしようもない状況で、柚瑠が自ら洞窟に入ることを挙手してくれたのは有り難かった。

 やがて体操着に着替えた柚瑠が、お待たせ、と言って戻って来た。
 光一のスマホをライト代わりに使い、何かあったら自身のスマホで梓沙のスマホに連絡が取れるようにするため、連絡先を交換した。
 準備が整い、柚瑠は洞窟の入口の前で中に入る体勢を整える。

「じゃあ、行って来るね」

「西村先輩…絶対に、無茶はしないで下さい」

「うん、わかってるよ」

 まだ不安な顔をしている梓沙を見上げて、柚瑠はにこっと笑った。

 洞窟内に匍匐前進でゆっくりと入って行った柚瑠の足元が完全に見えなくなる。
 どれほどの時間がかかるか分からないが、柚瑠が無事に戻って来ることを祈るしかない。

 洞窟の入口から顔を上げた光一は、梓沙の方を見た。
 梓沙はまだ入口の方を心配そうに見つめていたが、光一の視線に気づくと、一瞬目を合わせてから、ばつが悪そうに逸らした。
そんな梓沙に向かって、光一はやや強めな口調で言った。

「なぁ、梓沙。お前、俺に何か隠し事してるだろ」

「隠し事って…別に、何も」

「俺と距離取ってるのって、キスして気まずいからって理由だけじゃないんだろ?」

「……」

 梓沙は言葉を詰まらせ、眉を顰めた。光一の方を見ずに、少し冷たい声で言う。

「…光一。俺が昨日みたいに頭痛に襲われたら、俺から離れるか、その場から逃げろ」

「なんで?」

「何でもいいから。…昨日の件で何となく理解できるだろ」

「次はキスだけじゃ済まされないってことか」

「からかうなよ。……お前のこと、殺してしまうかもしれないって言えばいいか」

「殺すって…穏やかじゃないな」

 光一は顔を曇らせた。
 梓沙が自分を殺したいと思っているとは思えない。梓沙ではなく、別の誰かが自分の命を狙っているということか…。

 それが誰なのか、梓沙に問いただすために開いた口は、洞窟内に響いた「あった!」という柚瑠の声によって、閉ざされた。


 ゆっくりと後退し、柚瑠は洞窟内から出て来た。
 頭を上げて外の空気を思いっきり吸い込んでから、柚瑠は立ち上がる。その片腕には黒く汚れたクマのぬいぐるみが抱かれていた。

 柚瑠は光一にスマホを返し、ついでにクマのぬいぐるみも手渡した。
 長年放置されていたぬいぐるみは顔も真っ黒で、形でなんとかクマだとわかるほどまでにあちこちが傷んでいる。

「あーよかった、無事に見つかって。コウモリはいなかったよ。あ、でも変な虫は何匹かいた。ライトの光向けたら逃げてったからよかったけど」

 柚瑠は体操着の汚れを軽く叩き落としたあと、頬を手の甲で擦った。すると梓沙が近づいて来て柚瑠の顔を見ると、「先輩、汚れてます」と呟き、取り出した紺色のハンカチで、先ほど柚瑠が手の甲で擦った頬を優しく拭い始めた。
 きょとんとしていた柚瑠の顔が、一気に赤く染まる。

「じっ、自分でやるから大丈夫!ちょっとハンカチ借りるね!」

「あぁ、はい。どうぞ使って下さい」

「ありがと!」

 梓沙からハンカチを受け取った柚瑠は、そのまま梓沙に背中を向けた。洞窟内に入る時の何十倍も、心臓がバクバクと激しく脈打っている。

(違う…この気持ちは絶対に違う。須藤君のことを意識しているなんてことは……絶対にない)

 そう自分に言い聞かせていると、自身の足にまた男の子がしがみついてきた。
 柚瑠が視線を落とすと、男の子は柚瑠に声を聴かせてくる。

 男の子の声を聴いた後、柚瑠は、ぬいぐるみを観察している光一の方を見て言った。

「ケンちゃん、そのぬいぐるみの中に、死んだお父さんの結婚指輪を入れたって言ってる」

「指輪?」

「うん。首の後ろの部分に穴が空いていたから、そこから入れたって」

 光一はぬいぐるみを裏返して首の部分を確認すると、首と胴体を繋ぐ部分の生地が破れ、穴が空いていた。
 そこに指を二本突っ込んで中をまさぐってみる。綿の感触の中で、指先がコツンと硬い物に触れた。二本の指で上手くそれを綿の中から取り出した。
シンプルなストレートラインの指輪だった。長年放置されていたとは思えないほど綺麗だ。

「…そっか、そうだったんだね」

 柚瑠はケンちゃんの声を聴きながら、悲しい表情を浮かべて呟いた。
 そして顔を上げて、二人に向かって内容を話し始める。

「…お母さんは、死んだお父さんの指輪を凄く大切にしていた。お母さんは指輪を化粧台の引き出しの中に保管していたんだけど、それを知っていたケンちゃんは、引き出しから指輪を取り出して、ぬいぐるみの中に隠した。ちょっとしたイタズラ心で、お母さんをびっくりさせたかっただけみたい。けどその夜、指輪がないことに気づいたお母さんが、ものすごい勢いでケンちゃんに怒ったの。ケンちゃんは凄く怯えて、指輪の場所をお母さんに言えなかった。
お母さんに指輪を返して謝りたい。けど、また怒られるのが怖い。だから、ぬいぐるみは洞窟に隠して、見つからないようにしたんだよ」

 全てが繋がったように感じた。
 ケンちゃんという名のクマのぬいぐるみの中にあった結婚指輪。母親はずっと、この指輪を捜していたのだ。

「目的の物は見つかったし、暗くなる前に森を出よう」

 光一は指輪を無くさないようにズボンのポケットに仕舞い、ボロボロのぬいぐるみも持って行くことにして小脇に抱えた。
 三人は元来た道を引き返し、無事に森を出てアパートに戻った。


■■■

 アパートの駐車場の中で、柚瑠はしゃがみ込んで男の子と話していた。その様子を、梓沙と光一は後ろに立って見守っている。
 やがて柚瑠が立ち上がり、困った顔で振り返ると、二人に言った。

「ケンちゃん、ここでお母さんが迎えに来てくれるのを待つって。母さんに会いたい…指輪のことを謝りたい…けど、やっぱり怒られるのが怖い…。自分からお母さんに会いに行くことはできない…。そう言ってるよ」

 梓沙と光一は、無意識にお互いを横目でちらっと見た。
 梓沙と光一は以前、映画部の部室で確認したビデオカメラから、母親が子を激しく叱る音声を聞いている。あれが、指輪がないことに気づいた母親が男の子に怒鳴った実際の声なら、男の子が母親を怖がり、会いに行けないと思うのも無理はないだろう。

 柚瑠はまたしゃがみ込んで男の子と視線を合わせると、微笑みを浮かべ、優しい声で言った。

「大丈夫だよ、ケンちゃん。指輪はちゃんとお母さんに返すからね」

 男の子はうんと頷き、にこっと笑った。

 アパートの駐車場に男の子を残して、三人は駅の方に向かって歩き出した。



■■■

 駅前にコンビニがあり、そこで飲み物を買った三人は駅の待合室で電車を待つ。
 梓沙と柚瑠が並んでベンチに座り、光一は二人の前に立っている。光一の腕にはコンビニ袋に入れられたクマのぬいぐるみがぶら下がり、そこから取り出した指輪は今、梓沙の手のひらの上にある。
梓沙は沈鬱な表情で、じっと指輪を見つめていた。

「…私、ケンちゃんを成仏させてあげたい。親子揃って成仏できるのが一番いいんだろうけど…。何とかできないかなぁ」

 炭酸のペットボトルを脇に置いて、柚瑠はそう悩まし気に言った。
 指輪が手元に戻ってくれば、母親は成仏する可能性は高い。だが、男の子はその後どうなるのか。一人寂しく、あそこで母親の迎えを待ち続けることになれば、それはあまりにも可哀想だ。

 カフェオレのストローから口を離して、光一は言った。

「息子の問題もありますけど、今は母親の方ですね。…どうやって指輪を返すか、方法を考えないと」

 その方法をずっと考えていた梓沙は、指輪から僅かに顔を上げて言った。

「『ケンちゃん遊び』で呼び寄せて、指輪を返す方法が有力だろ」

「あの廃墟マンションで、また『ケンちゃん遊び』をするのか?」

 光一は梓沙を見下ろす。
 梓沙は頷いた。

「俺が母親の気を逸らす時に投げたクマのぬいぐるみを、母親は拾い上げて抱きしめていたんだ。だから、ぬいぐるみの首にでも指輪を括り付けておけば、ぬいぐるみを拾い上げた母親が、指輪に気づくかもしれない」

「なるほど。その方法で指輪を母親に返すことは出来るかもしれないな」

「じゃあ、やるしかないね」

 柚瑠が言った。その声からはやる気満々が伝わってくる。
 梓沙は頼もしいと思いながらも、柚瑠をこれ以上は巻き込めないと決めていた。

「どうする?明日休みだし、やるなら今夜にでも、」

「西村先輩。先輩は、ここまでで大丈夫です」

 驚いた柚瑠は、梓沙の顔を見た。

「え?でも…。ここまできたら、最後まで協力するよ」

「ここから先は危険です。先輩を、巻き込みたくないんです」

 梓沙の強い口調と視線を受け、柚瑠の開いた口からは何も言葉が出て来なかった。
 梓沙は笑みを浮かべる。

「先輩の協力がなかったら、ぬいぐるみも指輪も見つけられなかった。本当に感謝しています。ありがとうございました」

「–––……うん」

 柚瑠は暗く沈んだ声を出して頷いた。

「梓沙」

 光一に名前を呼ばれた梓沙は、目の前に立っている光一を見上げた。光一は鋭い眼差しを向けてくる。

「この件に関しては俺に責任がある。俺が母親に指輪を返すから、後のことは俺に任せてお前は、」

「家で寝てろって?」

「いや、成功を祈っててくれ、だ」

「ふざけるなよ」

「大真面目だって」

「光一」

 梓沙は立ち上がった。その時に、指輪をズボンのポケットに入れた。

「考えてみろ。四人で『ケンちゃん遊び』をして母親は俺の前にだけ現れた。教室で母親の姿を見たのも俺だけだ。お前が一人で『ケンちゃん遊び』をやるより俺がやった方が、母親が現れる可能性は高いだろ」

 光一は一瞬、言葉を詰まらせてしまった。頭の横に片手を当て、形のいい眉をぎゅっと寄せると、小さく息を吐く。

「……あぁ、わかった、わかったよ。梓沙の言う通りかもな。けど、お前一人でやらせる気はないからな。俺も一緒にいる」

 光一は真剣見を帯びた目で梓沙を見つめた。梓沙は光一を見返す。光一の断固とした意思を突き返すことは出来なさそうだ。
 その時、梓沙のスマホがズボンのポケットで着信音を鳴らした。

 電話の相手は、母親だった。
 母親から直接電話がくるのは珍しいことだった。「ちょっとごめん…」二人から距離を取って待合室の隅で背中を向けて立ち、スマホを耳に当てる。

「…もしもし」

『……、……』

「…母さん?」

『……梓沙、ちゃん…』

 様子がおかしい。
 絞り出すような小さな声が聞こえてくる。

『…お母さん…っ、お母さんね、……もう、生きるの、辛くなっちゃった…』

 梓沙は体を硬直させた。
 母親の小さな声に、震えが混じっている。

「…母さん、今どこ、マンションにいるのか?」

 呼気に混じって、うん、と微かに聞こえた。

『梓沙ちゃんも、お母さんのこと、嫌いなんでしょう…?いなくなって欲しいって、思ってるのよね…』

「何、言って…」

『…再婚の話も、忘れていいから…私と結婚なんてする気、なかったのよ……私、ずっと騙されてて……ばかみたい…』

 母親は泣いていた。
 頭に浮かんだ嫌な予感に、思わず口から出た声が大きくなる。

「母さん待って、すぐに、」

 帰るから、と言う前に通話が切れた。動揺しながらも急いでかけ直すが、母親は出ない。
 梓沙はスマホで時間を確認する。次の電車まであと五分。ここからマンションの最寄り駅まで三十分はかかる。
 母親との画面トークを開いて、メッセージを打ち込む。すぐに帰るから。帰ったら話そう。

「梓沙、どうした?」

「電話の相手、お母さん…だよね」

 梓沙は動揺を隠せないまま振り返る。
 二人を見たあと、すぐに視線をスマホの画面に落とした。

「……っ…」

 既読がつかない。
 悪い事態が頭をよぎり、スマホを握る手に力がこもった–––…




 梓沙は二人に事情を話した。
 改札を通ってホームに出た三人は停車している電車に乗り込む。
 電車が動き出した後も、梓沙はドア横に立ったままスマホのトーク画面をずっと見ていた。既読は一向につかない。母親が何を考えているのか、気が気でない。



■■■

 マンションに着いた頃には外も薄暗くなっていた。
 三人はエレベーターに乗り込み、五階で降りる。同じマンションの柚瑠も、わざわざ着いて来た光一も梓沙の後ろに続いた。

 梓沙が玄関のドアを引くと、鍵はかかっていなかった。
 ドアを開けると、玄関の先のリビングの電気は付いているのに、人の気配が感じられない静けさが広がっていた。
 足元に視線を落とすと、母親の仕事用の靴があった。
 母親は居る。
 梓沙は靴を脱いでリビングに向かった。


「…西村先輩は、玄関ここに居て下さい」

「う、うん…」

 光一に言われ、柚瑠は不安げな顔で頷いた。光一は「お邪魔します」と一声かけてから、梓沙を追いかけてリビングに向かう。

 梓沙はリビング全体を見たあと、キッチンの方を確認した。
 母親の姿はない。

「……」

 リビングに戻り、次に母親の自室のドアを開ける。
 ドアを開けると、室内の電気はついておらず薄暗かった。電気をつけるが、母親はいない。
 次に頭をよぎったのは、浴室の方だ。 

「………」

 梓沙は無言のまま、浴室がある洗面所のドアを開けた。
 洗面所内は、湿った空気に満ちていた。洗面所の真横に設置されている浴室の中の電気がついている。

「………っ」

 嫌な予感がした。
 それはずっと頭によぎっていたことだった。
 心臓が強く脈打つ。
 浴室の折れ戸を掴む。

 見たくない。
 最悪な事態を。
 どうか、違って欲しい…

 浴室を開ける。
 浴槽の中。
 そこに、母親の姿があった。
 グレージュのカジュアルスーツを着たまま、湯を張っていない浴槽の中に、膝を曲げた仰向けの状態で、母親は俯いたままぐったりとしている。

「…………‼︎」

 血の臭いがした。
 恐る恐る足を踏み出し、浴槽の中を真上から覗き込む。
 浴槽の底は、母親の手首から流れ出た血で真っ赤に染まっていた。
 梓沙は目の前の光景を、呆然と見下ろす。

「梓沙、 …っ⁉︎」

 梓沙の後ろから、光一は中の状況を見て凍りついた。
 我に返ると、急いでスマホを取り出して救急車を呼んだ。



 その後、救急隊員が駆けつけ、母親をストレッチャーで救急車に運び込み、梓沙も一緒に乗り込んだ。
 光一と柚瑠はマンションの外で、救急車が去って行くのをただ見つめるしかなかった。



■■■

 翌日の土曜日。
 光一は部活動の為、正午からずっと学校の体育館にいた。
 部活終了の三十分前に、主将から片付けに入るよう指示が入る。足を止めて汗を拭いながら、光一は梓沙のことを思い出す。


 朝。梓沙から電話がかかってきて、母親が亡くなったことを聞かされた。
 光一は梓沙に、なんて言葉をかけたらいいのか分からなかった。だが、梓沙はごく自然な声で言った。

『指輪は俺がちゃんと持ってるからな』

「え、何、指輪?」

『結婚指輪だよ』

 お前ボケたのか、と呆れた声が聞こえた。
 結婚指輪…あぁそうだ。ケンちゃんの母親の結婚指輪だ。待合室で梓沙に渡したから、今は梓沙が持っている。クマのぬいぐるみの方はコンビニ袋に入ったまま、光一の自室に放置されている。

『早いうちに、母親に返した方がいいだろ』

「ああ、それはもちろんだけど…」

 光一は戸惑っていた。声だけ聞いていると梓沙は普通だ。だからなのか、逆に心配が増してしまう。

『…とは言っても、今夜は俺の方がちょっと動けそうにないんだ。できれば、日曜日の夜にでも』

「わかった。明日じゃなくても、平日の夜でもいい。俺はいつでもいいから」

 少し間を空けてから、『あぁ、わかった』と聞こえた。
 光一はスマホを握る手に力を込めた。何か…なんでもいい、何か梓沙に言いたい気持ちが溢れた。

 梓沙は今一人だ。本当の意味で一人になってしまった。お前、そうやって普通に会話してるけど大丈夫なのか。無理してるんじゃないのか。俺がお前に、できることがあるなら…

「…梓沙。前に寺で、俺がお前に言ったこと。絶対に忘れるなよ」

 “俺はどんなことでも力になる。頼れる人が近くにいることを忘れるな”

『あぁ、わかってるよ。…じゃあまたな』

 通話が切れた。
 最後に聞こえてきた梓沙の声が、ほんのわずかに安堵したように感じられた。
 だがそれは、そうであって欲しいという自分の気持ちが、そう思わせただけなのかもしれない。

「都合のいい、解釈だな…」

 スマホを耳元から離して、力なく呟いた。


■■■

 浴槽で発見された母親は、まだ息をしていた。
 搬送先の病院に到着してすぐ、母親は手術室に運ばれて行った。
 梓沙は看護師に連れて行かれた部屋で、母親から連絡があってから発見するまでの時間や、母親が自殺をはかった理由に心当たりがないかなどを質問された。梓沙は看護師から聞かれた質問には全て答えたが、後から自分がしゃべった内容を思い出すことは出来なかった。
 そのまま病院に泊まった梓沙は、眠れない夜を過ごした。

 そして明け方。
 梓沙が廊下で無事を祈る中、母親は意識を取り戻すことなく、静かに息を引き取った。



『もしもし、梓沙、父さんだ。病院から連絡があって、母さんのことを聞いた。今からそっちに向かう–––…』

 病院の薄暗い廊下の隅で、父親からの電話に無言で出た梓沙に、父親は始発便の飛行機でこちらに向かっていると言った。
 母親の両親はどちらも亡くなっている。親戚などにも連絡がとれない。その為、病院側から父親に連絡がいったようだ。

 父親が来てくれる。
 だがそこに喜びや安心を、今の梓沙は感じられなかった。心が何も感じられなくなっている…。

 無感情な声で父親との通話を終えた後、梓沙はスマホをズボンに突っ込んだ。その時に硬いものが指先に当たった。取り出すと、それは指輪だった。

「……あぁ…そうか…」

 口から小さな呟きが漏れた。
 この指輪を手に入れるまでの記憶を思い出す。大事なことをすっかり忘れていた。
 スマホをまた取り出して、光一に連絡をする。初めはアプリのトーク画面を開いたが、少し考えて、電話をすることを選んだ。

 数コールで光一は出た。

『…おはよう、梓沙』

 少し間が空いてから挨拶をされた。おそらく何て最初に言えばいいのか悩んだのだろう。

「おはよう、光一」

 梓沙も挨拶を返した。光一は黙り込んでしまう。困らせる気はない為、梓沙は積極的に口を開いた。

「昨日はごめん。お前が救急車を呼んでくれて助かった。あと……母さん、今朝亡くなったんだ」

 電話の向こうで、光一が言葉を呑み込む気配がした。構わず、話題を変えて指輪の話をした。

「…とは言っても、今夜は俺の方がちょっと動けそうにないんだ。できれば、日曜日の夜にでも」

『わかった。明日じゃなくても、平日の夜でもいい。俺はいつでもいいから』

「あぁ、わかった」

 話は終わった。あとは通話を切るだけだ。けれど、何故か出来なかった。
 梓沙は無意識のうちに、ぎゅっと目を閉じていた。スマホを持つ手にも同じくらいの力がこもる。

 励ましや心配の言葉は何も感じない。だから光一に、何か言って欲しいわけじゃない。なのに自分は一体、何を期待しているのだろうか…。

『…梓沙。前に寺で、俺がお前に言ったこと。絶対に忘れるなよ』

 梓沙は目を見開いた。脳裏には、その時の光景と言葉がよみがえる。

 “ 俺はどんなことでも力になる。頼れる人が近くにいることを忘れるな ”

「あぁ、わかってるよ。…じゃあまたな」

 梓沙は目を細めて口元を緩めた。
 その顔に浮かんでいたのは、あの時光一に言われた、自然な笑みだった。


■■■

 父親が病院に到着してからは、何から何まで父親が対応をしてくれた。

 父親にはもう会えない…会いたくない…と梓沙は思っていた。車の中での出来事さえなければ、父親に心の底から感謝できたのにと思う。

「梓沙」

 複雑な心境にいる梓沙に、父親は近寄って来た。廊下のソファに座っていた梓沙は顔を上げる。梓沙を見下ろす父親の顔には、静かな表情が浮かんでいた。

「…梓沙。全てが落ち着くまで、父さん、しばらくこっちに滞在するから。父さんは市内のホテルで寝泊まりするけど、梓沙もホテルで寝泊まりしたらどうだ?学校も、無理せずに休んだ方がいい」

 梓沙がマンションで一人になることを心配してそう提案してくれた父親に、梓沙は力なく首を振った。

「……マンションに戻って生活してもいいなら、そうしたい。学校は、無理せずに通うよ」

「そうか…わかった。マンションの方にはもう戻れるのか、ちょっと確認して来るよ」

 父親はそう言って笑みを浮かべたが、目はずっと悲しそうだった。父親は母親の死を、誰よりも悲しんでいるのだろう。

 梓沙はそんな父親から目を逸らして俯いた。父親はそれ以上何も言わず、梓沙のそばから離れて行った。


■■■

 梓沙がマンションに帰って来た時、時刻は二十時半を過ぎていた。

「………」

 無言で玄関からリビングに向かって歩いて行き、壁横に手を伸ばして電気をつける。

 しん…とした空間。
 母親が仕事で夜遅くなり、まだ帰って来ていない時の静けさだった。だが、この静けさはずっと続くのだ。母親は二度と帰っては来ない。

 梓沙は無言のまま、洗面所のドアを開けた。そして躊躇なく浴室を開ける。そこは綺麗にされていた。血の痕も、臭いも残っていなかった。
 梓沙は、感情を空っぽにしたような状態で、その場を離れて自室に向かう。

 自室に入ってすぐ、ベッドに腰を下ろした。体はひどく疲れているはずなのに、心が何も感じない。
 しばらくそこから動けそうになかった為、今日の動きを頭の中で思い出してみた。それで、午前中に光一に電話をしたのを思い出す。
 母親が亡くなったこと…そして、指輪のことを話した。

 制服のズボンのポケットにずっと入れっぱなしにしていた指輪を取り出す。

「……………」

 梓沙は、疲れた目で指輪をじっと見つめていたが、やがて腰を上げてクローゼットの方に向かい、ドアを開けた。

 クローゼットの床下に、たくさんのぬいぐるみが入っているゴミ袋が置いてある。全て、母親からの誕生日プレゼントだ。
 ずっとゴミ袋の中で眠っていたぬいぐるみの中から、梓沙はブラウンのクマのぬいぐるみを取り出した。確かこのぬいぐるみは、小一の時にプレゼントされたものだ。

 首の赤いリボンを解き、端から指輪を通してまた首に綺麗に結び直した。
 リボンの真ん中で光る指輪。これならケンちゃんの母親も気づくだろう。

 ……光一、ごめん。

 心の中で、光一に謝った。
 この時点でもう、梓沙は一人で指輪を母親に返しに行くことを決めていた。
 クマのぬいぐるみをトートバッグに入れた梓沙は、マンションを出た。



■■■

「須藤君、待って!」

 公園の前を歩いていた梓沙の背後から、足音と共に柚瑠の声がした。

「……西村先輩」

 足を止めて振り返った梓沙の前で、柚瑠は短く息を整えた後、顔を上げて言った。

「こんな遅い時間にどこ行くの?…もしかして、母親に指輪を返しに行こうとしてる?」

「……」

 梓沙は何も言わない。暗い表情は疲れているようで、どこか悲しそうにも見えた。

「…叶君は、知ってるの?」

 梓沙は黙って首を振る。
 柚瑠は、胸のあたりがぎゅっと苦しくなった。だが、ここからは強い気持ちでいなければならないと思った。私が、彼を支えてあげなければならないと。

「私も、一緒に行くよ」

「…え?」

「須藤君が一人で指輪を返しに行こうとしてるなら、私は見逃せない。一緒に行く。…お願い、そばにいさせて」

 必死に縋るような目をした柚瑠から、梓沙は顔を逸らして固く目を閉じた。

「先輩……」

 駄目です、と言う前に、柚瑠に右手を両手でぎゅっと掴まれ、前へ引っ張られた。驚いて目を開けた梓沙は柚瑠の真剣な顔を見つめる。

「駄目って言っても、この手は離さないから」

「…っ」

 梓沙の瞳が揺れる。
 柚瑠は真っ直ぐに、その瞳を見つめ返した。

 しばらくして落ち着きを取り戻した梓沙は、柚瑠の両手の上に左手をそっと重ねた。
 引き剥がされる、と思った柚瑠は、更に両手に力を込めた。だが、重ねられた梓沙の左手は、柚瑠の両手を引き剥がすことはなかった。

「…ありがとうございます、先輩」

 梓沙は静かにそう言って、顔に柔らかな笑みを浮かべた。



■■■

 梓沙は柚瑠と一緒に電車に乗った。
 遅い時間帯は、仕事帰りの会社員の姿が目立つが、都会と違って席はかなり空いていた。
 しばらくお互い無言で座っていたが、隣に座る柚瑠がぽつりと言った。

「…私ね、中学の時に一人だけ友達がいたの」

 柚瑠は、真っ暗な車窓に映った自分の顔を見つめながら、独り言のように話す。

「中学に入学して、その子とは教室で席が前後だった。その子が振り返って私に話しかけてくれたのが最初。その子、めちゃくちゃ綺麗な子だったんだ。長身で、細くて、色白。入学式の時は長い黒髪を三つ編みにしてたから可愛かったんだけど、髪をほどいている時は雰囲気がガラッと変わって美人なの」

 梓沙は膝上に視線を落とし、黙って柚瑠の話を聞く。

「その子と私、趣味がすごく合って、すぐに仲良くなったんだ。すごく嬉しかった。初めてできた友達だったから…」

 中ニでまた同じクラスで、中三では別々のクラスになった。それでも変わらず二人は仲良く、昼食はいつも一緒に食べて、帰りも一緒だった。

 ある日。
 彼女は柚瑠に、こっそりと自身の秘密を教えた。「私ね、出会い系利用して、知らない男性とご飯食べて、お金貰ってるんだ」…と。

 ご飯を食べながらおしゃべりに付き合うだけで、一万円貰えるんだ。そういうことを、何度もしてると、彼女は笑いながら柚瑠に言った。柚瑠は困惑し「危ないからやめた方がいいよ」と促しながらも……心の中では、かっこいいと思っていた。悪いことをするのがかっこいいと。
 未成年でお酒を飲むこと。タバコを吸うこと。ピアスを開けること。髪を染めること。……そういったことが出来る子と、出来ない子で言えば、柚瑠はできない子だった。
 だから、そういう悪いことを平然とやっていた彼女が、かっこいいと思った。そして羨ましかった。

 彼女は中学を卒業してすぐ、親の仕事の都合で東京に引っ越した。連絡は取り合っていたが、彼女が十代向けの雑誌のモデルにスカウトをされて活躍するようになると、彼女からの連絡が徐々に減り、柚瑠も忙しい彼女に遠慮して連絡を減らした結果、そのまま自然と友達の関係は終わってしまった。

 だが柚瑠は、彼女が載っている雑誌をずっと買い続け、SNSのコメントや写真も欠かさずチェックをしていた。友達という関係が終わってしまっても、モデルとして大都会で頑張る彼女を応援したいと思っていた。

 だが、彼女が毎日のように更新するSNSを見ているうちに、柚瑠は強い劣等感を抱くようになっていった。

 お洒落で綺麗な友達と、一緒に映って笑っている写真…
 都会の夜景が広がるお洒落なレストランの写真…
 高いブランド品を身につけ、カメラの前で堂々とポーズをとる、同い年とは思えない美貌をもつ彼女–––…

 彼女の人生はすべてがキラキラしていた。
 彼女と自分が本当に友達だったなんて……いや、そんなわけない。
 中学時代の彼女との思い出は、全て幻だったんだと思った。
 虚しかった…。
 柚瑠は雑誌を買わなくなり、SNSをチェックすることもやめた。

 自分の全てが、彼女に負けていた。
 だんだんと悔しい気持ちが溢れてくる。
 彼女に一つだけでいい、何でもいいから勝ちたいと思うようになった。……その結果、出会い系に手を出した。


 食事をしてお金を貰う。彼女は一万円を貰っていたと言っていたから、自分はそれよりも多く貰う。
お金の額で、勝ち負けを決める–––…

「…出会った男性と食事をして、一万五千円貰った時に、勝ったって思った。彼女に勝ったって。…快感だった。とても心地よかったの。もっと額を増やして、彼女を突き放してやろうと思った。お金なんてどうでもよかった。額が増えれば彼女との差が広がる…その快感にハマってしまってたの」

 柚瑠は、車窓に映る自分の顔に嫌悪感を覚え、眉を寄せて視線を逸らす。

「食事だけじゃ額も上がらないからって、体まで売って……妊娠したんじゃないかって思った時に目が覚めたの。今まで私、何馬鹿なことやってたんだろうって…ものすごく後悔した。これは神様からの罰なんだ。妊娠して、子供を中絶したら、私はずっと罪悪感を抱えながら生きていく…その覚悟を、嫌でも決めるしかなかった」

 柚瑠は、遠い薬局まで行って妊娠検査薬を買った。マンションを前にして、結果を調べることが怖くなり足が止まった。公園のベンチに腰掛けて、長い時間悩んだ。

「…でも、神様は私にチャンスをくれた。もう二度と出会い系も、体を売ることもしない。神様にも…須藤君にも、約束する」

 柚瑠はそこまで口にした後、夢から覚めたようにハッとした。この状況で、関係ないことを何べらべら喋ってるんだ…と、恥ずかしさと後悔が押し寄せた。
 声を絞り出す。

「…ごめん、またこんな気まずい話して…私…、あーもうっ、なんでこんな話しちゃったんだろ…。本当に、ごめんなさい」

「いえ、気にしないで下さい。西村先輩が、もう危ないことをしないって約束してくれたから、安心しました」

 優しい声だった。柚瑠は顔を上げて梓沙を見た。目が合うと、梓沙は笑みを浮かべた。
 梓沙の存在が近くにある。あの時もそれで救われたんだと、柚瑠は泣きたくなるように胸が熱くなった。

「須藤君は…」

 柚瑠は、少し控えめになりながら言った。

「その…誰にも言えなかった悩みなんかを、誰かに話して楽になりたいとか、思うことないの?」

 よかったら私が話を聞くよ…とは言えず、内心で思った。
 梓沙は、何か思考を巡らすように柚瑠から短く目を逸らした。そして再び目を合わせ、困ったように眉を下げる。

「…いや、特にないです」

「そ、そっか…」

 私じゃまだ駄目か…と、柚瑠は肩を落とした。まだ梓沙との距離感があるような、寂しい気持ちになる。

「あぁ、でも…」

 と、梓沙は前の車窓をぼんやりと見つめながら言った。

「悩みなら、あいつに話したな」

「あいつって、もしかして叶君?」

「そうです」

「そっか。…ふふ」

「…?  なんですか?」

 急に笑い出した柚瑠の横顔を、梓沙は不思議そうに見る。

「うん。なんか、須藤君には叶君っていう存在《友達》がいて良かったなぁって、思ったの」

 そう言って笑う柚瑠の横顔を見て、梓沙は口元を綻ばせた。



■■■

 学校の最寄駅から歩いて廃墟のマンションに到着した頃には、二十一時を過ぎていた。

 この時間帯になれば、辺りに明かりは全くない。だが都会とは違い、田舎の夜空は無数の星と上弦の月が、地上を明るく照らしていた。


 一階の出入口から中に侵入した二人は、階段の方に向かって歩く。

「俺が隠れた二階の部屋の中に、クマのぬいぐるみを置きます。俺たちはクローゼットの中に隠れて、そこで母親が現れるのを待ちましょう」

「うん、わかった」

 今回は、外廊下ではなく部屋の中で『ケンちゃん遊び』を行う。
 クマのぬいぐるみは初めから部屋の真ん中に置いておき、二人はクローゼットに隠れて母親が現れるのを待つことにした。

 二〇一号室の室内。
 汚れた床の上に、玄関扉の方を向けてクマのぬいぐるみを座らせた。窓から差し込む微かな月の光が、リボンの中心にある指輪を照らしている。

 準備はできた。
 そして、二度目の『ケンちゃん遊び』を始める。

 梓沙は静かに、ここの住所からマンション名までを口にし、最後に「私がケンちゃんです」と三回唱えた。
 唱え終わると、固く口を閉じた。ここから先は声を出してはいけない。
 隣にいる柚瑠と目を合わせる。同じように固く口を閉じた柚瑠と頷き合い、物音を立てないよう、二人一緒にクローゼットの中に身を隠した。


「…………………」

 ただ、静かに待つ。
 五分ほど経ったが、まだ外からの異変は感じられない。

 クローゼットの中は、二人だと流石に狭く感じた。お互い向き合ってやや体が触れ合っている状態だ。
 梓沙の胸元に顔がある柚瑠は、ドキドキ鳴る心臓の音が梓沙に聞こえていないか不安だった。ちらっと上に視線を送ると、梓沙はクローゼットの小さな隙間から室内の方をずっと見ていた。
 その時だった。

  ……コツ…

 と、外廊下の方から微かに響いた、音。

 …コツ……コツ…

 ヒールの音が鳴り響く。一回目の時と同じだ。
 梓沙は冷静に、その音に耳を澄ませた。柚瑠は声を出さないように、ぎゅっと唇に力を入れる。

 …コツ…
 コツ…

「……ケンちゃン……どコに、イるの…?」

 音に混じり、母親の低い声が響いた。
 緊張感の中で、二人は身を固くする。

「……どコに…イるの…?」

 …コツ……コツ…

 近づく足音。

「…どコに…イるの……」

 近づく声。
 やがて、二〇一号室の玄関扉のすぐそばまで来た。

 ゴンッ

 梓沙が、クローゼットの内側からドアをわざと足先で蹴った。その音に気づいたのか、足音が止まった。

「…ケンちゃん…そこニ…いルのネ…?」

 ガチャッ
 ギィィ…

 母親が中に入って来た。
 梓沙は息を殺し、狭い隙間から室内を見つめ、視線だけを動かして、近づいて来る気配を待った。

 視界の真横から、すーっと、母親が姿を現した。俯いた母親が向かう先、見つめる先には、クマのぬいぐるみがある。
 母親はその前で足を止めた。そしてその場にしゃがみ込んで、ぬいぐるみに手を伸ばす。

「……あァ…見つケた…指輪……やっと、見つケた…」

 指輪に、気づいてくれた–––…

 上手くいった。そう思った。
 母親の様子を見ながら、梓沙と柚瑠はお互いに気付かぬうちに手を繋いで握り合っていた。
 と、その時だった。
 クマのぬいぐるみを腕に抱く母親の背後から、小さな男の子が現れた。

 母親の息子の、ケンちゃんだった。

 梓沙にも、その姿は見えていた。
 男の子は俯き加減で、母親の背後に立つ。

「お母さん…」

 恐る恐るとした、小さな声が聞こえる。

「ごめんなさい…」

 母親が、顔を上げた。
 ゆっくりと背後を振り返り、男の子を見つめる。

「……健一郎…」

 息子の名前を口にした母親は、片腕をそっと伸ばした。
 男の子の背中に腕を回して引き寄せる。母親の肩口に顔を埋めた男の子は、短い小さな両手で母親にしがみつくように抱きついた。

 抱き合う二人の親子の体が、足元から徐々に透けて形をなくしていく。梓沙と譲瑠は、非現実的なその光景を黙って見つめた。

 やがて親子の姿は完全に消え去り、床には母親の腕から落ちたクマのぬいぐるみが残された。


 気配は消えた。
 母親も男の子も、もういない。
 梓沙と柚瑠は手を繋いだまま、クローゼットから出た。
 床の上に転がっているクマのぬいぐるみを見下ろす。梓沙がぬいぐるみを拾い上げた。リボンの中心にあった指輪だけが、無くなっていた。

「上手くいったね」

 柚瑠は梓沙を見て、安堵した声で言った。

「ケンちゃん、お母さんと一緒にちゃんと成仏したよ。最後に伝えてきた声は、“お姉ちゃん、お兄ちゃん、ありがとう”だったよ」

 手元にあるクマのぬいぐるみから顔を上げた梓沙は、柚瑠を見た。
 二人はそのまま、見つめ合った。
 柚瑠は、梓沙と手を繋いだままだったことにハッと気づき、慌てて手を離すと赤い顔を隠すように背中を向けた。

「西村先輩」

 冷静な梓沙は、柚瑠の背中に向かって言った。

「ここまで付き合ってくれて、ありがとうございました」

 柚瑠はまだ赤い顔のまま、ちらっと梓沙の方を見る。

「…私、須藤君の役に立てた?」

「はい」

 梓沙は頷き、微笑んだ。梓沙は柚瑠に心から感謝していた。

「良かった…」

 柚瑠はほっとして笑ったあと、梓沙から少し視線を逸らした。
 心臓はまだドキドキしている。ここにきてやっと、自身のこの気持ちが何を表しているのか、気づいた。

(私、須藤君のことが、好きなんだ)

 心の中でそう思って確信した。これが恋。しかも初恋だ。恋愛に対して物凄く冷めていた自分の心が、こんなに彼を強く意識してドキドキしている。もう、顔もまともに見られない気がしてきた。

「西村先輩、帰りましょう」

 柚瑠の心の変化に何も気づいていない梓沙は、やや疲れた顔をして言った。
 うん、と柚瑠は小さく頷く。先に玄関に向かう柚瑠の背中を見つめ、梓沙が足を踏み出した、その時。

 ズキッ

「……ッ、!」

 急な頭痛に襲われた梓沙は、頭を押さえて俯いた。
 足が止まった。
 動けない。
 手からクマのぬいぐるみが滑り落ちた。
 背後に立つ–––気配。

 くすくすくす…

 少女の静かな笑い声が、心臓を鷲掴みにする。

(まずい…、っ…)

 体も動かず、声も出せない。
 柚瑠が名前を呼ぶ声が聞こえた瞬間、フッと目の前が真っ暗になり–––意識が途絶えた…。



 ぞわっと、背中に悪寒のようなものが走り抜け、柚瑠は足を止めた。
 周囲の空気が一気に重くなった。強烈な圧力が体を押さえつけてくるかのようだ。

「須藤君、!……っ」

 危険を感じて、柚瑠は振り返った。
 俯いて突っ立っている梓沙の足元には、ぬいぐるみが落ちている。
 柚瑠は梓沙に近づこうとして、気づいた。
 目の前にいる梓沙の、異変に。
 足を止めて、柚瑠は顔を強張らせた。

「……あなたは、誰?」

 低めに抑えた声で、柚瑠は言った。
 梓沙が顔を上げる。
 ひどくつまらなさそうに冷めた表情で、柚瑠を見つめ…


 何も言わずに、暗い笑みを浮かべる–––…



■■■

こう兄、宿題ぜんぶ終わったよ!」

 居間で弟の宿題を見ていた光一は、笑顔で弟の頭を撫でる。

「おー、じゃあ歯磨いて寝る準備な」

「え〜ゲームは?終わったら対戦してくれるって言ったじゃん!」

「もう夜遅いから駄目だ。明日な」

「ゔ〜…じゃあ明日の朝!ぜったいだからね!」

「はいはい」

 素直な弟はランドセルを引き寄せて宿題を片付け始めた。光一も自室に戻ろうと畳から腰を上げかけたその時、テーブルの上に伏せていたスマホが着信音を鳴らした。掴んで、着信相手を確認する。

「…梓沙?」

 光一は驚いた。
 梓沙からは今朝も電話があった。今日はこれで二度目だ。
 光一は立ち上がり、廊下に出てからスマホを耳に当てた。

「もしもし。どうした、梓沙」

『–––…光一。今、家か?』

「ああ。さっきまで弟の宿題を見てたよ」

 ふうん、と素っ気ない声が聞こえた。スマホの向こう側は静かだ。梓沙も家に居るのだろうか。

『光一。今から廃墟のマンションまで来れるか?』

「え?」

 光一は戸惑い、居間の中を覗いて壁にかけてある時計を確認した。

「まぁ、電車は動いてるから行けるけど…。梓沙、お前まさか、そこに居るのか?」

『ああ』

 なんで、と聞かなくても分かる。母親に指輪を返す為だ。

「ったく、行く前に先に電話しろよ。今から行く。待てるか?」

『あぁ。二〇四号室。そこで待ってる』

 その声が、どこか嬉しそうに聞こえた。光一はやや怪訝に思う。

「なぁ、梓沙…」

『何だよ』

「……ぁ、いや、なんでもない。電車降りたら一度連絡するから。じゃあ後でな」

 通話を切った。
 光一はそのまま廊下を進み二階に上がった。自室に行き、財布をズボンのポケットに突っ込んで、上着を引っ掴み自室を出た。

 上着を羽織りながら玄関に向かい、靴を履いていると、後ろから妹の声がした。

「あれ、光兄。こんな時間に出かけるの?コンビニ?」

 振り返ると、パジャマ姿の妹が棒アイスを食べながら、不思議そうにこちらを見ていた。

「あぁ。日付が変わる前には帰って来るから。母さんに何か聞かれたら適当に言っといてくれ」

「はいはーい。朝帰りだけはしないようにね」

 ニヤニヤする妹に苦笑いを返して、光一は玄関の引き戸を開けて外に出ると、急いで駅に向かった。


■■■

 学校の最寄り駅に降りた光一は、梓沙に電話をした。十コール近く鳴らしたが、梓沙は出ない。諦めて、廃墟のマンションに向かって走った。


 到着した頃にはもう二十二時を回っていた。
 一階から階段を使って二階に上がり、梓沙に言われた二〇四号室のドアの前で、一度呼吸を整える。

 ガチャ

 ドアを開ける。
 中は真っ暗だ。
 光一はスマホを取り出してライトをつけた。スマホを持つ手を動かしながら、すぐ真横のキッチン、そして奥の洋室を照らす。

「…梓沙、居るのか?」

 応答も、物音もない。
 光一は口を閉じ、中へ進んだ。足元の床が音を立てて軋む。

「…………」

 軋む音以外、何も聞こえない。梓沙はここに居ないのだろうか。そう思いながら洋室の前まで来て、ライトを正面の窓に向けた。その時、

「……ッ!」

 真横の暗闇から伸びて来た手が、スマホを弾いた。飛んだスマホが床に落ち、明かりが消えて真っ暗になる。

「んッ、 ⁉︎」

 遅れて背後の気配に気づいた瞬間、後ろから腰に腕が回り、手で口を塞がれた。
 そのまま部屋の片隅に引き摺られ、ベッドのマットレスの上に投げられる。

「–––っ、!」

 ずっと放置されていたマットレスは硬く、光一の体重を受けとめた瞬間、大きな音を軋ませた。埃が舞い、カビの臭いが鼻をつく。

「っ、…誰だ!」

 仰向けのまま上体を起こし、相手を睨み上げる。暗闇の中、ベッドのそばに誰かが立っている。ベッドの上の光一を、無言で見下ろしている。

「……梓沙、…?」

 目が暗闇に慣れてきて、ようやく梓沙だと気づいた。
 光一は驚いて、そして困惑した。
 梓沙はぼんやりと、虚な目をしている。呼びかけにも無反応だ。

「梓沙……?」

 光一は警戒心を持ちながらも、梓沙に向かって手を前に出す。すると、急に意識を失ったかのように梓沙が目を閉じた。その体がぐらりと揺れて、光一の上に倒れ込む。二人分の体重を何とか受け止めたベッドが、壊れるんじゃないかと思うくらい大きく軋んだ。

「梓沙…おい、しっかりしろ……!」

 ぐったりと弛緩した梓沙の体の下で、光一は必死に呼びかけるが、梓沙の意識は戻らない…。




■■■

………………………

………………

………

 梓沙は、目を開けた。


 何もない、真っ暗な空間に立っていた。
 寝起きのようなぼんやりする頭で状況を確認しようと、ぐるりと辺りを見回す。

 すると少し離れた先に、少女の姿が映った。

 また少し年齢を重ねた夢の中の少女–––梓美《あずみ》が、初めて目にする黒いワンピース姿で、真正面に立っていた。

 その顔は、どこか寂しそうに見えた。
 静寂の中、似た雰囲気を持つ二人は、お互いをじっと見つめ合う。

「…私、この暗闇の中で、ずっと一人だった」

 梓美は、囁くような声で言った。

「お腹の中にいた時から、早く外に出たくてたまらなかった。名前を呼んでもらいたかった…。抱きしめてもらいたかった…。たくさん愛してもらいたかった…。そう、私が何よりも欲しかったものは『家族』だった。家族から与えてもらえる全てが、私じゃ手に入れられないものばかりだった…」

 梓美は訴えかけるように、言う。

「もう、一人が嫌なの。これ以上、一人でいたくないの。だから…」

 梓美は裸足の足でゆっくりと前進し、梓沙のすぐ目の前まで近づいて立ち止まる。

「選んでよ。誰を犠牲にするのか」

 梓沙に向かって両手を伸ばすと、白く細い指先で頬に触れて包み込んだ。

「先輩の子?それとも光一君? それとも…」

 梓沙の暗い目を覗き込み、梓美は歪んだ笑みを浮かべる。

 梓沙はゆっくりと瞬きをした。
 そして、そっと目を閉じる。

「俺は……終わらせたい」

 梓沙の口から、何もかもに疲れてしまったかのような、力ない声がこぼれ落ちた。

「終わらせたい?何を終わらせたいの?」

「…この夢を、この苦しみを…もう、終わらせたいんだ……」

 梓沙はそっと、梓美の手に自分の手を重ねた。

 もう…

 楽になりたいんだ…


 誰を犠牲にするかなんて…

 もう…

 悩む必要もない…

………………………

………………

………



■■■

「梓沙!」

 仰向けで横たわる意識のない梓沙に、光一はベッドの縁に座って、ずっと声をかけ続けていた。
 ようやく梓沙の瞼がゆっくりと持ち上がり、光一は安堵の表情を浮かべる。

「梓沙…大丈夫か?」

「–––……」

 ぼんやりした目で、梓沙は光一の顔を見つめる。

「………光一…お前、なんでここにいるんだよ」

「はあ?連絡してきたのそっちだろ」

「……」

「…覚えて、ないのか?」

 梓沙は頭を押さえて顔を顰めた。
 そしてハッと思い出し、勢いよく上体を起こして辺りをきょろきょろと見回す。

「っ…、西村先輩は…?」

「え、先輩も一緒だったのか?」

 梓沙がベッドから降りる。

「捜さないと…」

 二人は部屋を出た。
 そして、外の異変に気付いて玄関から出たところで足が止まる。
 視界を煙が漂い、焦げ臭さが鼻を突いた。

「っ、なんだ…?」

 光一が呟き、ハッと気づく。

「まさか、火事か…⁉︎」

「…っ、早く西村先輩を捜そう!」

「ああっ」

 二人は急いだ。
 手分けして、片っ端から各階の部屋の中を捜す。
 二階…いない。
 三階…いない。
 そして四階へ…

 階段を駆け上がり四階の外廊下に出た時。上の階を見ると、五階の外廊下は既に濃い煙に包まれ、そこから激しい火がちらつくように上がっていた。

「っ、くそ…」

 梓沙はカーディガンの袖を手の甲に寄せて鼻と口元を押さえた。なるべく煙を吸わないようにして前に進む。
 五階はもう捜しに行けない…
 四階に柚瑠が居ることを強く願い、四部屋のうち、光一が四〇一号室と四〇二号室を確認し、梓沙は奥の四〇三号室と四〇四号室を調べる。

 梓沙が一番奥の四〇四号室のドアを開け奥の洋室を見ると、柚瑠が横向きで倒れている姿があった。

「西村先輩…!」

 急いで駆け寄り、その上体を抱き起こす。
 柚瑠は気絶していた。体を確認するが、怪我をしているところはない。

「–––……」

 梓沙は安堵し、柚瑠をぎゅっと抱きしめた。

「危険な目にあわせて、ごめんなさい…」

 そう口にして、梓沙はもう一度、柚瑠の顔を見つめた。
 そしてその耳元に唇を寄せて、静かに、彼女への言葉を囁く。

「先輩に出会えて良かった…ありがとうございました」

 聞こえていなくてもいい。
 きっともう、これが…

「梓沙!」

 光一の声がした。

「西村先輩は…、ッ、ごほっ、ゴホッ」

 光一が玄関から中を覗き込み、叫んだ瞬間に煙を吸い込んでしまったせいで激しく咳き込んだ。

 火の勢いが増す。煙が酷い。一刻も早く脱出しなければ危険な状況だ。

「見つけた!行こう…!」

 梓沙は柚瑠を横向きに抱え上げ、光一が待つ玄関に向かった。
 外廊下に出て、下の階まで下りられる階段に向かって、二人は一直線に走る。
 階段を目の前にした、その時だった。


 梓沙…


「–––……」

 梓沙は、後ろから聞こえてきた声に足を止めた。振り返らなくても分かる。自分の名前を呼んだのは–––…

「光一!」

 すぐ目の前の光一を呼び止める。振り返った光一に、梓沙は柚瑠の体を押し付けた。

「西村先輩を頼む」

「え、ああ…」

 光一は言われるがまま、柚瑠を横抱きで抱えた。気絶している柚瑠の顔を一度見て、そして目の前の梓沙を見る。

「梓沙…?」

 梓沙が、すっと身を引いた。

「光一。今までありがとう。お前と出会えて…友達になれて、よかった」

 らしくないことを言いながら、梓沙は笑みを浮かべた。
 そんな梓沙を、光一は困惑して見つめる。

 人生の全てをやり終えた後のような…もう、苦しまなくていい…そんな安堵に似た笑みを、梓沙が浮かべているように見えた。

「! 梓沙、ッ」


 嫌な予感がした。
 青ざめた光一が梓沙に向かって手を伸ばすのを邪魔するように、上の階の外廊下の一部が、燃え盛る炎と一緒に二人の間を塞ぐようにして崩れ落ちた。

「ッ、 梓沙!」

 熱風が襲いかかる。
 光一は後ろを確認した。背後には、まだ無事な階段がある。
 そして光一は、目の前へと意識を戻した。
 炎の先に、ただ一人で立っている梓沙を見た。

「梓沙!早くこっちに来い!早くしろ、早くッ」

 必死に叫ぶ。
 その時、光一は、燃え盛る炎の先に立つ梓沙の背後……そこに、少女の姿を見た。
 梓沙に似た雰囲気を持つ、黒いワンピースを着た少女が、炎の熱で揺れる視界にぼんやりと映っている。

 この世に生まれてくることができず、ずっと忘れ去られていた、ひとりぼっちの少女…


「…梓沙…お前……」

 光一は、知った。
 梓沙が選んだ道を。
 人生の、結末を。

 ごうんっ!と、炎の勢いが増す。
 上の階が一気に崩れ出す。
 梓沙は、光一に向かって微笑んだ。早く行け。西村先輩を守れ。そう、頭の中で声がした。

 梓沙は背を向けて、少女の元へ向かって行く。その姿を最後に、視界は激しい炎と煙で見えなくなった。

「ッ、くそ…なんで!」

 悲痛な声はもう届かない。
 もう、どうすることも出来なかった。
 自分は、西村先輩を守らないと。

 光一は柚瑠の体をしっかりと抱えて、階段を一気に駆け下りた。







 梓沙は、向かった先にいる梓美の体を抱きしめた。
 熱風が肌を焼く。だが、梓美を抱きしめた瞬間、一瞬でその熱さから解放された。

「…逝こう…。俺がそばにいるから…」

 梓沙の心にはもう、不安や恐怖はない。

 壊れて、失ってしまった家族。
 父親も母親も、梓沙のそばにはいない。
 それは、彼女も同じだった。
 だから、彼女のそばにいたいと願った。

 どんな形でもいいから…


「–––うん…」

 梓美が小さく呟き、両手が背中に回る。
 梓沙は目を閉じた。
 安らかな気持ちに満たされる。
 そのまま、深い眠りに落ちていくかのように…意識を手放す。



 君はもう…
 貴方はもう…

 一人じゃない…




■■■

 光一は一階の出入口から外に出た。
 こちらに近づいて来る数人の緊迫した男の声と、消防車のサイレンが遠くから鳴り響く音を聞いた。

「…っ…」

 誰にも見つからないようにする為、その場を離れて森の中を走った。
 やがて森を抜け、車通りもない静かな道路に出る。
 柚瑠の上体は抱えたまま、排水溝のコンクリート製のふたの上に座り込んだ。

「…はぁっ…はぁっ…」

 しばらく乱れた息を整えながら、柚瑠が無事かを確認する。正常な呼吸を繰り返しているのを確認して安堵した後、顔を上げて逃げてきた方角を見た。

 遠くで、空に向かって火の粉が舞っている。サイレンの音はずっと鳴り響いていた。

「……ん……」

 腕の中で、柚瑠が小さく呻き身じろいだ。
 光一は静かに視線を柚瑠に戻した。

「…………」

 呆然として、頭が正常に働かない。身動きがとれないまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 光一…

「……、……」

 ふと脳裏に、梓沙が最後に自分に伝えてくれた言葉が思い起こされた。


 今までありがとう。お前と出会えて…友達になれて、よかった…


「……ぁ…」

 自分の口から小さな声が漏れた。
 ゆっくりと瞬きをする。
 俯いた顔の前で開いた手のひらに、次から次へと涙が零れ落ちた。


 梓沙…

 俺も、お前と出会えて…友達になれて、よかったよ……


 声にできない言葉を涙と一緒に吐き出すかのように、光一はその場で静かに、涙を流し続けた–––……


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?