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顕神する元ニート-企画展〈顕神の夢〉レポート

 心がしんどすぎる、なんだこのユーウツは。しんどすぎるということしか分からない。デビット・リンチの映画に出てきた言葉を思い出して、息も絶え絶え堪えている。にっこり笑ってやり過ごせ。にっこり笑ってやり過ごすのだ。

 引きつった笑顔。醜い顔。通勤電車の湿気とマスクでめちゃくちゃになった前髪。こんなひどい顔を、外界に晒して、生活をしている。吐き気がする。自意識。

元田舎ニート、やや都会で「通勤電車」というのをやっている

 どこに頭をつっこんだら楽になれるのだろうか。でっかいミキサー?巨大なシュレッダー?5Fから見た3車線?

 疲れた。労働はたいへんだ。労働をしている皆さん、お疲れさまです。たぶんあなたは、私より働いているし、私より強固な責任感とプレッシャーを抱きながら、日々を過ごしている。尊敬する。

 労働をしていない皆さん、それは、大変素晴らしい時間だ。本当に、そうあるべきだ、人間って。焦る日もあるかもしれないけど、諸問題を考慮し、可能な限りゆっくり、その身を休めてほしい。

働きたくねえ〜

 さて、そんな連日労働の休日に、久しぶりに遠出をした。ずっと気になっていた企画展の巡回が行われている、自宅から2時間電車に乗った先の、太平洋を望む最果ての美術館に向かった。

碧南。なんてうつくしい地名だろう

 前述の勤務に身を焦がし続けていたら、せめて少しでも旅っぽいことをして息抜きをしない限り、いつか気が狂ってしまう。数時間の可処分時間を、酒で誤魔化し続けることにも限度がある。散らかった部屋、ほこりを被った箒と雑巾、返していない連絡。そういうものたちの呵責がちな視線から逃れるために、電車に飛び乗る。

 ニートは、旅に出る。ニートは、酒を飲む(下戸ニートはその限りではないが、私みたいな酒カス・ニートは極めてそうだった)。

 セピア色をした精神科の先生が、カルテを眺める視線をこっちによこす。回転式の椅子がキイと鳴く。ジェット・ストリームをかちかちと数回ノックしながら、口を開いた。
 私のやや演技的なカルテに対して、やれやれという風に答えを与える。「仕事でストレスを受けた人が休職や退職をすると、旅に出たり酒を飲んだりしはじめる傾向にある。だから、そんなに心配しなくてもいい」。

 私たち「何者でもないニート」は、漫然と「私たち」でい続けることに、耐えられない。無力で、何者でもない「私たち」でい続けるためには、ストレスを感じながら仕事をしているときと同様、下手したらそれ以上のパワーを消耗する。

カラス対策(試験中)

 私たちは、ときに私たちであるという社会性を忘却し、〈私〉があるがままここにいる、という感覚に没頭しなくてはならない。

 旅のはざま、無茶な移動に身を粉にするとき、身体があげる悲鳴とわずかな嬉しさ。

 スーパーカブでの土砂降り・極寒・峠越え。束の間、晴れ間から覗いた、偉大であたたかな太陽。

 車中泊の道の駅。誰かが整えてくれたインフラ。一晩限り、ゆるやかな同志たちの影。

 誰もいないキャンプ場のよるべなさ、遠方のかすかな海鳴り。虫たちの声。鳥たちの存在。しっとりと、どこまでも続く大地。

 自分で選択した疲労に基づき、私たちであるという無力感を忘れ、バランスのとれた脳みそを使って、内面世界へ潜っていく時間。


 ニートは内面世界へのダイブと親和性が高い。私の自虐めいた飲酒行為も、その一環であろうとしているのだろう。大抵の場合、希死念慮のしっぽを踏んづけてしまって、ろくなことにはならないのだが。私の場合、ほろ酔いの多幸感に取り憑かれて酒を飲むのは、「私たち性」の忘却を目的としている。

 私たちは多かれ少なかれ、現実の〈有〉を忘却せしめんと、内面世界へトリップしたくてたまらなくなる時期がある。こんな文章を読んでいる皆さんにも、そういう傾向があるはずだ。

到着だ、藤井達吉現代美術館

 いちどだけ、ものすごい幻覚を見たことがある。

 自己の内面が産み落としたとは到底思えない、未踏の領域に住まう異形の化け物たちがもたらす、根本を揺さぶる恐怖。防御壁を剥がされた柔らかい心臓に直接訪れる類の嫌悪感。制御できかねる圧倒的な色の蠢きに、ただ身を任せるしかないという絶望感。得体の知れない強大な「なにか」に平伏するしかない。

 言語化しがたい恐怖にじっと耐え、嵐をやり過ごそうと精神統一をしていると、やがて、転換期がやってくる。

 すべてを「了承」していく時間ーー紋切り型な表現に辟易するが、これ以上をエクリチュールにて言い表すことはできないーー多幸感によって裏付けされた、生存への肯定感。ーーまたしてもクリシェめいた表現しか思いつかない脳みそがまことに残念だがーーこの世に生をうけ、数えきれない人々が作り上げた円環の中で呼吸をし、ただ生きているということが、どれだけ凄まじい奇跡か、という動揺。自己を取り囲む環境、自己を構成するすべての要素に対する、溢れてやまない感謝にやられてしまって、身体が動かなくなる時間。

ずっとずっとずっと見たかったんだ、念願

 この企画展には、あのときの幻感覚を強く再起させる凄まじさがあった。

見神者たち
幻視の画家たち

 明らかに「あっち側」の理に支配される絵画の数々が飾られた、異質の空間に足を踏み入れる。ホラーゲームの世界に迷い込んでしまったような、とはいえ、悪意や作為によるものではない、原始的な、あるがままの恐怖。近寄りがたく直視に耐えがたい異形の者たちに、にじり寄る。薄目を開き、恐る恐る水晶体に映してみる。

元々のキー・ビジュアルにも使用されている中園孔二、すごすぎる

 無時間的な引力に捉われる。目が、合ってしまった。あちら側が、私を見ている。目を離したら最後、死角から襲われてやられてしまう。食い入るように睨みつける。交わされる視線の強度に比例して、私の輪郭が失われていく。あちら側と合一しているような気がする。合一してしまっている。

 喧騒が遠い、指先が冷たい、先ほどまで乗ってきた公共交通機関のことなんか、日々の職務のことなんか、愛憎入り混じる他者のことなんか、今、この瞬間において、微塵も考える余地がない。分からない。分からないことばかりだ。分からないということも分からない。「分かる」とは?

この人もすごすぎた、泣いちゃった、怖くて

 恐怖に怯え、身体と脳のバランス感覚がおかしくなり、足元がガクガクと震え出し、頭脳がクラクラと揺れ始める頃、企画展はその毛色を変える。

「内向的光」!

 「内向的光を求めて」。ゆったりとした白い空間に、激しい光の窓がいくつか。幻覚的だが、恐怖はない。快い世界が観覧者を待つ。

 明確に自由な光が、うれしく躍動するさま。このリズムには既視感がある。閉眼幻覚が世界に溢れ出してしまった、あの瞬間のようだ。畏怖と多幸感に溢れたあのプリズムが、今、シラフの冴え割ったアタマに到達している。

 身体が揺れる。絵画が持つ振動に共鳴している。身体が揺れる度に、多幸感が溢れ出す。呼吸をしている。呼吸をやめることがない。私はこのときこの瞬間まで、呼吸をやめることがなかった。えらい。

 光の部屋から出口へ向かう長い廊下で、知らないおじさんに話しかけられた。「全然わかんなかったよ」、と。端的に語る方法を見い出せず、曖昧に微笑んだ。

気が動転して、附属のカフェでバスチー食べた。そんなに期待してなかったけどめちゃくちゃ美味かった

 外に出て、陽射しに手をかざし目を細め、強い北風に肩をすくめるとき、明らかに「整って」いた。私は、私であることを取り戻したのだろう。またすぐに「私たち性」の世界に戻るのだけど、とにかくあの数時間は、「私」はきわめて「私」だった。

 さいはての駅近くに店を構えるバルに立ち寄り、薄いピザにタバスコを垂らしながら、この身を過ぎ去った圧倒的な雷雨と晴天を考える。あの体験は、なんだったのだろう。

図録にジントニックはこぼしたけども

 私にとっては、サイケ・トリップの一環とみなして遜色ない時間だと言っても、過言ではなかった。

図録もまだ売ってて、たいへんよかった

 私たち性を忘れたいニートの皆さん、旅や飲酒といった内面世界のトリップに親和性の高い皆さんは、是非この企画展を見に行ってみてほしいほしい。そしてできれば、この体験の感想を私に語って聞かせてほしい。

 巡回あるしみんな行って!と思ったら碧南でおしまいだった。2024.2.25まで。みんな、愛知、来てね。

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