「これは熱い書物である。」佐々木敦さんによる藤井義允著『擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム』書評
私たちは「人擬き」であるしかない
藤井義允とは彼が所属するミステリを中心にさまざまな文化的事象を横断的に扱う「限界研究会(限界研)」の関係で何度か会ったことがある。といっても私はメンバーではないのだが、限界研のイベントのゲストに呼んでもらったり、呑み会をご一緒したり、完全ワンオペだった文学フリマの撤収を手伝っていただいたこともあった(その節はありがとうございました)。彼が「小説トリッパー」で長編評論を連載していたことは知っていたので、その折に単行本化の話も聞いたと思う。遂にこうして刊行の運びとなり、まずは初単著、おめでとうございます。
面識はあるものの、上に書いたぐらいの距離感の知り合いなので、あまり深く突っ込んだ話を二人でした記憶もないのだが、クセ強揃い(ホメてます)の限界研の中で、藤井さんは非常にノーブルというか、大変穏やかな、ほとんどおとなしいと形容してもよい物腰の方で、しかしふとした瞬間に、批評という行為に対する熱情のようなものを覗かせるのが印象的だった。そしてその印象は本書を一読することで再認され、より強化されることになったのである。これは熱い書物である。その熱さについて書きたいと思う。
書名に「擬人化」というワードがあり、副題に「脱人間主義」というワードがある。ここにすでに本書の論理構成が端的に示されていると私は思う。すなわち、人間(性)を/から脱しようとする試みと、擬人=人擬きになることの(おそらくは不可避の)通底。「はじめに――人間ではない「私」」で著者は「人擬き」をこう定義する。
「人間」らしさを持った「人間」ではないもの
「擬」と「脱」の共存と循環。「いずれにせよ「本物」ではないもの」と著者は言い換えてみせる。こんな「人擬き」が描かれた作品群をこれから読み解いていくのだと宣言して、この本は開始される。では何故、人擬きは誕生したのか? それは現代社会のディストピア的状況のゆえである。確かに多くの意味で、いや、あらゆる意味で、ディストピアが日常となった世界を私たちは生きている。それは最早特別な感覚ではなく、素朴な実感でさえある。そんな現在の只中で、「どうやって「希望」や「私」、そして「言葉」を取り戻すのか」を問い続ける者がいる。「そんな作家たちの試みは美しい。言葉を使って現状を打破しようとしている姿に胸を打たれる」。私は率直に、こう書ける著者の姿に胸を打たれる。これはとても「熱い」言葉だ。
希薄な人間性を持ち「人間からかけ離れた存在」でありながら「自分は人間である」という矛盾を抱えたもの。脱人間化された存在。それが今の僕であり、僕たちではないか。その営みを、ナチュラルに現代の表現者たちは体現しつつある。
思うに、本書のひとつの特徴は「僕」という一人称を採用したことだと思う。村上春樹などを見てもわかるように「僕」は必ずしも若さを表す語ではないが、しかしここでは論述の主体が「私」と名乗るのと「僕」と名乗るのとでは大きな違いがある。そう、これは「僕」の話であり、「僕たち」の話なのだ。実は「はじめに」の最初の一文は「自分の存在の希薄さを常に感じながら生きてきた」である。この「自分」とは「僕」のことだ。そして「僕たち」でもある。今ここで、人擬きであるしかないのは、他でもない著者自身なのだ。だからこれははっきりと、藤井義允の実存をめぐる思索の書でもある。このことを彼はまったく隠そうとはしていない。これもまた「熱さ」の証明である。
登場するのは、朝井リョウ、村田沙耶香、平野啓一郎、古川日出男、羽田圭介、又吉直樹、加藤シゲアキ、米津玄師である(他にも数多くの固有名詞が出てくる)。個々の表現者の「擬/脱」のありようはさまざまだが、著者の視座が一貫しているのは、それぞれの作品から抽出されモデル化される、敢えて単純化して記すなら「生きづらさ」に対して、その作品自体から応接と応戦の手立てを見出そうとしていることだ。著者は「人間」のアクチュアルな、そして本質的な「問題」に対峙しつつ、絶望も諦めもしていない。どうにかして現在形の表現に出口(らしきもの)を探り当てようとしており、それがそのまま著者自身の「生きづらさ」との格闘にもなっている。それは人擬きでありながら人であり続ける他ない「僕」と「僕たち」、そして私と私たちのサバイバル・ガイド、少なくともそれを書くための準備になっている。むろん、これも「熱さ」だ。だがしかし、この熱は今こそ必要なものなのだと私は思う。