「まるで、長い光の中をお慶と共に歩いたような心地」――6年ごしの作品に遂に「グッドバイ」朝井まかてさんの随筆を特別公開
一編の小説を書いて世に出して、それからも作品とのつきあいは続く。
作家によって事情は違うけれど、私の場合は文芸誌や新聞に連載してから単行本になり、そして数年後に文庫化される。むろんその間に他の作品に取り組んでいるので間断するのだが、ざっと6、7七年もの間、主人公と登場人物たち、その時代、その土地との縁が続く。
たとえば、この10月に文庫が刊行された『グッドバイ』は連載前の取材から算えればやはり足掛け6年のつきあいになった。私は数字にことのほか弱いので、担当の編集者に「6年の長きに亘って」と言われて気がついた。
6年。体感としてはあっという間だったけれども、それなりに嵩のある時間である。
おぎゃあと生まれた子が幼稚園に通い、来年はそろそろランドセルだね、何色がいい?などと気の早い祖父さん祖母さんが目を細める歳月だ。ひょろひょろだった若木が枝を伸ばし葉を繁らせ、幹もたくましくなる。私自身もさまざま変わる。頭は白くなり皺が増え、足がふらつくのでパンプスが履けなくなった。そして驚くべきことに徹夜ができなくなった。無理をして明け方まで頑張ると翌日はまったく使い物にならない。最近は仕方なく朝型にシフトしつつあるけれど、静かな夜更けにこそ筆が進むのだ。かあっと膨張した頭の中がやがて澄んで、扉が開く。この一行に出会えたという瞬間、それは夜更けにしか訪れない。にもかかわらず、今は日付が変わる前にとっとと寝ている。えらいこっちゃ。なぜか負けたような気がするが、何に負けたのかは考えないことにしている。
めでたいこともあった。甥たちが次々と結婚して子供が生まれ、我が家も引っ越しを敢行した。新居は快適だ。どの窓も緑に面していて、日ごとに紅葉し、やがて落葉し、また若芽をつける。夫と2人並んで料理もできる。そうしやすいようにキッチンを造ったのだから当たり前だ。ああ、でも愛猫は死んでしまって今は写真の中にいる。担当の編集者たちも顔ぶれが変わり、遠地に転勤になって滅多と会えなくなった人もいる。
そういえば、『グッドバイ』の最初の取材で長崎を訪れた時は葉室麟さんと一緒だった。葉室さんは別の仕事で長崎に行く、なら、亀山社中記念館で合流しよう、となった。あれは5月頃だっただろうか。まさかその年のうちに逝ってしまわれるとは思いも寄らず、けれど大変に痩せておられたことに胸をつかれて、でも口に出せなかった。いたわられたくない、心配されたくない、僕は大丈夫だ。その気持ちがひしと伝わってきて、私たちは笑いながら坂道を一緒に歩いた。風も陽射しもぽっかりと明るい午後だった。
これほどさまざまの時間を過ごしているのだから、文庫化のためのゲラ原稿を目の前にすると新鮮に映るのも道理だ。そして読むうち、ここもあすこも手を入れたくなってしまう。連載時も単行本化の際も精一杯を尽くしている。そのつもりだが、当時の私と今の私は違う。進化しているのか劣化しているのかは別にして、もはや異なる私が見るので気づきが多い。大幅な改変は行なわないけれど、あらぁ、こんな矛盾を見逃していた、心情をもう少し深めたい、ここは情緒過多、小っ恥ずかしいから削除、と朱を入れてゆく。文章のリズムは生理的なものが作用しているから、読点の位置を変える箇所もある。
親しい作家仲間にも確かめたことはないが、文庫化の際に大幅に加筆修正する人もあれば、ほとんど手を入れない人もあるらしい。先だって、ある先輩と話していたら、単行本化ですらほとんど手入れをしないことが発覚した。のけぞった。のけぞった私を見て、「なんで?」と不思議そうな目をしていた。つまり連載時の原稿が完璧ということだ。文芸に完璧完全という言葉がふさわしくないとすれば、この世に発出した作品の息吹をそのままに保っていると言い換えてもよい。私はその先輩の作品、文体がとても好きなので、ただただ恐れ入った。あにはからんや、締切の何週間も前に原稿を仕上げて編集者に渡すのだということまで発覚した。顎が落ちて戻らなかった。なにしろ、私はまず締切日の交渉から仕事が始まる。そのうえ単行本化、文庫化の際もアホほど時間をかけて校正し、手を入れているわけだ。こうして書くと己のアホが確定する。
自分で言うのもなんだが、他のことについては執拗ではない方だ。腹の立つこと悔しいこと後悔することは日々起きるけれど、土台が迂闊なのでほとんどが自業自得、ゆえに、ま、しゃあない、と居直ることにしている。幸いにして物書きなるこの稼業、ひとたび作品に没入すればたいていのことは忘れられる。
それでも原稿にだけはしぶとく向き合う理由はひとつ、楽しいからだ。暇だからではない。有難いことに、今のところは忙しくさせてもらっている。それでもこうまで手間暇をかけてしまうのは好きだからだ。人間、好きで楽しくなけりゃ長く続かない。ゲラに細々と朱を入れながら、お希以ちゃん、無鉄砲やなあ、無我夢中やなあと微笑んでいる。己の書いたものを読んで悦に入るという自家発電ではなく、もう少し距離を置いている。主人公は作者のものではない。小説の中で生きている。
ちなみに、お希以とは『グッドバイ』の主人公・大浦慶のこと。幕末から明治にかけて茶葉貿易で活躍した実在の人物である。
列強の圧にさらされたあの時代、日本の貨幣は海外流出が止まらなかったが、さような時勢にあって最も外貨を稼いだといえる女商人だ。茶葉、そして生糸が日本の経済を支えた。ゆえに彼女には伝説伝承が多い。巨万の財で勤皇志士の後ろ盾となった、入浴時には亀山社中の連中に背中を流させた、茶箱に隠れて上海に密航した、などなど。小説としては、女主人公の密航などとても面白いエピソードになる。書きたい。けれど、どこをどう調べても、租界に詳しい上海大学の教授が来日された時に訊ねても、書くべき条件が揃わなかった。そういう場合、いかにいい匂いを立てている種でもすっぱりと諦めねばならない。小説はあくまでもフィクションだから、歴史上の人物・事件を扱っていても史実を基にいかに遠くまで飛べるかに作者は力を注ぐ。けれど作者の欲や都合で筋に無理をさせると、史実でも嘘臭くなる。逆に、ここは書くの難しそうやなあ、厄介やなあと思うエピソードが史実とわかれば逃げを打つわけにはいかない。
お慶も厄介な事件に見舞われた。博物館にも裁判記録が残っているので許しを得て拝見したが、実に複雑怪奇な事件だった。抜きん出た成功をおさめた女性がいかなる目に遭うか、書きながら何度も嘆息したものだ。彼女は狙われ、足を引っ張られたのだ。事件の背景には男たちの妬み嫉み、相手が女なら泣き寝入りするだろうとの侮りもあったのではないかと私は思っている。彼女は目立ち過ぎた。今の世にも変わらぬ傾向があるのだから、当時はさぞだろう。
とにもかくにも、私は赤ペンを持ちながら『グッドバイ』の一行一行を読み直して考え、ドキドキし、溜息を吐き、ワクワクしたのである。茶畑の葉色の明るさを思い出し、海の波濤を眺め、祭のおくんちのシャギリを聞いていた。
まるで、長い光の中をお慶と共に歩いたような心地だ。
文庫のあとがきのような随筆になってしまった。やっと、グッドバイと手を振って送り出し、これからは彼女の背中を見守ることにしよう。