告白読みました。


又吉さんの【第2図書係補佐】にある本を読む、感想を書く第2弾。
町田康氏著、【告白】。

図書館の事前ネット予約を利用しているので、実物がどんなもんかを見ずに(ページ数も確認せずに)予約をする。
モノと対峙するのは受取に行ったその時で、司書さんが用意してくださったモノを見て一瞬息が止まった。
こんなに分厚い物語を、私は読んだことがない。

おわ~、よ、読めなさソ~!!と漠然と思った。
だってこれ、短編集とかでもない。この分厚さ(本編約800P)をもって1作なのだ。
いけるのか、俺—―—!



誰かと会話をしたその日は、夜な夜な脳内反省会が行われる。
あれは言わなくてよかった、もっとこう言うべきだったかも、自分の思っているニュアンスと違う受け取られ方をしていた気がする、など。
アァアァァァ〜と気弱な小型恐竜みたいなうめき声を出しながら枕に顔を埋めたくなる時間。
気弱な小型恐竜なんてものがいたのかな。どうだろ。

そういうの、わりかし誰にでもあるとは思っているのだけれど、そのいわゆる"病む"に近いフェーズから、じゃああのときどうしたらよかったかを更に考える。もっと良い例えはあったか、話し方が工夫できたかも、自分が普段良いと思っている会話術を持っている人に当てはめるならば。
意味ないっちゃ意味ない。だって同じ会話を同じ人とはもうしないし。

そんで考えている間に脱線する。
あのときこう例えてたら伝わりやすくてしかもおもろかったかも…相手が石焼きガーリックライスでおこげ作ってるときにする話じゃなかったし、てかおこげ作るのうますぎたし持ってきてくれた店員さんも我が物顔で最初作り方教えてくれてたけどたぶん予想以上の出来だったし、てか最初におこげ作るとうまいよって教えてくれたの先輩だったな、先輩今旦那とうまくいってないって言ってたっけ、あのときの会話は……

脳内大忙し。日常茶飯事。

相手がいたときは反省会、それだけじゃ飽き足らず自分のこととかその他のこととかずっと何かを考えていて、しかも結構文章にしている。(例えばこれをX旧Twitterでつぶやくなら…noteに書くなら…みたいな)
実際にはもっととっちらかっているんだけれど、兎にも角にも"考えている"。



【告白】
明治時代に実際に起きた大量殺人事件[河内十人斬り]をモチーフに書かれた作品。

熊太郎は幼い頃から両親の寵愛を受けて育った。
生みの母が早くして死んだが、父の後妻も大事に大事に、そして近所そこらの大人たちも熊太郎が何をしてもほめそやす。そんなもんだから熊太郎は調子に乗ったガキに育つかと思いきや、それはそれで違った。別に自分は大したことはないのだと気づいていた。
ただ、他の人間より思弁的であるが故か、自意識だけはそれはそれは過剰な男だった。
幼いながらに何故こう言うのか、何故こう言われるのか、何故こう在るのかの意味を考え、自分の言語力よりも思考が先走り、ずっとずっと先走り、色んなものが結果的にかみ合わず36歳まで。
賭博、酒、女、百姓の倅でありながら無職。真面目な内面とは違い、周りから見たらしようもない無頼者。
幼い頃恐怖しながら体験してしまった人殺しを軸に生きた人生。
弟分の弥五郎と大量殺人を行うその日までの彼の思考、会話、行動が軽快な河内弁で語られる。


読めた。めちゃくちゃ読めた。すごくおもしろかった。
主人公熊太郎の思弁的な様やタラタラとした台詞に共感を無理やり引っ張られたというか。

『自分の頭の中にあるごちゃごちゃした考えを相手に伝えるためには全部最初から事細かく説明したほうが良いし実行しようとするけれど相手からしたらちぐはぐすぎてマジ意味わからんやべェこいつって思われてるだろうなってわかってはいるけれどお前が聞いてきたからこっちだってしゃべってるしけどじゃあ省いたところで伝わらないじゃん自分で省き方もわかんないんだもん』姿に少しばかり自分を重ねて、ページをめくる手は止まらないのに目を背けたくなる箇所が多々。
そんなことまでよォ!言わなくていいんだよォ!もっと、、こうさァ、うまく、、話せよォ!!!と、思っていたのは熊太郎にか、自分にか。

「俺の思弁というのは出口のない建物に閉じ込められている人のようなもので建物のなかをうろつき回るしかない。」

ああ、そうだろうな、って思った。
熊太郎自身に何かある度、彼は思考を巡らせて思い込むし、相手の気持ちや考えも決めつけるし、そのせいでどんどん穴は深くなっていく。
もう這い上がれないと思うから掘り続けるしかなくて、でも実際は"そんなことなかった"となることが怖くて逃げていたところもあるかもなんて考えて、また思い込んで
あーーーお前は、、!もう!ほんとに、、!お前はさァ!!!!
読んでいる最中、私は何度喉の奥がかゆくなったかわからない。


熊太郎の信心深さはどこからきているのだろう。
自分が大楠公の生まれ変わりだということは、幼いころに思い、ほぼ最後のほうまでうっすら思い続けていたのかなと思うけれど
いつからかよいしょよいしょで神の存在が熊太郎の行動を左右するようになっている。弥五郎と一緒に大仏様のとこまで行ったところからかな。
あまりにも周りの人間と自分の思考回路が違いすぎると思って、正当性を主張するには『神様が○○したから』しかなかったのだろうか。


「助けて、寅ちゃん」

熊太郎が自分の正義を貫く上で現実を見せられたシーンだと思う。

「思弁と言語と世界が虚無において直列している世界では、とりかえしということがついてしまってはならない。」

だんだんと順番が変わってくる。今まで線で繋げてきたはずの人生の全てを現地点からまた遡って張り直している。あれは何故か、これはどうしてかと語る。自分の正義の理由をつくる。

クライマックスの"告白"するシーン、さぞ勇気がいったろうな。
そしてなるべくしてなってしまったんだなあという結果だった。


「あかんではないか」

そうだなぁ。

「あかんかった」

……そうだなぁ…。


自分の頭の中が相手に見せられれば"伝わる"だろうが、"どう思われる"がコントロールできなくなる。
コントロールなど、はなから出来ないのかもしれないが。

あかんなぁほんと。



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