「せり場」で売られた少女たち 故・森崎和江の代表作『からゆきさん』本当の衝撃【文庫解説:文芸評論家・斎藤美奈子】
「からゆきさん」。漢字で書けば「唐行きさん」。そんな人たちがいたことを、この本ではじめて知った方もいるでしょう。
「からゆきさん」とは、もともとは江戸時代の末期から、明治、大正、昭和のはじめくらいまで、海をわたって外国(唐天竺)に働きにいく人を指す九州西部・北部の言葉でした(唐天竺とは中国とインドを意味しますが、遠い外国の別名でもあったので、「外国に行く」ことを「唐行き」と呼んだのです)。ですが、やがてそれは海外に売られた日本女性の総称に転じます。
からゆきさんの出身地として、とびぬけて多かったのは、長崎県の島原地方と熊本県の天草地方でした。森崎和江『からゆきさん』は、そんな九州から大陸へわたった「からゆきさん」たちの足跡を、自らの足と文献の両面から丹念に追った記念碑的なノンフィクション作品です。
単行本のかたちで出版されたのは1976年ですが、その一部(「おヨシと日の丸」に該当する部分)は先に発表されており(「からゆきさん あるからゆきさんの生涯」/『ドキュメント日本人5 棄民』1969年・所収)、同じくからゆきさんを描いたノンフィクション、山崎朋子『サンダカン八番娼館』(1972年)にも森崎和江を訪ねて助言を求める場面が出てきます。
森崎和江とその作品は、1960~70年代の読書界では、ちょっと特別な存在でした。そうだな、私たちが行く道を照らしてくれるカンテラ(炭鉱で使うランプのことね)みたいな存在だったといえばいいかしら。
1927年、韓国慶尚北道大邱に生まれた森崎和江は、戦後は福岡県に居を定め、1958年、評論家の谷川雁、ルポライターの上野英信とともに文芸誌『サークル村』を創刊します。『サークル村』は炭鉱労働者の連帯をめざした雑誌でしたが、多くの労働者・農民・主婦などが参加し、およそ3年という活動期間にもかかわらず、日本の思想界に大きな影響を与えました。『苦海浄土――わが水俣病』(1969年)で知られる石牟礼道子も『サークル村』の同人です。
しかし、森崎和江は『サークル村』の活動に飽き足らなかった。そこには労働者の視点しかなく(もっといえは男性目線で塗り固められており)、森崎が強くこだわる「性」や「植民地」の問題が入り込む余地はなかったためでした。
『サークル村』創刊の翌年に森崎は個人誌『無名通信』を創刊しますが、これは女性の自立と連帯を模索したミニコミでしたし、デビュー作『まっくら――女坑夫からの聞き書き』(1961年)は炭鉱で働く女性たちの声を集めた作品でした。以後も森崎は筑豊の炭鉱町に住み続け、『第三の性――はるかなるエロス』(1965年)、『ははのくにとの幻想婚』(1970年)、『闘いとエロス』(同年)などの問題作を次々に放って、読者(とりわけ迷える女性たち)の心を鷲づかみにしていきます。
1960年代後半から70年代は、ベトナム戦争や公害をキッカケに、近代を問い直す動きがいっせいに巻き起こった時代です。ウーマンリブ運動、女性史ブーム、オーラルヒストリー(市井の人々の声を中心にした歴史)の発見。いずれも70年代の重要なムーブメントでしたが、森崎和江の仕事なくしてこうした達成もなかっただろうと私は思います。フェミニズムという語もジェンダーやセクシュアリティという概念も未知だった時代に、あるいはエスニシティ(民族的なアイデンティティ)やポスト・コロニアリズム(植民地の視点からの歴史の問い直し)といった研究ジャンルが立ち上がる以前に、誰よりも早く「性」や「植民地」を意識化し、作品化したのが、森崎和江だったのです。
で、『からゆきさん』。この本は「性」と「植民地」という森崎和江の問題意識が凝縮されている点でも、また自身の関心事と歴史をつなぐ新しい方法論を獲得したという点でも、彼女の代表作といっていいでしょう。
本書の第一の衝撃は、もちろん読者を震撼させる、この中身です。
<20年ほどむかしのこと、おキミさんは木立ちにかこまれた奥ふかい家に、数人の家族とともに住んでいた。昼間は、家族らは勤めに出はらうのか、しんとしていた。/わたしはおキミさんと顔をあわせることは少なく、いつも綾さんをとおしてその様子をしのんでいた>という思い出話から本書ははじまります。
友達の綾さん母娘の尋常ならざる言動に、ひとまず読者はギョッとするわけですが、やがて本書は、おキミさんが16歳で朝鮮半島に売られるまでの経緯を皮切りに、学校では教わらなかった近代の裏面史を描いていきます。
口べらしのために「養女」の名目で海外に売られた少女たちが多数いたこと。年少の少女はたった12歳だったこと。「せり場」で落とされるという、文字通りの人身売買が堂々と行われていたこと。朝鮮半島や中国のみならず、シベリア、上海、ハワイ、アメリカ、オーストラリアにいたるまで、娼妓として連れてこられた日本人の娘たちがいたこと。いちいち衝撃的です。
からゆきさんが続出した背景には日本の公娼制度があり、それは当時の植民地政策とも結びついていました。外国人の手で大陸に売られたおキミたち。その延長線上で、今度は日本人の手で台湾や朝鮮の娘たちが連れ出される。
<飢えて、食べものを異邦人に求めていたぶられ、刑場に消える朝鮮の女たち。飢えて、養女に出されて美服をまとい、苦界に死にゆく日本の娘たち。どちらもこのような現実のなかで、くには諸外国と交流しはじめたのである>と、森崎は書きます。国家が個人の人生を左右すること、とりわけ女性の性を売り買いすることへの深い怒りが、そこには込められています。
しかしながら、本書の第二の魅力、本書が真にユニークなのは、これが単なる告発の書、にとどまっていない点でしょう。
<「働きにいったちゅうても、おなごのしごとたい」>
老女が放ったこの言葉から、森崎は「密航婦」という言葉が頻出する新聞を読み続け、また旧赤線地帯や少女たちの出身地に足を運ぶことで、「からゆきさん」という言葉に込められた、別の意味を見出してゆくのです。
<ふるさと以外の人びとは「密航婦」「海外醜業婦」「天草女」「島原族」「日本娘子軍」「国家の恥辱」等々とよんだ<<今日の価値基準だけで、ただその一本の柱だけで、からゆきさんをみるとするなら、わたしたちは「密航婦」と名づけた新聞記者のあやまちをくりかえすことになるかもしれない>と。
海外に向かって開かれた長崎の村むらは<海外への出稼ぎの誘惑に対して、警戒的ではなかった>こと。また「夜這い」や「若者宿」「娘宿」といった風習に見られるように、村には<数人の異性との性愛を不純とみることのない>素朴であたたかい性愛の文化があったこと。――なぜ「からゆきさん」の出身地は天草や島原だったのか、という疑問に答えるかたちで示された以上のような見解は、私たちをもうひとつ広い世界へ連れ出してくれます。家父長的な中産階級の性道徳だけではつかめない、女たちの大らかさと先取性!
長崎からロシアへ向かった「おろしや女郎衆」。上海の娼楼からシンガポールを経てインドで成功したおヨシ。プノンペンでフランス人と結婚したおサナ。「海外醜業婦」という言葉ではくくりきれない多様な女性たちの姿は、本書のもうひとつの読みどころです。むろん、それは<この村びとの伝統を悪用したものにいきどおりを感じている>という慨嘆ともひと続きなのですが。
『からゆきさん』をすでに読了した方なら、これがジャーナリストが手がけたノンフィクションとは一線を画していることに気づくでしょう。
綾さんとおキミさんという身近に存在した女性に寄り添いながらも、縦横無尽に広がる森崎和江の筆に、私はかつて海外へ果敢にわたり、苦難の中を生きぬいた「からゆきさん」たちと共通した気質を感じます。
「からゆきさん」はすでに歴史の1ページとなりました。しかし、本書で描かれたような売買春の構造は、変わったでしょうか。
本書が出版された1970年代後半は、日本人男性が東南アジアや韓国へ女性を買いに行く「買春観光ツアー」が社会問題化し、80年代に入ると東南アジアから日本に出稼ぎにくる「ジャパゆきさん」が注目されました。また、90年代以降は、日本軍兵士を相手にした戦時中の「慰安婦」の問題が浮上。国際的な政治問題に発展し、いまだ解決していません。いっぽう、国内に目を転じれば、いわゆる「格差社会」を背景に、生活費や学費のために性風俗へ向かう女性は増えている。「娘身売り」はけっして過去の話ではないのです。
そう考えるとき、『からゆきさん』は、あらためて、21世紀のいまこそ読まれるべき本だといえましょう。40年前の森崎和江が私たちのカンテラであったように、本書が、性の商品化を、国際間、地域間の経済格差を、そして女性の生き方を考えるうえでの、大きな手がかりであることはまちがいありません。