人生の意味に目的は必要である。テイラーの批判に反論する。ー人生の意味の哲学をはじめからていねいに(長門裕介,2020)を受けて

はじめに

長門(2020)はその先行研究について大きく二つに分類している。それによれば、人生の意味には現在の英語圏の標準であるmetzらによる客観的に良い目的(たとえば真善美)重視のものと、それより以前のシュリックらによる手段による充足(たとえば遊び)重視のものがある。

本論の目的は目的重視派を擁護することである。具体的には、手段重視派の論者の批判を取りあげ反論を試みる。

テイラーによる批判と、ランボーの反例

手段重視派であるテイラーは、良い目的が人生の意味として不適切である理由を二つ述べる。一つは、目的が達成されればその後の人生が退屈になってしまうことである。二つ目は、なんらかの目的を達成したとして、その対象はいつか無くなってしまうことである。それぞれ反論する。


一つ目に対して。たとえばアルチュール・ランボーの例を考えてみよう。彼は素晴らしい(少なくとも小林秀雄はそう思った)詩をいくつか残したあと、それらを捨てて別の職についた。彼の残りの人生が退屈であったとしても(むしろ退屈であるからこそ、その目的の素晴らしさが浮き彫りになり)、彼の人生に意味が無かったとは言いにくいように感じる。


二つ目に対して。対象がなくならない可能性については、技術の発展に頼るやりかたやミームとしての生存というやりかたが見込めるが、かなり弱いと言えるだろう。
対象がなくなっても意味はあると言えるか。場合分けをして考えてみたい。ランボーの詩が全て散逸してしまったとしよう。しかし、ランボーが詩を作ったという事実さえ伝聞されていれば、彼の人生には意味があったと言えそうである。次に、ランボーの名前(や表象、たとえば写真)しか伝聞されていない場合、彼の人生の意味は無いと言えそうである。彼の業績はもはや残っていないのだから。ただ、ランボーの名前がその業績と抱き合わせで述べられないという事はあまり無いと考えられる。なぜなら、詩(等の業績)を抜きにしてランボーを語る意味がそもそも無いように考えられるからである。たとえば、別の職に移ったあとのランボーのみを知る人がいるとして、積極的に彼のことを語ろうとするだろうか。最後にランボーの名前さえ伝聞されない場合、もはや彼の人生の意味について問う事も出来ないだろう。したがって、対象がなくなっても、彼を語ろうとする多くの場合においてその人生に意味はあったと言えるだろう。

結論

人生の意味に関する目的重視派に対するテイラーの批判は有効ではない。それぞれ反論できるからである。

参考文献

人生の意味の哲学をはじめからていねいに(長門裕介)
https://www.youtube.com/watch?v=dIKLDKdzEI0

宣伝

長門さんは人生の意味について研究する仲間を増やしたいらしいので、何らかの専門があって人生の意味について考えたい人はコンタクトを取ってみると良いのでは。
https://twitter.com/ngtaao2021

また、長門さんの発表したプラットフォームである哲学オンラインセミナーは、youtubeにて他にも質の高い発表(デカルトの真理論など)を無料でされているので、気が向けば視聴と募金を。(ぼくは関わってない)
哲学オンラインセミナー
https://congrant.com/project/philosophyonline/2321

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?