見出し画像

35.【推しの子】人はなぜ愛するのか

ツクヨミ「人は何故、愛を抱く生き物なのだろう。後悔や怒り、憎しみの事を愛と呼ぶというのに。羨望、嫉妬、執着を。欲望や失望を、絶望の事を愛と呼ぶというのに、愛ゆえにその命すら奪うというのに、人はーー」

推しの子158話より

「愛すること」とは一体何なんでしょうか。なぜ人は愛するのでしょうか。なぜ愛はこうも人を変えてしまうのでしょうか。

精神分析家エーリッヒ・フロムの著書「愛するということ(フロム著,鈴木晶訳,紀伊國屋書店)」は有名ですが、「愛するということ」という邦訳は、英語だと"The Art of Loving(愛する技術)"とされています。愛するということに対して「能動的な技術」であり、また「簡単に浸れる感情ではない」と捉えています。

「愛」の裏に渦巻くネガティヴな感情

マザー・テレサは、「愛の反対は憎しみでなく無関心」と述べました。日本語でも「愛憎(あいぞう)」と呼ばれるように、愛と憎しみとは表裏一体であり、愛が憎しみに変わってしまうことは少なくありません。愛と憎しみでは、プラスかマイナスかは違うように見えますが、いずれも相手に対して何らかの関心を持っているからこそ抱く感情です。
それに対して、愛も憎しみも持たずどうでもいい対象に対して、人は「無関心」になります。

ファンとアンチについても同様のことが言えます。ファンであってもアンチであっても、貴重なその人自身の時間を費やしてまで行動を行うということは、決して「無関心」とはいえないでしょう。「何か気になってしまう(関心)」という気持ちの揺れ動きの末に、それがプラスの要素を帯びた場合は「愛」となり、マイナスをの要素を帯びた場合には「憎しみ」となり得ます。

精神分析では、幼少期における重要な他者(多くは養育者である両親)に対して本来向けるべき感情を、目の前にいる治療者(分析家)に向けることを「転移」という言葉で表しました。そのうち、ポジティヴな感情を向ける場合を「陽性転移」、ネガティヴな感情を向ける場合を「陰性転移」と呼んでいます。これらの感情そのもののことは、「転移感情」と呼ばれています。
私は精神分析が専門ではありませんが、この転移感情ということをあらかじめ想定した場合、愛と憎しみとの関係が見えてくるようにも思えます。

発達に置ける感情の分化

本来、この愛と呼ばれる感情とその他の感情は未分化なもので、容易に変わりうるものだったと考えられます。そもそも、感情の発達という点で見ても、アメリカで発達心理学を研究したブリッジスは、はじめ感情は興奮から不快・快に分化し、それが「怒り」や「嫌悪」「恐れ」などのネガティヴな感情からさらに発展していき、その後、ポジティヴなものである「得意」や「愛情」、そしてネガティヴな感情である「嫉妬」が生まれてくると考えました。

このように、元来人間はネガティヴな感情から優先的に発達していき、そのあとにポジティヴな感情が増えていくということが考えられています(その中に愛情もあります)。愛情の前にネガティヴな感情がきていることが、この愛とネガティヴな感情の関係性はここから始まっているのかもしれません。

生理的早産

ひとは一人では生きていくことはできません。哺乳類の中でも、人間は大人に庇護されることによってしか、生き延びていくことができません。スイスの生物学者ポルトマンは、ひとの妊娠期間(平均約10ヶ月)について、他の哺乳類、たとえばウマなどの妊娠期間(平均約22ヶ月)に照らし合わせて考え、以下の様な考えを述べています。
ウマは生まれてからすぐに立って歩くことができますが、それに対して人間は、生まれてから立てるようになるまでに1年ほどかかり、ある程度安定して歩けるようになるまでは1年半ほどかかります*。このことについて、ひとが体内で本来成熟するはずだったものが、未熟なまま早く生まれてくるようになったとポルトマンは考え、このことを「生理的早産」と呼びました。

*脳の大きさとしても、猿と同程度に発達してから生まれる場合には、あと11ヶ月は体内にいる必要があり、そこまで大きく発達すると産道を通れなくなってしまうため、早くに生まれるのではないかという説もあります。

上記で、「ひとは一人では生きていくことができない」という点について触れました。もちろん他の哺乳類においてもそうですが、生まれてすぐ大人に庇護されなければ死んでしまう存在であることが、さらに一人で生きていくことを難しくしているといえるかもしれません。

愛の種類と感情の裏表

さて、ここで「愛」の話に戻りましょう。
愛には様々な愛があります。古代ギリシャでは、エロス(肉体的な愛)、フィリア(友愛・友人同士のつながり)、ルダス(遊びの愛・恋愛的な愛)、アガペー(無償の愛)、プラグマ(実用的な愛)、フィラウティア(自己愛)、ストルゲー(家族愛)、マニア(偏執狂的な愛)の8つに分類がなされました。

この分類が必ずしも正しいとはいえませんが、愛のことを多角的に考えるにあたってはヒントになるかもしれません。執着や怒りにかかわる愛は、このうちマニア(偏執狂的な愛)にあたり、愛と憎しみ、執着が混在するようなものであり、それが満たされないと怒りになると考えられます。
自分が一番でありたいというフィラウティア(自己愛)が満たされず、他の人を(ここではニノがアイを)羨む場合、それは羨望や嫉妬に変わります。

その一方で、アイは「愛したいけど、愛するということがわからない」と思っていたため、ニノを含むすべての人達に向けようとしていた愛は、アガペー(無償の愛)だったのでしょう。ニノのアイに向ける愛と、アイのみんなに向ける愛のすれ違いがこのような関係性へとつながったのだと考えられます。

推しの子136話より

この複雑な愛同士の関係が、いくつも一人の人物の中にあり、しかもその向ける対象が同じであると、愛は憎しみ、執着、羨望、嫉妬などネガティヴな感情に支配されやすくなるのでしょう。元々の愛(いずれの愛でも)が大きければ大きいほど、そのネガティヴな感情は大きさを増します。

愛の体現

フィンランドの臨床心理士であり、当時大学教授であったセイックラらは、"Healing Elements of Therapeutic Conversation: Dialogue as an Embodiment of Love"という論文で、愛を体現するものとしての「対話」を挙げ、愛と呼ばれるものが、治療的対話の中での癒やしとなる要素であるとしています。ここでの「愛」はロマンティックな意味での愛でも性愛的な愛でもなく、包括的な意味での愛を示しています(Seikkula, 2005)*。

*Seikkula, J., & Trimble, D. (2005). Healing elements of therapeutic conversation: Dialogue as an embodiment of love. Family process, 44(4), 461-475.

人と人との対話・かかわりの中で、愛は治療的にもなりうるのかもしれません。人は一人では生きられない。逆にいえば、人はともにいること(with-ness)で生きられる。傷ついても愛の中で回復ができるということではないかと思います。

星野アイは、その生育歴から、愛する・愛されるということがわからないから、みんなを愛したいと思い、アガペー(無償の愛)を振りまいてきました。

推しの子10話より

そして、
ルビーとアクアにはストルゲー(家族愛)を感じ、伝えることができした。

推しの子10話より

「人を愛したい」と思って、嘘をつく(演じる)ことを始めたアイは、実は愛をたくさん持っていたのではないでしょうか。アイ自身が持っていた愛も、決して「愛」と一言で表せる単純なものではなく、またアイの生まれ育ってきた中で「愛するということ」に対して疑問を持ち、「正しい」を追求せざるを得なかったところに悲哀があります。

再度、ツクヨミの言葉からの引用です。

ツクヨミ「人は何故、愛を抱く生き物なのだろう。後悔や怒り、憎しみの事を愛と呼ぶというのに。羨望、嫉妬、執着を。欲望や失望を、絶望の事を愛と呼ぶというのに、愛ゆえにその命すら奪うというのに、人はーー」

推しの子158話より

ここに明確な答えや結論はありません。
愛が後悔や怒り、憎しみへと代わり、愛は羨望や嫉妬、執着を生む。愛は欲望や失望、絶望にも関わり、その命すら奪うものであっても、私たちは愛し続けざるを得ません。「(上記の8ついずれの愛も含んだ)愛する」という力が、そして愛されるという体験が人を生かし続ける限り、人は「愛する」を止められないのかもしれません。

これを読んでいるあなたが、現在「愛することができない」「愛されない」と思っていたとしても、自分にとって話してもいいと思える人と対話を始める、そしてその対話を継続することを第一歩とできると信じています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?