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「描かれるのは複数の生き延び方」モラハラからのサバイバル・キットのような一冊。櫻木みわ著『カサンドラのティータイム』/文筆家・水上文さんによる書評を特別公開

 発売以来、様々な反響の声が届いている櫻木みわさんの『カサンドラのティータイム』。雑誌掲載時より本作を高く評価してくださっていた文筆家の水上文さんが「小説トリッパー」2022年冬季号にご寄稿くださった書評を特別に公開します。

櫻木みわ著『カサンドラのティータイム』(朝日新聞出版)

モラハラからのサバイバル・キット

 自分を害する人間から逃れること、苦しみを把握し得る知識を得ること。それは言うまでもなく、生き延びるための重要な方途ではある。だが、道はひとつではない。

 櫻木みわの『カサンドラのティータイム』が描き出すのは、労働環境における女性の困難であり、巧妙な支配と暴力であり、同時に生き延びるための複数の道でもある。

 友梨奈と未知という二人の女性の視点を交差させながら形作られるこの物語は、モラハラに苦しめられる女性に焦点を当て、それぞれに異なるサバイバルを描き出すのだ。

 三章に分かれて構成される物語のうち、冒頭に置かれているのは、ファッション・スタイリストになる夢を抱く友梨奈という女性の視点から語られるものである。

 友梨奈は努力と行動力によって、ついに憧れのスタイリストの事務所でアシスタントの地位を得て、未来への希望に胸を膨らませていた。フリーランスのアシスタントとして、その境遇は十分に恵まれたものでも、確かなものでもなかったものの、望んだ仕事に就いたことへの満足感に、彼女は満ちていたのだった。

 けれども、そんな彼女の未来はある事件をきっかけに断たれてしまう。人気を博する社会学者の男性が、泥酔状態の彼女とセックスした挙句、彼女をストーカー扱いし、その信頼を失墜させたのである。憧れのスタイリストからもらった大切な指輪を失くしたことに動揺し、指輪を失くした場所と思われる男性宅のインターフォンを繰り返し鳴らし、また彼に数回連絡した――たったそれだけのことで、彼は友梨奈をストーカーとして捉え、警察に被害届を出したのだ。

 彼は弁護士の親を持ち、東京の一等地の実家に住み、学歴もキャリアも知名度もあった。そんなあからさまな特権性を有するにもかかわらず、その奇妙に歪められた認知において、自らの権力に対する自覚は消え失せていた。彼は自らを「被害者」に位置付けていた。まるで悪意などないままに、彼は友梨奈のキャリアを奪い去ったのだ。

 そして第二章に置かれるのは、この小説のもう一人の主人公、未知の物語である。

 保育士になるほど子どもが好きだった彼女は、数年続けた不妊治療に区切りをつけ、新たな仕事を始め、自らの経験を整理するべく漫画を描き、SNSに公開していた。彼女は、表現することのできないままであった様々なことを漫画に描く喜びに夢中になっていた。専門的な教育を受けたわけではない彼女の絵は特段「上手い」ものではなかったものの、目を惹く何かが宿っており、編集者の目に留まり、出版の話も出たところであった。要するに彼女もまた、友梨奈と同様に、自らの望む仕事を得ようとする途上にあったのだ。

 けれども未知も友梨奈と同様、ある種の妨害を受けることになる。未知に対してそのような暴力を振るうのは、彼女の夫である。小説家を志し、文学賞を受賞した経験も持つ夫は、自らの怒りを抑えられなくなることがあったのだ。暴言を吐き、未知を責め立て、自分を棚上げして未知の咎ばかりを言い募る。家から追い出したり、車から降りさせてそのまま置き去りにすることさえある。その上、彼は自分を苦しめているのは未知に他ならないのであって、自分こそ「被害者」だと考えているのだ。未知の抗議は彼には届かない。届かないから、未知は一体自分が何に苦しめられているのか、今ここにあるのは何なのか、その所在さえ自覚できないままになっているのだ。

 そんな未知の前に現れるのが、同種の経験を持つある女性である。

 その女性は、未知が受けているのは「暴力」だと言う。彼女が未知に与えるのは、「自己愛性パーソナリティ」をめぐる本であり、未知が自らの被っている被害を認識するために必要な知識である。自分の身に何が起きているのか把握できない時期を過ごし、知識を得ることで少しずつ回復した経験を持っているその女性は、自分の知る「救われる」ための手段を未知にも与えようとしたのである。

 そして第三章で描かれるのは、夢を断たれた友梨奈のその後である。かつて関心を持っていたものから遠ざかり、今では穏やかに夫と暮らす彼女――それは生き延びた人のひとつのあり得る姿であった。小説は、あるトラウマからの回復やその後の姿を、友梨奈のその後を通して描き出しているのだ。

 だが、方途は何もひとつではないのだった。

 第三章は、女性たちが自らの経験や知恵を分かち合う、シスターフッドと言って良いありようを、また意外な選択をする未知に、友梨奈が驚かされる様を描く。未知は知識を得てもなお、夫と共にいようとするのだ。彼を助けようとする彼女は、危うい選択をしているように見える。だが、それは幼く無知なようである未知の意外なまでの「強さ」を示すものでもあり、友梨奈とは異なる仕方でのサバイバルなのだ。

 未知の選択の結末は、物語では描かれない。示されるのはただ、確かにあり得る複数の生き延び方であり、そのために必要な知識や絆である。本書は苦しんだ経験を持つ人に捧げられる、サバイバル・キットのような一冊なのであった。

■『カサンドラのティータイム』の冒頭を試し読みいただけます

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