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昔からの大ファンだという三宅香帆さんが「腑に落ちる」と評するエッセイ集/松井玲奈著『私だけの水槽』書評公開

 松井玲奈さんの『私だけの水槽』(朝日新聞出版)が刊行されました。かつてはアイドルとして、今では俳優や作家としても活躍を続ける松井さんが2年をかけて、苦手なことも好きなことも、ありのままを書き綴りました。昔から松井さんの大ファンだという書評家・三宅香帆さんが「一冊の本」2024年6月号でご執筆くださった書評を、特別に公開します。

松井玲奈『私だけの水槽』(朝日新聞出版)
松井玲奈『私だけの水槽』(朝日新聞出版)

表現から離れた場所で潜る

 普段の活動を知っている人のエッセイを読むたび、腑に落ちる、という言葉を思い浮かべる。腑とはつまり内臓で、体の中心あたりにある臓器のことなわけだが、そこにすとんと落ちた納得のことを指す。たとえば私は松井玲奈さんを、アイドル時代から今の俳優・作家として活躍されている時代に至るまでずっと見ていて、そういう方のエッセイを読むと、なんだかすごく腑に落ちる感覚がある。――もちろん、私はテレビ越しや舞台越しにしか彼女のことを知らない。なのに、勝手にこちらが想像していた感覚と、文章で綴られている感情があまりにもぴたりと一致しているから、まったくもって勝手なことだが、「本当にそういう人だったんだなあ」と腑に落ちてしまうのだ。仕事に真摯で、ひとりが好きで、それでいて人間に対して愛情が深い、その軌跡が文章の表現にもくっきりと刻まれているのである。

 本書は、小説もエッセイもなんでも洒脱に綴る俳優・松井玲奈さんによる最新エッセイ集である。飼っている猫の話、芝居の話、三十歳という年齢の話、旅行の話、祖母が亡くなってしまった時の話……。芸能の世界で生きるひとりの女性が、日々の実感や悩みや趣味について飾らずに書いている。

 個人的な話になり大変恐縮なのだが、私は昔から松井玲奈さんの大ファンで、松井さんがきっかけで女性アイドルが好きになった。それまでとくにアイドルに興味がなかった私にとってYouTubeではじめて見た彼女の歌い踊る姿は衝撃だった。なぜかというと彼女は細くて白くて華奢な体でものすごい熱を放ちながら、生きる意味をアイドルソングの中で全身で表現していたからだ。それは決して難しい話ではなくて、単純にアイドルとして生きることがこの人にとっての表現なんだ、とYouTube越しですら分かるくらいのエネルギーだった。それは決して歌や踊りだけではなく、たとえばブログの一語や、総選挙やインタビューの一言にすら、隙なくちりばめられていた。――その熱量は、松井さんが俳優や作家になってからも、変わらなかった。俳優になって、彼女の姿を舞台やスクリーンやテレビドラマで見ることになっても、やっぱりその熱量は変わらず発されていた。そしてそれは、きっとこのエッセイを読んだ人にも伝わるだろう。「松井さんって本当にまじめで、熱量が高くて、隅々まで表現を怠らない人だなあ」と分かるだろう。

 たとえば、松井さんがずっと憧れていたという劇団☆新感線の舞台への出演について書いた「呼吸の置き方、学び方」の一文。本項では、普段なかなか素人が知ることのできない俳優業の裏側について綴られている。松井さんはモナ(シェイクスピアの『オセロー』におけるデズデモーナである)役を演じる。しかし演出のいのうえひでのりさんから、「松井玲奈では強すぎる」と言われてしまう。つまりモナは、観客や周囲の人間から愛されて守ってあげたくなるような役柄にならなくてはいけないのに、松井さんは基本的にメンタルがマッチョなのだ、さあどうする!という悩みが率直に綴られるのである。正直、普段舞台や映画を見る側からすると、役作りといえば外見を作り上げることくらいしか想像がつかず、メンタルの部分をいかに作り上げるか、という点をこんなふうに赤裸々に書いてくれたエッセイは初めて読んだのでとても面白かった。「強すぎる」がために困ることもあるのか、と少し私は笑ってしまった。が、それにしても俳優とは因果な商売である。弱さも強さも、苦手も得意も、すべてまとめてそれは演じる材料になるのだ。

 そう、本書はある意味で松井玲奈というひとりの俳優が、水槽に潜ってひとりで自分の好きなことや嫌いなこと、あるいはできることやできないこと、自分とはどういうことを感じ、どういうふうに呼吸する人間で、そしていったい何がしたいのかということを、具に観察し言語化し、そしてまた水槽から出て演技に用いる、その過程を綴ったエッセイ集でもある。――もちろん、彼女の生活すべてが演技のためにあるなどと言いたいわけではない。しかしそうではなく、ひとつひとつ自分のやりたいことや好きなことや苦手なことを点検しながら文章に落とし込む彼女のエッセイを読んでいくと、不思議とそこには、松井玲奈というひとりの俳優の姿が浮かび上がる。それは私生活ではどこかで水槽に潜らなければ、舞台というスポットライトの光を浴びる場所で輝けない、因果な俳優という仕事に取り憑かれたひとりの仕事人の記録でもあるのではないか。そんなことを思うと、一読者としては腑に落ちるものがやっぱりあるような気がしてくる。


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