比較対象【エッセイ】
私はちょっとばかり音楽を嗜む。
すごく上手いという程では無いので。
パートとしては、ボーカル、ピアノ、キーボード、ベースなどなどやってきた。
以前友人がうちにきた時、ちょっと褒められたくてピアノを披露したことがある。ムーンライトソナタの第一楽章を弾き終えて、どんなもんだいと得意げだったのだが、なんと無反応であった。はてこれやいかに?と思ったのだが、まあそんなこともあるかとその時はすぐに忘れたのだった。
その後カラオケへ行って、椎名林檎の透明人間という曲を好きだと聞いた。帰宅後ベースを持って、透明人間の最初のベース部分を再現したら痛く感激された。
私からすると、へ?てなもんである。耳で音を拾ってそれをなぞっただけなのだから。
道場のある建物にフリーピアノがあり、練習不足を補う戒めもありたまに弾いているのだが、道場の子がどうもそれを聞いていてくれたらしい。
私は楽譜を持っていかないので、自分でアレンジした曲を弾くことが多いが、どうも紅蓮華を聞いてくれたらしい。それを一緒に道場に来てる母上に話したらしく、そちらから話が来た。
実はフリーピアノでもムーンライトソナタも弾いているのだが、あまり反応はない。なんなら知らない子に乱入されたこともある。ということはその曲を聴いて素敵だとかでなく、興味もなかったということなのだろう。
私は思った。ああ、比較対象がいるのね、と。
仮に私がどんなに難曲を弾いたとしてもそれを知らない人、もしくはその楽器に触れたことの無い人からしたら「なんか弾いてる」という感想になるのだろう。要は私にとって難しいかどうかは大した問題でなく、聞き手にとって「なんかスゲー」と思えるものであると褒められるものなのらしい。
そこのテーブルの上に美しい宝石があるとしよう。宝石の周りにはねずみ色をした石が並んでいる。そうするとその中でほうせきはさぞや美しく見えることだろう。
しかし、宝石の周りにあるのも宝石だったら?真ん中にある宝石は目立たなくなってしまう。
今回の文章はフィーリングだけで書き始めたので、説明が下手くそだなあと思う。上手くまとめられていない。これで伝わるかどうか分からないのだが、「何が」ですごさが決まるわけでなく、受け取り手の中にあるものを使って受け取り手が「すごい」と受け取るものらしい。
だから私みたいに褒められたいと思う場合には、人気の高い訴求力のある曲を選べば良いようである。クラシックだとかよくできたスコアの醍醐味は自分の中で噛み締めれば良いらしい。