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また会える、は本当?【エッセイ】

noteで気になる方を発見すると、とりあえずフォローするようにしている。というのは、次その方を見つけることができるかどうかわからないからだ。

前の前の職場で、助っ人として一日だけ来てくれる人などいたが、その方たちの連絡先も、可能な限り聞いた。

同級生が、知る限り四人は亡くなっている。それも数年前の話だから、その後はどうかわからない。

この年になるとどうも、「またね」って、本当にあるの?と思ってしまう。


以前私は重症心身障害児者の施設で働いていた。その時の上司の言葉がとても重かった。保育士が療育活動のリーダーシップを取っており、季節ごとに作品の製作を利用者さんにしてもらい、持ち帰ってもらっていた。ただ、その製作物によっては数回かけて作るものもあった。それを見ていた上司は「また今度作ろうねって言ってるけど、またがあるとは限らないのにね」と言っていたのだ。

私はその時初めて思い知った。頭ではわかっていたけれど、胃ろうや気管切開はしていても、一見元気そうでも、いつ急変して命を落とすとも分からないのだ。

そしてそれは、重心の方たちのみの話ではない。


一見元気そうに動いていても、いつなんどき、事故や災害に遭わないとも限らないし、突然の病で…ということも有りうるのだ。


これは自分自身への戒めとして書いている。なぜなら命が薄まっているから。きちんと毎日をその瞬間を慈しむことを忘れているから。同じ瞬間は二度とやって来ない。なんなら自分の命だっていつ尽きるとも限らないのだ。


それでも私は、「またね」と言うだろう。希望を込めて。

「またね」。そうやって考えると寂しいけれど、なんと愛おしい言葉だろうか。


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