「コスパ」「タイパ」の時代に『斎藤家の核弾頭』(篠田節子・著)を読む/ブレイディみかこさんによる解説を特別掲載!
過去のある時点から未来を想像して描いた小説を読んで、「マジすごいんですよ、この本に書かれた通りになっているから」みたいな感想を書くのはいかにもありがちで、芸がない。
だから、できればそのようなことは書きたくない。違う切り口を見つけなければと血眼になって本作を読んでいたが(考えてみれば、解説を書くとか、推薦文を書くとかいう目的があって小説を読むのは、なんともさもしい、侘しい行為である)、しかしもう、わたしは諦めるしかなかった。芸がどうとか言っていられないぐらい、本作に書かれたことが今(ところで、今は2024年の夏の終わりだ)ニュースやネットを騒がせていることに酷似していて、わたしはその事実に屈服せずにいられない。
この物語の主人公(たち)は、由緒ある家柄である斎藤家の人々だ。当主の総一郎は裁判官として日本のために働いてきたのだが、職をコンピュータに奪われたために引退させられ、国家から「役にたたない」人間の烙印を押されてしまう。本人がこれになかなか気づかないのがいかにもエリートらしいところだが、斎藤家の人々はいきなり先祖代々の土地を追われ、家族で人工島へ移転することを余儀なくされる。本作は、「家族」というミクロな単位の人々の日常を通して、その背後に浮かび上がる「国家」のマクロを描く。いたいけな少年の手記から始まりながら、「家族の物語」みたいな小さな話ではないのだ。
本作の中で描かれた日本は、平成23年に首都圏大地震が発生することになっており、政治も経済も混乱の頂点を迎える。おりしも、前世紀からの「悪平等主義」「猿に導かれた民主主義」のために家庭が崩壊し、小学生はランドセルに覚醒剤を入れて登校し、出産による女子の中学中退者が激増。青年層はセックスとドラッグと酒に耽るようになって出血性激症性感染症が大流行した。経済混乱による超円安が進み、モノ不足、食料不足など、日本は次々と深刻な問題に襲われたという。
翻ってリアル日本を見渡せば、近年になって増えている「梅毒」や、ネットを賑わす「止まらない円安」、米不足、物価高など、本作を読んだ2024年の日本に暮らす人々には、えっと思う言葉が並んでいるはずだ。
本作中の日本では、このような未曽有の国家危機の中で、カオスと暴力が社会に蔓延したので、ウルトラ保守主義と呼んでもいい、倫理規範に基づく家族主義を単位とする国家主義が、一世紀を経て復活することになった。「故なき差別」は悪いが、「理由ある区別」は秩序ある幸福な国には必要とされ、国民能力別総分類制度、つまり「国家主義カースト制」が設けられる。特A級の男性は(何人の女性と)何人子どもを作ってもよいが、B級は4人まで、C級は3人、D級は2人に制限され、それ以下の階級(いわゆるアンダークラスだ)では一人子どもが生まれたら去勢される。他方、女性は特A級の男性と結婚してたくさん子どもを産むことが出世の道だ。自立して働く女性は下層の女と呼ばれ、結婚を拒んだり、子どもを産みたがらない女性は人格障害者扱いされる。
このA級、B級などの階級にしたって、近年ネットで使われている「上級国民」「二級国民」を髣髴とさせるし、「結婚と出産は『高所得層の特権』」という近年の若者たちの声を思い出す。国家がカースト制を敷いているわけではないが、すでに日本はそうなりつつある。
ほかにも、「事故遊休地」(過去の中途半端な科学技術によって使用不能になった地)の代表的なものとして「埋め立て失敗によってメタンガスが噴出する土地」があげられている箇所では、どうしたって大阪・関西万博用地、夢洲でのメタンガス発生を連想させられる(しかし、本書の中の日本では、こうした問題のある土地に送られるのは、国から用済みと見なされた人々だが、リアル日本は、世界中の人々を招いて万博をやろうというのだから、現実のほうがスラップスティックかもしれない)。
日本だけではない。本作のウルトラ保守主義を読んでいると、米国大統領選で話題になっている「プロジェクト2025」みたいだと思わずにはいられなかった。「プロジェクト2025」は、米国の保守系シンクタンク、ヘリテージ財団が主導するプロジェクトで、第二次トランプ政権が発足した場合、その運営資源になるとも言われる政策提言書だ。
あまりに悪名高いので、トランプ本人は距離を置きたがっているようだが、このプロジェクトは、「米国を急進左派の支配から救う」ことを目的とし、対気候変動規制の撤廃や勤労者保護の縮小、トランプ氏への忠誠心を選考基準とする公務員の入れ替え、教育省の解体などラディカルな米国政治の再編成を提案する。さらに、DEI(多様性、公平性、包括性)に反対する立場を鮮明にし、人工中絶規制の強化、ポルノの禁止などが含まれている。
トランプが指名した副大統領候補のJ・D・ヴァンスは、民主党のハリス大統領候補について「子どものいない女性」と発言していたことで話題になったし、「閉経後の女性の存在意義は孫の育児を手伝うこと」と述べた音声も発見されて女性たちを怒らせた。こうした言葉を発したヴァンスは、70代や80代の政界の長老ではない。まだ40歳の若手議員だ。彼のようにWOKE(社会的不公正、人種差別、性差別などに対する意識が高い人々)が米国をダメにしたと考える保守派は多い。WOKEへの反動として「いつの時代なんだよ」というようなウルトラ保守思想が支持を広げ、「プロジェクト2025」はそうした思想を政策に落とし込んだものだ。
ところで、J・D・ヴァンスは、『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』という自伝を書いて有名になった人だ。同書の中で彼は、産業の衰退が進む米国のラストベルトの貧しい地域で育った自分の生い立ちを赤裸々に描いた。
離婚と結婚を繰り返し、薬物に依存してシングルマザーになった母親に振り回された幼少期。育児放棄する母親のもとから離れ、祖母と暮らすようになって彼は家族愛や道徳を教わり、勉強して軍隊に入り、大学に行って弁護士になるという、いわゆるエリート層への仲間入りを果たした。彼のように荒廃した貧しい地域で育った人が、保守的な家族観に基づいた社会を構築しようとする姿は、『斎藤家の核弾頭』に登場する日本が辿った道のりとよく似ていないだろうか。
とはいえ、本作の日本と現代の米国には大きな違いがある。米国はトランプという独裁的な人物を使ってウルトラ保守的な政治を実現しようとしているのに対し、2075年の日本は、ある極めて日本的なシステム(日本の人々が大好きなシステム)に依拠することによってそれを実現しているからだ。本作にはこう書かれている。
波乱の時代から70年、紆余曲折を経て現在の日本では独裁主義でも民主主義でも、資本主義でも社会主義でもない極めて日本的なシステムが作り上げられた。あえて主義という言葉を使うなら、国家効率主義とでもいおうか。
ちょっと背筋がヒヤッとする文章ではないか。日本社会には、すでにその萌芽があちこちにある気がするからである。「タイパ」「コスパ」といった言葉の流行がまずそうだ。そして、何かと声高に叫ばれる「最適化」。「ハック」や「チート」だって、既存のシステムやその穴をいかにずるく利用して利益を上げるかということなので、「最適化」の一つであることに違いはない。
もともと日本は二大政党があって右へ左へと政権交代を繰り返してきた国ではない。ほんの短い例外期間を除けば、戦後は一つの政党が政権を担ってきたので、右派とか左派とかいう政治イデオロギーにも、一般の多くの人々は関心が薄い。右派と左派がネットでいつも喧嘩していたとしても、多数派の人々から見れば、どちらも「極端な考えを持つ変な人たち」でしかない。
資本主義、社会主義にしても同様である。戦後の日本は、企業が国になり代わって被雇用者に手厚い福利厚生を与えてきた「日本型社会主義」で驚異的な経済成長を遂げたと言われることもある。資本主義と社会主義が曖昧に混ざり合ってきた国なのだ。そんなところに、西洋式の右と左が両側から綱を引き合うイデオロギーの政治は根付かない。現代はSNSの影響で、政治イデオロギーの闘争が繰り広げられているように見えるが、これは狭い島宇宙の中での現象に過ぎないだろう。
ネットの外も含めた日本には、正義やイデオロギーよりも多くの人々に求められ、あまねく尊ばれる概念がある。それが効率性なのだ。
効率の良さを追求していけば、世の中の役に立たなくなった人間は社会から退場していかねばならなくなる。斎藤家の父親、総一郎は、コンピュータで代替されるようになった裁判官の職を追われ、専門職の超エリートだからこそのつぶしのきかなさが災いし、廃棄物扱いにされる。バリバリの家父長制では父親が社会の廃棄物にされると家族も同じ道を辿るしかない。それが崩壊に繋がっていくのだが、斎藤家と日本の行く末を変える人物が一人いる。
小夜子である。読み始めたとき、最も魅力的なこの登場人物は、本書のゴジラなのかなと思っていた。人間の歪んだ欲望による過度な自然への介入によって生まれた巨大生物が暴れまわり、家族も日本もぶっ潰す、みたいな結末を予測していた。しかし、小夜子は暴れない。逆に、たった一人で破滅の危機に立ち向かう。
考えてみて欲しい。小夜子ほど、「コスパ」と「タイパ」の悪い子どもはいない。とんでもない量の食料が必要だし、めちゃくちゃな速さで成長して老いていくのだから、むしろ時間を有効に使う暇すら与えられていないのだ。「最適化」にいたっては、土いじりをしたらブルドーザーみたいになってしまったり、「いやいや」をしながら親の腕に触れたら体ごとふっとばしてしまうのだから、これほど環境に適応できない子どももいない。
だが、その小夜子だけが2075年の日本で果たすことのできた役割がある。
「失われた30年」が始まったばかりの1997年に出版された本作を、2024年に読む大きな意義が、そこにあるようにわたしは思った。「この小説に書かれた通りになっている」だけではなく、「これから」への提言として。